06014

虚無なる「匣の中の匣」

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mixi(7) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 たとえ話をふたつ 2007年03月03日 00:00

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648
No.245 - 2007/05/21(Mon) 07:09:13

mixi(7)-14 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 16:15

☆ 杉澤鷹里さま

> なるほど、良く分かりました。
> はらぴょんさんという被害者のためにも、アレクセイ論を展開することにします。


ええ、結構です。「アレクセイ論」を書いていただけるとは、私としても本望ですからね。楽しみに読ませていただきます。

なお、ご論文は、第三者の通読に便利なよう、次のページへの連載をお願いしたいと思います。しかし、ご自身の日記ページで連載をしたいということであれば、そのページへのリンクを、このページに張りますので、その点はお気づかいなく。

・ 「杉澤鷹里流「アレクセイ論」あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」」
   2007年3月10日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=369493150&owner_id=856746
No.297 - 2007/05/28(Mon) 21:52:45

mixi(7)-13 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 15:26

アレクセイさま、

 なるほど、良く分かりました。
 はらぴょんさんという被害者のためにも、アレクセイ論を展開することにします。
No.292 - 2007/05/28(Mon) 16:12:12

mixi(7)-12 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 15:12

☆ 杉澤鷹里さま

>  あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
> 「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
> という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。


貴方の気持ちも、わからないではありません。しかし、現実には、貴方のような方が、貴方ご自身の弱さを肯定するために、はらぴょんさんのような人を無責任に甘やかして、「大人として筋を通す」ことのできない「(同類としての)甘ったれに育てあげた」とも言えるという事実を、ご理解なさっていますか?

貴方ご自身、「誠実ぶりながら、誤魔化しを弄する」という「不誠実」をくりかえしながらも、はらぴょんさんの無責任さを容認することで、自分自身の「不誠実」を、「寛容」に摺り替えている。これが現実です。
自分の欠点を認めるのに『痛みや労力、リスク』が伴うというのは、当然です。でも、それで死ぬわけではない。
前にも指摘しましたが、貴方のご意見はいつでも「加害者の痛みだけ」であり、「被害者の痛み」には、まったく目がとどいていない。だから、可能な謝罪ですら、『痛みや労力、リスク』を理由に「しないで済ませられれば、それに越したことはない」もの扱いにできるのです。
つまり、貴方のなさっていることは、はらぴょんさんの肯定に見せかけた、「自己肯定」であり「自己のアリバイ作り」でしかありません。

したがって、はらぴょんさんをどうこう言う前に、貴方自身がそうした「自身への甘やかし」を、反省すべきことでしょう。そうでなければ、貴方には、はらぴょんさんを批判する権利もなければ、むろん擁護する権利も無いのです。
「寛容」を語る人間が、誰よりも自分自身に「寛容」だなどというのは、あまりにも露骨な欺瞞(ご都合主義)です。そのことを、貴方自身が反省してから、他人のことにも口出しすべきです。

> はらぴょんさんに敬意を表します。

と、ここで使われた『敬意』という言葉の、なんと腐りきり弛みきっていることか。こんな言葉では、どんな真実も伝えられなしないでしょう。こんな「偽の言葉」では。

はらぴょんさんは、たしかに「愚か者」です。でも、貴方のように「狡猾」ではないところが、救いと言えば救いでしょう。


☆ はらぴょんさま

ということで、私は「深追い」はしません。貴方のなさったことについて「大人のけじめ」をつけてくれと言っているだけで、これはオフの社会では当たり前のことです。そしてこれは、社会人として会社勤めしている貴方なら、とうぜん知っているはずのことですよ。

「甘い言葉」に寄りかかるのは、新興宗教の教祖の甘言によりかかって「現実感を喪失する妄信者」、あるいは「疲れがとれますよ」という甘言のままに「覚醒剤中毒になってしまう人」と、なんら選ぶところはありません。現実に自分のやったことは、最後まで自分で責任を取る。これは、大人として当たり前のことです。

そして本来ならば、私が求めなくても、貴方が進んでやるべきことでさえあったのです。それを、ここまで懇切丁寧に説明され、事実を明らかにしてもらいながら、それでもきちんとけじめを取れないのであれば、それは貴方が、甘ったれの無責任男であるということを、自ら世間に証明することになるだけです。

自分の醜さを全面的に認めたって、他人は笑ったりはしません。他人が笑うのは、見え透いた醜さや愚かさを、自分の主観だけにすがって、みっともなく自己肯定する態度の愚かしさなんだという事実を、この際よく理解して下さい。
No.291 - 2007/05/28(Mon) 16:11:32

mixi(7)-11 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 12:27

アレクセイさま、

 あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。
No.290 - 2007/05/28(Mon) 16:10:28

mixi(7)-10 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 12:15

はらぴょんさま、

 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。
No.289 - 2007/05/28(Mon) 16:08:41

mixi(7)-9 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 01:04

☆ はらぴょんさま

この点についての陳謝は、受け入れましょう。

しかし、より根本的な「どうして、そんな下らないことを、わざわざ、あの段階になって、やったのか?」という問題についても、答えてもらわなければなりません。私やホランド氏が、思想哲学について特に詳しいわけではないということくらい、ずっと前からご存じでありながら「なぜ今さら」あんなことをしたのか、ということです。

つまり、貴方が、私から説明を求められているのは、今回の問題は、貴方の「私への妬みややっかみに由来する、秘められた憎悪が、私の小森健太朗批判を切っ掛けとして噴出し、専門知識を振りかざすというかたちで、私にぶつけられたのではないか」という点にあります。

当然、この問題は、貴方に、貴方の心の「暗い部分」についての、内省と剔抉を強いるものです。しかし、それなくしては、私の今回の批判は、何の意味もなさないし、貴方にとっても本質的な反省とはならず、やがて「喉元すぎれば」で忘却され、杉澤氏曰くの『鈍感さ』に回帰することになるでしょう。

だから、問題は「読み違いであったかどうか」ではなく、「なぜ、そんな読み違えをし、しかもそれを自制もなく書いたのか」ということです。そのあたりをじっくり考えて、お答え下さい。

杉澤氏にも書きましたが、私は「幕引きのための幕引き」など、これっぽっちも求めてはいません。
なぜならば、私は「政治家」ではなく「批評家」だからです。
No.288 - 2007/05/28(Mon) 16:07:44

mixi(7)-8 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年03月10日 00:35

 『構造と力』の引用部分は、浅田彰の自説ではなく、メルロ=ポンティの説の浅田彰による要約であり、「アレクセイの花園」におけるホランド氏の浅田彰氏の批判は的外れという批判は、ホランド氏とkamui氏の対話という元の文脈では、kamui氏が自説をうまくいい現したものとして、『構造と力』を引用しており、ホランド氏は、kamui氏の自説を批判するために、この部分を攻撃しているということがわかりました。したがって、的外れなのは、元の文脈に即して考えなかった私のほうであり、ホランド氏の方ではありません。
 大変な錯誤があったことに深く陳謝いたします。 
No.286 - 2007/05/28(Mon) 15:55:16

mixi(7)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 13:42

☆ 杉澤鷹里さま

毎度おきづかい、恐縮です(笑)。

私も、はらぴょんさんの意図が奈辺にあるかは理解していましたが、「曖昧な妥協」など「批評家のすべきことではない」ので、きっちり「峻拒」させていただきました。

それにしても、はらぴょんさんは学習能力が無さすぎますよ。ついこないだ「謝罪もどき」(2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」)をして批判されたばかりなのに、またぞろ、こんないい加減な態度を採る。

はらぴょんさんには、批判においても謝罪においても、「覚悟」というものが無さすぎます。特に、謝罪というのは、相手に自分の首を差し出すくらいの覚悟がなければならないものなのに、はらぴょんさんの謝罪には「ねっ、これくらいで勘弁してよ」という「甘え」が見え見えなんですね。で、「おまえ、いったい誰に甘えてるんだ?」って、ことです。

だから、親切な私としては、はらぴょんさんに「社会人の謝罪の仕方」を教えてあげるつもりなんです。もちろん、謝罪したくないならしなくてもいいけれど、そのかわり「二十年殺し」につきあう覚悟をしていただきたい。こういったことは、最初にぜんぶ「警告」しておいたことなんですからね。
No.282 - 2007/05/27(Sun) 09:55:07

mixi(7)-6 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 22:07

 いまだ喩えレベルであれ、歩み寄りの一歩が示されましたね。と、書こうとした矢先に。トホホ。
No.275 - 2007/05/26(Sat) 22:05:50

mixi(7)-5 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 21:23

  はらぴょん論 ――第4章  逃避による逃避のための逃避的な逃避



 はらぴょんさんによる今回の日記、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

は、明示こそされていないものの、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のページにつづく、私(アレクセイ)と、はらぴょんさんの「議論」の延長線上にあるものです。


 これまでの流れをご紹介すると、

(1) 2007年02月10日「『魔』」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、4つ

(2) 2007年02月15日「批評におけるパラダイムの混在」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
    (最初(2月19日)の無題コメントは「謝罪要求と警告」とでも題すべきもの)

(3) 2007年02月20日「見解」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」他

(4) 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」他

(5) 2007年02月24日「齟齬の根底にあるもの」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第2章 はらぴょん批評の「根底にあるもの」」他

(6) 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」他

(7) 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」(本稿)


ということになります。

 以上の「経緯」であり「やり取り」が、「議論」の名に値するものだとは思いませんが、これは便宜的な呼称とご理解下さい。

                    ○

 さて、今回のはらぴょんさんの日記、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

ですが、端的にいえば、これは私とホランド氏への「間接的な誹謗」です。
(※ もちろん、 真の標的は私(アレクセイ・田中幸一)ですし、いちいち『私とホランド氏』とするのは、書くのも読むのも煩瑣になるだけなので、以降この「議論」においては、『私とホランド氏』という意味で「私」という風に便宜的に表記したいと思います)

 さて、はらぴょんさんはこの「たとえ話をふたつ」で、どうして「名指し」を避け、具体的な反論として提示することを避けているのでしょうか?

 その理由のひとつは、こうした手法が、はらぴょんさんの常套手段だという側面があります。
 これは「誰を」批判しているのかを明確にしないことにより、その相手からの反論を躱すためではなく、相手を限定しないことにより、批判している相手(この場合は私)の意見について、「明確な説明」なり「限定」なりをする「義務」を曖昧にしようとする意図から来ています。
 つまり、このように書けば、批判者であるはらぴょんさん自身が、「私(アレクセイ)に対する批判」としては、不十分・不適切な説明しかしていなくても、読者が勝手に、何となく「アレクセイのことを書いているのだろう」と理解してくれ、ひとまず『不十分・不適切な説明』で済ませることができるからです。

 たとえば、コメント欄に、杉澤鷹里氏が、

> 今回のケースで言えば、「科学者Aが、化粧品Bの中に、未知の有害物質Xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、既知となった有害物質xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
> そして科学者Aは有害物質Xの発見とそのことの重要性を主張しているのであって、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであることを否定しているものではない」というのが近いかと思います。

とコメント(2007年03月03日01:20)しているとおりで、もしもこうした指摘がなければ、この『たとえ話』が、いかに恣意的であり的外れであったとしても、これは一般には「アレクセイ批判」として、機能する(「レッテル貼り」になる)ようになっているのです。

 一連の議論について、はらぴょんさんが、途中からその継続性を示す「リンク」を張らなくなったのも、同じ意図に発するものだと言えるでしょう。はらぴょんさんには「やり取り全体を読んでもらって、その上でどちらが正しいかの判断を読者に任せよう」などという発想は欠片もなく、いかに読者を誘導し、自身の恣意を読者に植えつけるか、ということしかないのですね。


 しかし、こうした「目先の誤魔化し」は、はらぴょんさんの「逃避癖」の表れでしかないことも明白で、それはもしも、はらぴょんさんに本当に「読者は、どう読むか?」というのが見えていれば、こういう姑息な誤魔化しは選ばなかったであろうことに明らかでしょう。

 これまでの一連の議論を見ればわかるとおり、はらぴょんさんの意見は、どんどん応答性を欠き、具体性を欠き、独白性を強め、抽象的なものへと変化していきます。

 つまり、最初に「非難」され「謝罪を求められた」際はこれを「拒否」し、「具体的・論証的な批判」がなされると、その「内容」についてはスルーしながらも、「謝罪めいたポーズ」だけを示してみせた。しかし、それが通用しないとなると、今度は「具体的・論証的な批判」の内容については無視して、一方的な「誹謗」する。すなわち、

> アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
                     (「齟齬の根底にあるもの」より)

> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
                     (「『テロルの現象学』について」より)

といった「精神病者扱い」です。
 そして、こうした「誹謗」に対し、私が「事実を示して反論」すると、その反論には沈黙を持って応じ、今度は、

> しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。
                 (「『テロルの現象学』について」より)

と、私がまだ具体的には論破していなかった「瑣末な部分」を強調して、さも「反論できないんだろう?」と言わんばかりの「読者アピール」をします。しかし、これにも反論されると、今度は「たとえ話」に逃避する、といった具合です。

 つまり、はらぴょんさんの態度は、一貫して「内向的逃避」とでも呼べるものです。
 当然、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」も、こうした「現実逃避」の道具という性格を帯びたものであり、だから「実践」には役立たない一方、「逃避」の役には立っているから、それを捨てることができないのです。


 今回の「たとえ話」も、主題を「わかりやすくするため」のものではなく、主題そのものを「回避・逃避」するために用いられたものでしかなく、当然すこしもわかりやすくはなっていません。


『たとえ話をしよう。
200X年、科学者Aが、化粧品Bの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その後、科学者Aが、自分の次の仕事の予定は、化粧品Dの分析であったとし、化粧品Dにおける有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
私は、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであると思う。

もうひとつ、たとえ話をしよう。
第1場面.200X年、科学者Aは、科学者Eと某所で会話をしていた。
科学者Eは、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。
科学者Aは、『G』という本は読んだことはなかったが、その場の会話から「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と返答した。
第2場面.その後、科学者Bは、科学者Aと科学者Eの対話を知り、お節介にも「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げた。
科学者Aは、「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。
さて、考えてみなければならないのは、第2場面で、科学者Aは「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。」と言っているが、それは「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者AはFの説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、Fによって語られた他人の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、Fにも向けられたものであることは間違いない。』 (以上、「たとえ話ふたつ」全文)


 ここで示された2つのたとえ話を、(たとえ話1)(たとえ話2)としておくと、(たとえ話1)は『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』という竹本健治作品に秘められた特性に関する、私とはらぴょんさんの指摘の関係を、(たとえ話2)ではホランド氏とkamui 氏の議論に関するはらぴょんさんのコメントの問題を、それぞれ「たとえ話」として語っていることになっています。

 しかし、この「たとえ話」は、主題(元となる事実)を正確に反映するものではなく、実質的には、タチの悪いデマゴギーにしかなっていません。
 例えば(たとえ話1)の「仮名」に、対応する現実の名称を当て嵌めてみましょう。

200X年、科学者A(アレクセイ)が、化粧品B(『狂い咲く薔薇を君に』)の中に、人体に有害物質(竹本健治作品に秘められた特性)が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その翌年、科学者C(はらぴょん)が、化粧品D(『キララ、探偵す。』)の中に、人体に有害物質(竹本健治作品に秘められた特性)が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その後、科学者A(アレクセイ)が、自分の次の仕事の予定は、化粧品D(『キララ、探偵す。』)の分析であったとし、化粧品D(『キララ、探偵す。』)における有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
私は、化粧品D(『キララ、探偵す。』)における有害物質の発見者は、科学者C(はらぴょん)であると思う。

 ここには、2点の「語り落し」があります。

 1つ目は、「化粧品B・化粧品D」と書くと、一見無関係な、別の会社が製作した「化粧品」のように見えますが、実際には、それらは共に、竹本健治という作家の『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』という作品であり、正確な「たとえ」を期するのなら「研究者Tによって開発された化粧品B1・化粧品B2」とでもすべきでしょう。
 2つ目は、 科学者C(はらぴょん)が「科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいたという事実」です。

 つまり、「研究者Tによって開発された化粧品B1」に「特有の毒性」があり、「そのひとつは『かくかくしかじか』という要素に表れている」という科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいる者であれば、同じ「研究者Tによって開発された化粧品B2」のなかに「『かくかくしかじか』という要素」を見つければ、「化粧品B2」に「研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性」があるを見るのは必然であり、それは「発見」でも何でもなく、単に先行論文の「適用(流用)」でしかない、ということです。

 そして単なる「適用(流用)」をした 科学者C(はらぴょん)が、科学者A(アレクセイ)に対し「私の方が先でしたね」「たぶん、貴方も指摘すると思って、先回りしたんです」などと言う行為が失礼千万であることは論を待たず、それを科学者A(アレクセイ)に非難されて、科学者C(はらぴょん)が「化粧品B2に関する、研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性の発見は、私が先だ。貴方にとやかく言われる筋合いではない」などと言うのは「盗人猛々しい態度」でしかないのも、言うまでもないことなのです。

 ともあれ、はらぴょんさんの「たとえ話」には、このような「重要なポイントの語り落し(欺瞞)」がある、ということです。

 (たとえ話2)の方では、こうです。

第1場面.200X年、科学者A(ホランド)は、科学者E(kamui)と某所で会話をしていた。
科学者E(kamui)は、「F(浅田彰)さんが、その著書『G』(『構造と力』)の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。
科学者A(ホランド)は、『G』という本は読んだことはなかったが、その場の会話から「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と返答した。
第2場面.その後、科学者B(はらぴょん)は、科学者A(ホランド)と科学者E(kamui)の対話を知り、お節介にも「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でなく、F(浅田彰)の論敵(メルロ=ポンティー)の説なんですよ。」と、科学者Aに(ホランド)告げた。
科学者A(ホランド)は、「自分が批判したのは、(科学者E=kamui)会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。
さて、考えてみなければならないのは、第2場面で、科学者A(ホランド)は「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。」と言っているが、それは「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。F(浅田彰)は間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者A(ホランド)はF(浅田彰)の説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、F(浅田彰)によって語られた他人メルロ=ポンティー)の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、F(浅田彰)にも向けられたものであることは間違いない。

 ここにも、2つの「語り落し」と、1つの「デタラメな説明」があります。
 まず1つ目の「語り落し」は、

> 科学者E(kamui)は、「F(浅田彰)さんが、その著書『G』(『構造と力』)の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。

の部分で、kamui氏は、ホランド氏に、単に「浅田彰の言葉」を紹介したのではなく、「自身の考えを代弁するもの」として「引用」した、というのが、事実です。つまり、ホランド氏は、それをkamui氏の考えを「代弁するもの」としてコメントしており、この時点ではそれが、浅田彰の言葉か、メルロ=ポンティーの言葉か、はたまた実はkamuiのオリジナルかはわからないのだから、「浅田彰の思想」は問題にならない(できない)のだ、ということです。

 そして2つ目「語り落し」は、

> 第2場面.その後、科学者B(はらぴょん)は、科学者A(ホランド)と科学者E(kamui)の対話を知り、お節介にも「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でなく、F(浅田彰)の論敵(メルロ=ポンティー)の説なんですよ。」と、科学者Aに(ホランド)告げた。
>科学者A(ホランド)は、「自分が批判したのは、(科学者E=kamui)会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。

という部分です。
 科学者B(はらぴょん)が科学者A(ホランド)に告げたのは、「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でなく、F(浅田彰)の論敵(メルロ=ポンティー)の説なんですよ。」という「事実だけ」ではありません。はらぴょんさんは、ここ事実を告げることによってホランド氏の「浅田彰批判」が的外れであると、専門家ぶって、その無知を上げつらったのです。この事実が、ここでは「故意に」語り落されています。
 それに、そもそも、知らなかった事実を指摘されただけなら「ああそうなんですか、ご教示ありがとう」となっていたはずで、そうならなかったのは「事実の教示」が、はらぴょんさんの主眼ではなかった、ということです。

 ホランド氏に代わって私が、はらぴょんさんに対し『お前は、私を愚弄するのかね。』と激怒したのは、はらぴょんさんが「事実を指摘したから」ではなく、「的外れな事実認定(=ホランド氏が浅田彰批判をした)」に基づいて「的外れな愚弄行為(=『構造と力』も読んでいないくせに浅田彰を語るな、という愚弄)」を「本質的ではない(瑣末な)事実の指摘(=「当該部分は、浅田彰の意見ではなく、浅田によるメルロ=ポンティーの要約である」という指摘)」によって行ったからです。
 つまり、「たとえ話」で言えば、「おまえの母さん、でべそ(だから、おまえも出来損ない)!」と言って愚弄した場合、仮に母親が事実「でべそ」であったとしても、その愚弄行為が正当化されるものではなく、逆に非難されるべきものだ、ということです。

 そして、「デタラメな説明」とは、無論『さて、考えてみなければならないのは〜』以下の部分です。

> 第2場面で、科学者A(ホランド)は「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。」と言っているが、それは「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
> 第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。F(浅田彰)は間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者A(ホランド)はF(浅田彰)の説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、F(浅田彰)によって語られた他人メルロ=ポンティー)の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、F(浅田彰)にも向けられたものであることは間違いない。

 まったく意味不明です。ここで問題となっているのは、はらぴょんさんの言う『第1場面』における、kakui氏が「自分の考えを代弁するもの」として「浅田彰の言葉として引用した文章」に対する、ホランド氏の否定が、「kamui氏の考え」への反論か、「浅田彰の考え」への反論か、ということです。だからこそ、私は、ホランド氏が、引用元である浅田彰の『構造と力』は読んでいないと「事前に断っている」事実を指摘し、したがってホランド氏の「kakui氏による引用文」への反論は、「kamui氏への反論」ではあったも「浅田彰への反論」ではありえない。だから、はらぴょんさんの批判(愚弄)は「的外れ」だとしたんですね。

 ここでの議論では、はらぴょんさんの都合によって、科学者E(kamui)の存在が、早々に「消されて」います。問題となったホランド氏の意見(発言)は、kakui氏とのやりとりで、「kamui氏の意見」に向けて語られたものなのに、はらぴょんさんは、自分の都合によって、kamui氏の存在を隠蔽して、ホランド氏の言葉を、選択の余地なく、残る「浅田彰」(F)と結びつけようとしているのです。


 以上のように、はらぴょん氏の「たとえ話」は、事実を「わかりやすくするため」ではなく「事実を隠蔽して、読者を誤誘導するため」に採用された「欺瞞」だと言えるでしょう。

 ですから、はらぴょんさんの今回の日記、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

の問題点は、杉澤鷹里氏が指摘するような「譬喩が適切ではない」というようなことではなく、「事実をそのまま論ずることを避けるために、たとえ話に逃げて誤魔化している」という点に見い出されるべきなのです。



 なお、はらぴょんさんは、後日(2007年03月05日23:33)、次のような「補足」的コメントを付しています。


『たとえ話のその2が、うまく出来ていない。
そこで、もうひとつ付加条件を加えてみる。
科学者Eは、『○○は××である』という意見に共感を覚えたので、科学者Aに、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った、とする。
すると、『○○は××である』は、とりあえずこの場では、科学者Eの立場を代弁するものとなる。
科学者Aは、科学者Eとの対話の場において、『○○は××である』を否定する。これは、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になったということを意味する。
科学者Bは、後日「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げるが、これは科学者Aと科学者Eの間で、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になるという特殊な状況が生じていることを読み取れていないことを意味する。
これは、科学者Bの読解力というより(それもあるが)、人間関係力の欠如を意味する。』(全文)


 多少マシにはなっているものの、ここにも「たとえ話」ゆえの、欺瞞があります。例えば、

> 科学者Eは(…)科学者Aに(…)と語った、とする。

の部分ですが、はらぴょんさんが『語った、とする。』と仮定しなくても、これは現実には「語った」のです。また、

> すると、『○○は××である』は、とりあえずこの場では、科学者Eの立場を代弁するものとなる。

の部分の『とりあえず〜代弁するものとなる。』も、現実には『とりあえず』ではなく、事実『代弁するものとな』ったのです。

 つまり、はらぴょんさんは、「事実」を「たとえ話」に置き換え、さらにその「たとえ話」を「仮定の話」へとズラしてしまっている。「事実」が、いつのまにか「仮定の話」にされてしまっている、ということです。――これは「二重の逃避」による「朦朧化」とでも呼べる所作でしょう。
 また、

> 科学者Aは、科学者Eとの対話の場において、『○○は××である』を否定する。これは、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になったということを意味する。

 科学者Aは(ホランド)F(浅田彰)の著書『G』(『構造と力』)を読んでいないのですから、『この場においては』という「留保」はまったく(それしかないから)無意味であり、この留保は「はらぴょんさんの誤読」の「言い訳のための担保」にしかならないのです。したがって、

> 科学者Bは、後日「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げるが、これは科学者Aと科学者Eの間で、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になるという特殊な状況が生じていることを読み取れていないことを意味する。
> これは、科学者Bの読解力というより(それもあるが)、人間関係力の欠如を意味する。

という結論も、「事実」に「いやいや妥協した(せざるを得なかった)」ものにしかなっていません。だから、ここでも、科学者B(はらぴょん)が科学者A(ホランド)に、事実を『告げ』ただけではなく、そのことによって「愚弄した」という「事実」には言及されません。つまり、肝心の部分は「隠蔽したまま」だということです。

 そして『人間関係力の欠如』などという意味不明な言葉で、「自身の過誤」を「説明」していますが、事ここにいたっても、まだ「謝罪」しようとはしないところが、何よりも、はらぴょんさまの「逃避」の底なしさ、つまり「反省(内省)不能」性を、よく語っていると言えるのでしょう。
No.271 - 2007/05/26(Sat) 21:53:27

mixi(7)-4 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんのコメント 2007年03月05日 23:33

たとえ話のその2が、うまく出来ていない。
そこで、もうひとつ付加条件を加えてみる。
科学者Eは、『○○は××である』という意見に共感を覚えたので、科学者Aに、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った、とする。
すると、『○○は××である』は、とりあえずこの場では、科学者Eの立場を代弁するものとなる。
科学者Aは、科学者Eとの対話の場において、『○○は××である』を否定する。これは、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になったということを意味する。
科学者Bは、後日「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げるが、これは科学者Aと科学者Eの間で、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になるという特殊な状況が生じていることを読み取れていないことを意味する。
これは、科学者Bの読解力というより(それもあるが)、人間関係力の欠如を意味する。
No.264 - 2007/05/26(Sat) 17:01:30

mixi(7)-3 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんのコメント 2007年03月03日 06:57

有害物質Xが、化粧品の中にも含まれていることを、世界で初めて科学雑誌に発表した科学者Aは、大発見の手柄。一方、科学者Bが、科学者Aが研究していなかった他の事例もあることを発見したというのは、小発見という理解でよいと思います。
No.249 - 2007/05/21(Mon) 21:21:29

mixi(7)-2 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月03日 1:20

 今回のケースで言えば、「科学者Aが、化粧品Bの中に、未知の有害物質Xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、既知となった有害物質xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
そして科学者Aは有害物質Xの発見とそのことの重要性を主張しているのであって、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであることを否定しているものではない」というのが近いかと思います。
No.248 - 2007/05/21(Mon) 21:20:08

mixi(7)-1 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 たとえ話をふたつ 2007年03月03日 00:00


たとえ話をしよう。
200X年、科学者Aが、化粧品Bの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その後、科学者Aが、自分の次の仕事の予定は、化粧品Dの分析であったとし、化粧品Dにおける有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
私は、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであると思う。

もうひとつ、たとえ話をしよう。
第1場面.200X年、科学者Aは、科学者Eと某所で会話をしていた。
科学者Eは、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。
科学者Aは、『G』という本は読んだことはなかったが、その場の会話から「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と返答した。
第2場面.その後、科学者Bは、科学者Aと科学者Eの対話を知り、お節介にも「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げた。
科学者Aは、「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。
さて、考えてみなければならないのは、第2場面で、科学者Aは「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。」と言っているが、それは「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者AはFの説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、Fによって語られた他人の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、Fにも向けられたものであることは間違いない。
No.246 - 2007/05/21(Mon) 07:09:59
mixi(6) / ☆
はらぴょんさんの日記 『テロルの現象学』について 2007年02月27日 07:22

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648
No.238 - 2007/05/19(Sat) 09:39:53

mixi(6)-21 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 21:48

☆ 杉澤鷹里さま

ログの増加により当ページが重くなり、私の旧式なパソコンでは、うまく表示されなくなってきましたので、 議論の続きを掲載するために、下のページを立てました。

・ 2007年03月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

以降は、こちらにお書き込みいただければ幸いです。
No.274 - 2007/05/26(Sat) 22:02:50

mixi(6)-20 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 21:02

>たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

それは重要な視点です。私も常々自分の取り得る手法、対処法の限界を思っています。
 ですから、確認すれば、私自身が私に求めている「人格批難をしない」ということをアレクセイさんに求めるつもりはなく、私がアレクセイさんとはらぴょんさんとの遣り取りについて、批判したのは、それが人格についての遣り取りだから、という点ではなく、誹謗中傷である点についてであり、実際、人格についての遣り取りではない部分において具体例を見ています。(さらに確認すれば、その具体例では、「互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎ」ということが論理的骨子であったわけですが、それについての反証はされておらず、現在のところ、二人の遣り取りが誹謗中傷の応報である、ということをスジを通して説明できているものと思っています。)
 
 それにしても、こうして、突きつけられますと、

>たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

ということは真にそうであると思います。私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。
No.270 - 2007/05/26(Sat) 17:24:28

mixi(6)-19 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 20:14

>『程度』の問題でも、「結果」の問題でもありません。「意図」の問題です。

>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
>という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう? また、私の当然の『修正』要求を無視して、さらに私を、
>> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
>などと「事実無根」の誹謗を重ねるはらぴょんさんについて、何らかのお考え(評価)はお持ちなのでしょう?
 
ここには、レトリックがあります。アレクセイさんの要求が妥当になった(と私が考えたの)は、「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言を踏まえてのことです。一方、はらぴょんさんの「パラノ」発言は、それより前のものです。「妥当な要求」を受けてもなおアレクセイさんをはらぴょんさんが「パラノ」だと非難しているかのような錯認を読み手に与えるレトリックを駆使し、「相手を必要以上に貶めようとする陰険な意図」を感じます。

>すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?

あたかも誰かが(私かはらぴょんさんかが)「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」と(アレクセイさんに)言ったかのような印象を与えます。「相手の発言・論旨を歪曲しようとする姑息な意図」を感じます。……などと、悪しき意図を、発言の背景に読み手は無数に恣意的に読み取ることができます。そうした点を含めて、「誰しも大なり小なり使用している」と表現させていただきました。
No.269 - 2007/05/26(Sat) 17:23:14

mixi(6)-18 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 17:55

>> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。

>ユダヤ人の立場からすれば、ホロコーストを不当なものとする弾劾は『妥当なもの』であり、かつ、ナチスの立場からすればホロコーストは『妥当なもの』だった、ということなのでしょうね。戦中、日本軍に「虐殺・強奪・陵辱」された中国民衆の立場からすれば、日本軍の行為を「非人間的蛮行」だとする非難は『妥当なもの』であり、一方、日本軍の立場からすれば、戦中の中国における「虐殺・強奪・陵辱」も『妥当なもの』だったということになるのでしょう。

>でも、こんな「判断」は、何も言っていないに等しく、態の良い「判断回避の責任逃れ」の「誤魔化し」でしかありません。――まさに、これこそが「悪しきレトリック」です。

当該箇所は、「その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。」です。
 ちょっと繊細な議論になっており、論旨が見えにくいと思いますが(そして一部アレクセイさんの批判もいただいており、そのための補足も必要ですが、方向性の正しさは受け容れられていることもあり)、何も言っていないわけではないことを取り敢えずご確認のほどを。
No.268 - 2007/05/26(Sat) 17:21:17

mixi(6)-17 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 16:50

☆ 杉澤鷹里さま

> 私の意見は少々異なります。「人格」というのは、ある人の「意見」「思想」「行動」という個々の営為を生み出すような「何か」として想定されるもの、だと言えると思います。人格を批判するということが良くないのは、人格は個々の「意見」「思想」「行動」に比べて、圧倒的に変更困難であり、それへの批判は不毛な争いを帰結しがちだからです。編集者が小説を推敲し、小説を良くすることはできますが、それに比べて編集者が小説家のあり方を批判し、結果として小説を良くすることはほとんど奇跡的な事柄です。日常のいさかいが、宗教の対立になるとき、それはきわめて困難な問題となります。
> 私は紛争解決を目指しますので、個々の事例の個々の解決を志向していきます。


なるほど、貴兄の基本的なスタンスが、見えてまいりました。要は、「批評」というものを、「小説家」などの「人間」に向けられたものとの関連で、位置づけておられるのですね。「人格」に由来する欠点を指摘されても、それはほとんど変更不可能だから、あくまでの技術面への否定・批判に限定すべきである、と。
――つまり、ここでは、はらぴょんさんの「性格的な問題」は、それが明白な事実であったとしても、いや、明白な事実であれば尚更、批判はしない、しても意味はない、ということなんですね。

しかし、そうした「現実的方法論」は、「創作家」向けには一定の妥当性も持つでしょうが、「創作」そのものに向けられた、そして、その「ついで」として「創作家への助言」の意味合いも含むものとしての「批評」には、無効です。
そしてまた、杉澤さんのご意見の決定的な弱点は、問題を産出する送り手(作者)をことしか考えられておらず、被害者(読者)の視点が、完全に欠如している点です。つまり、杉澤さんの議論では、「作者」は肯定されることが前提となっている。しかし、それはあくまでも被害者(読者)との兼ね合いにおいて「可能であれば」ということであり、時には「作者」は完全否定され(切り捨てられ)てもかまわない、というのが、批評における「客観的な立場」なのだと言えるでしょう。

「批評」というのは、まず『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』に向けられます。そして、そこから、それを生み出す「作者」にも向けられ、作者の「人格」「思想」というものが問題となり、そこへの言及がなされます。つまり、批評においては、『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』が主であり、『「人格」「思想」(※「作者」)』は従、だということです。ですから『「人格」「思想」(※「作者」)』が、その批評によって改変可能か不可能かは主たる問題ではなく、あくまでも『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』を深く正しく評価することが、批評の目的なんですね。だからこそ、批評は『「ついで」として「創作家への助言」の意味合いも含むもの』なんです(しかも、「テクスト」に、特権的な「作者」は存在しないとすれば、ここで言及される「作者」とは、そのテクストの「書き手」のことではない。したがって、作品批評を「書き手」がどう思おうと、そんなことはもともと関係ない、ということになります)。

つまり、杉澤さんは「創作家」であるご自身の立場、言い換えれば「そんなことを言われても、性格は変わらないよ」という実感を敷衍することで、「人格の問題一般」についても「そんなことを言われても、性格は変わらないよ」と考えておられる。だから、人格に論及し、その問題点を指摘し、そこを「改めよ」と求めるような批評を「無効」なものと考え、批評を「改変可能な範囲内で論及するもの」に限定し、本質的指摘を避けることで、現実的トラブルを避けようとなさっているんです。その方が現実的であり、効率的だと。

しかし、これは間違いです、批評とは本来、そうした「悪しき現実主義や効率主義」に従属するものではありません。それが現実に対して何らかの効果を発揮するか否かは、「ついで」であり「おまけ」の問題であって、批評の本質ではない。杉澤さんは、ご自分の狭い了見において、批評を矮小化しているにすぎません。

なぜなら、もし批評をそのようなものだと考えるなら、「悪」を批判することはできない、からです。つまり、「悪」は絶対に変わらない。だから批判するのは無駄だ(全面容認するか、消去するしかない)、ということになるんですね。そして、「悪」から出た『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』も、実質的には批判不能となる。なぜなら「作者としての悪」は、それらの現象面をどう批判されようと、それを改めたりはしないからです(イスラエルのパレスチナ政策を見よ)。

結局、杉澤さんの論法は「性格は変わらないけど、技術的難点なら訂正可能だ」という、ごく限られた現実だけを問題となさっていますが、たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

で、杉澤さんのような限定的・消極的リアリズムの難点は、「悪」つまり「積極的な悪」にはまったく無効であり、そこに関しては「だんまりを決め込む(か、殺す)しかない」ことになる、ということです。つまり、「訂正をしてくれそうな人には言うけれど、そうでない人には言わない」ということになってしまう。だから、訂正しそうにない人から被害を受けた人には「泣き寝入りをしなさい。その方が現実的です」と奨めることにもなる。

例えば、「イスラエルのパレスチナ政策」と同様、旧日本軍による「従軍慰安婦問題」などについて、いまだにこれを誤魔化そうとしている人たちは、間違いなく確信犯であり、いくら事実を指摘しても、あれこれ言い逃れをして、結局は自分の主張を改めはしないでしょう。では、こういう人たちの問題を論ずる場合、こういう人たちの『「人格」「思想」(※「作者」)』に論及するのは、無駄なのか? 「本人に改める気が無いんだから、言っても無駄」なのか? ――そんなことはありません。たとえ本人は改めなくても、その批評は、批評としての意味も価値も有するでしょう。なぜなら、批評は、批評対象を論じて、「批評対象のみ」に語りかけているわけではなく、個を論じて普遍的本質を語ろうとするものだからです(批評の読者は、批評対象および、その送り手=作者だけではない)。

ですから、はらぴょんさんの「人格」を論じても無駄だという論法は、間違いです。それは、ご自分が創作家として「人格を批判されても改められない」という「卑近な実感」に限定されたものでしかありません。
担当の編集者は、それが「実利に直結した仕事」なのかも知れませんが、批評家の仕事はそんな狭いものではありません。極論すれば、その作家が変わらなくても(つぶれても)一向にかまわない。変わる変わらないは本人の問題であって、批評家の問題ではないからです。

杉澤さん的な考え方の難点は、例えばそれは「今さら、過去の話を掘り返しても、建設的じゃないよ。新たなケンカの火種にしからならない」と言って、「南京虐殺」「従軍慰安婦」あるいは「絶滅収容所」の問題を忘却しようという態度に直結するところです(そうした態度が、歴史修正主義を呼び込みます)。

杉澤さんが、「無益なトラブル」を好まない穏健な人柄だというのは、よくわかります。しかし、必要なトラブルなら、それは必要なものであり、無益ではない。むしろそれを避けることこそが、欺瞞という「反・益」につながってしまうのです。

そもそも杉澤さんの論法でいけば、「思想・哲学」なんて非常に効率の悪い「無駄」だということにはなりませんか? ――「批評」だって同じですよ。「思想・哲学」や「批評」といったものは、もともと「効率」なんかは二の次として、徹底的に「原理」や「本質」を追求する(遡行する)ところに発し、そこに価値を見い出すものなのです。
そして、そのようなものに反対するからこそ、杉澤さんの批評は、批評の本質とは正反対の「回避・忘却主義」にしかならないんです。
No.267 - 2007/05/26(Sat) 17:20:28

mixi(6)-16 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 16:46

☆ 杉澤鷹里さま

>> 関連の日記ページに書き込まれた、杉澤さんのコメントを拝見するかぎり、『誹謗中傷の応報になって』いるとか『人格の否定的な側面をあげつらう』などおっしゃるだけで、はらぴょんさんのこうした具体的な発言の是非については論評せず

> それは、

>> つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

> というアレクセイさんの発言に応じたからです。はらぴょんさんが誹謗中傷を行っているのは自明であり、実証するまでもない、らしいのでそれをしなかったわけです。

『実証するまでもない、らしい』のは、(杉澤さんから見た)私個人にとっての話であり、杉澤さんご本人や、はらぴょんさんや、読者にとって、そうであるとは言えません。つまり、公に発言をなさるのなら、杉澤さんの理解を、必要に応じて「読者に語る」のは、当然の事です。


> アレクセイさんに応じている結果として、今の現状があるわけです。はらぴょんさんが私の意見に「アレクセイさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?」とコメントしていたら、また違っていたのかもしれません。
> ともあれ私は、二人の争いがなるべく円満に終わるようしたい、と苦心してきたつもりです。

貴兄の『苦心』はよくわかっておりますし、「お気持ち」は有難いと感謝してもおります。
しかし、動機が正しければ、筋を通さない言動も許容されるというわけではありません。発言するからには、発言者としての(一人前の)責任を、完全に果たす義務が生じるのです。そしてそこでは、私(個人)が説明を求めたか否かなど、問題にはなりません。


>> やはり、ここでも『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、スルーなんですね。

> という問題については、すでに、「たとえ話をふたつ」のほうで見解を述べさせていただいています。そして、それにはある程度、はらぴょんさんの理解を得ているものと思います。
> 『狂い咲く』のアレクセイさんの意見を踏まえ、『キララ、』に同様の内容を見出しても、オリジナリティの高い仕事とは思えず、それを「先に見つけた!」と自慢する類のものではないと存じます。

そんなことはわかりきっていますし、私の問題設定は、そこにはありません。
つまり、ここでも肝心の「問題」は、スルーされています。

私が 繰り返し言っているのは、はらぴょんさんが自分の「猿真似」(自体はかまわない)がバレそうになった時に、それは「知っててやったんだよ」と「逃げ」をうつ「批評家としての不誠実さ(欺瞞)」です。それを私は、問題視しているんですよ。そのあたりを、もう一度、ちゃんと読んでいただきたいと思います。

なお、はらぴょんさんの日記

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

での、杉澤さんの議論は、本質的に的をはずしています。そもそもあれは、あの「たとえ話」が適当かどうかが問題なのではなく、「なぜ、たとえ話なのか?」というのが問題なんですね。

同様に、『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、「オリジナリティー」の問題ではなく、「欺瞞的隠蔽」の問題なのです。なのに、杉澤さんは、そこをはずしておられる。
杉澤さんの、はらぴょんさんへの注文は、いつでも「殺人行為の是非が論議されている時に、殺し方を論じているようなもの」なのですよ。つまり「そこを刺したら、相手は楽に死ねないですよ」と注文をつけているようなものだ、ということです。


> はらぴょんさんがレトリックを駆使して、隠蔽したのかどうかは分かりませんが(そんなことで隠蔽できるとは思えませんし)、その程度のレトリックは誰しも大なり小なり使用しているのではないでしょうか。

『程度』の問題でも、「結果」の問題でもありません。「意図」の問題です。
レトリックそのものには「良いも悪いもない」というのは、自明の前提でしょう。こうした「はずし方」にも、貴兄の物の見方の、根本的な「ズレ」が表れていると言えるでしょう。


>>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。

>> という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう?

> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。

ユダヤ人の立場からすれば、ホロコーストを不当なものとする弾劾は『妥当なもの』であり、かつ、ナチスの立場からすればホロコーストは『妥当なもの』だった、ということなのでしょうね。戦中、日本軍に「虐殺・強奪・陵辱」された中国民衆の立場からすれば、日本軍の行為を「非人間的蛮行」だとする非難は『妥当なもの』であり、一方、日本軍の立場からすれば、戦中の中国における「虐殺・強奪・陵辱」も『妥当なもの』だったということになるのでしょう。

でも、こんな「判断」は、何も言っていないに等しく、態の良い「判断回避の責任逃れ」の「誤魔化し」でしかありません。――まさに、これこそが「悪しきレトリック」です。
No.266 - 2007/05/26(Sat) 17:19:36

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杉澤鷹里のコメント 2007年03月05日 22:19

>私とはらぴょんさんのやり取りが『誹謗中傷の応報になって』いるおり『人格の否定的な側面をあげつらう』ものだとおっしゃいますが、そのことについては、私はすでに、そうした捉え方自体がおかしいのではないかと、論理的に反論しております

失礼しました。

>「人格攻撃はいけない」というのは、本来、批判の対象とすべき「意見」や「思想」や「行動」をうっちゃっておいて「おまえには存在する価値がない」などと相手の「全人格」を否定ようなやり方を批判するものであり、「意見」や「思想」や「行動」を批判したことの結果として、相手の「人格の一部」を批判するようなものを言うのではない

という箇所のことですね。拝聴するに値するものです。ただし私の意見は少々異なります。「人格」というのは、ある人の「意見」「思想」「行動」という個々の営為を生み出すような「何か」として想定されるもの、だと言えると思います。人格を批判するということが良くないのは、人格は個々の「意見」「思想」「行動」に比べて、圧倒的に変更困難であり、それへの批判は不毛な争いを帰結しがちだからです。編集者が小説を推敲し、小説を良くすることはできますが、それに比べて編集者が小説家のあり方を批判し、結果として小説を良くすることはほとんど奇跡的な事柄です。日常のいさかいが、宗教の対立になるとき、それはきわめて困難な問題となります。
 私は紛争解決を目指しますので、個々の事例の個々の解決を志向していきます。
No.265 - 2007/05/26(Sat) 17:03:15

mixi(6)-14 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月05日 20:33

>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。

>という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう?

ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。
No.263 - 2007/05/25(Fri) 23:53:27

mixi(6)-13 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月05日 13:24

>関連の日記ページに書き込まれた、杉澤さんのコメントを拝見するかぎり、『誹謗中傷の応報になって』いるとか『人格の否定的な側面をあげつらう』などおっしゃるだけで、はらぴょんさんのこうした具体的な発言の是非については論評せず

それは、

>つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

というアレクセイさんの発言に応じたからです。はらぴょんさんが誹謗中傷を行っているのは自明であり、実証するまでもない、らしいのでそれをしなかったわけです。
 アレクセイさんに応じている結果として、今の現状があるわけです。はらぴょんさんが私の意見に「アレクセイさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?」とコメントしていたら、また違っていたのかもしれません。
 ともあれ私は、二人の争いがなるべく円満に終わるようしたい、と苦心してきたつもりです。

>やはり、ここでも『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、スルーなんですね。

 という問題については、すでに、「たとえ話をふたつ」のほうで見解を述べさせていただいています。そして、それにはある程度、はらぴょんさんの理解を得ているものと思います。
『狂い咲く』のアレクセイさんの意見を踏まえ、『キララ、』に同様の内容を見出しても、オリジナリティの高い仕事とは思えず、それを「先に見つけた!」と自慢する類のものではないと存じます。
 はらぴょんさんがレトリックを駆使して、隠蔽したのかどうかは分かりませんが(そんなことで隠蔽できるとは思えませんし)、その程度のレトリックは誰しも大なり小なり使用しているのではないでしょうか。
No.262 - 2007/05/25(Fri) 23:50:45

mixi(6)-12 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月05日 0:58

☆ 杉澤鷹里さま

>> 杉澤さんが、正直な「はらぴょん評価」を語った上で、私の「はらぴょん評価」について注文をつけるのなら、それは正当なものですが、「(はらぴょんさんに関する)本音」を語らないことによって、ご自分の「安全」を確保した上で、すべてを曝して発言している人間に対し意見をするのは、人として恥ずべきことです。当然、私にすれば「(背中に)隠している、その手を見せてみろよ」(ザ・ブルーハーツ)ということになるでしょう

> 申し訳ありませんが、どうしてそうなるのか、理解が及ばないのですが。
> もし話が、「はらぴょんさんをどれだけ的確に表現できるか」ということに価値があり、私がアレクセイさんのはらぴょん論を「全然的確に表現できてないぞ、ひきき」などと言っているのであれば、そういう要求がされるのも分かりますが、ここまで私が述べてきたのは、「両者の争いが誹謗中傷の応報になっており、醜悪であると感じたということ」「アレクセイさんの発言が誹謗中傷になっている根拠としてのその発言の歪みについて」「思想は誰が言ったかではなく、どういう考えかということこそ大事だということ。けれどどういう考えか、ということを理解するために文脈(あるいは誰が言ったか)も大事だと思うということ」であり、はらぴょん論の内容を批判したわけではなく、だったらお前はどうなのだ、と言われても困ります。

はあ、それでは杉澤さんは、私の「はらぴょん論」が、はらぴょんさんの人格を「適格に評価している」と認めた上で、「人格に言及すること」そのものを否定したいだけだ、とおっしゃるのでしょうか?

> むしろ、人格の否定的な側面をあげつらうということ、そのものに批判的なわけであり、それなのに、ここではらぴょん論を私がやらかしたら、それこそ不誠実な態度だと思います。

『はらぴょん論を私がやらか』すこと、つまり杉澤さんが、はらぴょんさんを評価することは、それがそのまま『人格の否定的な側面をあげつらうということ』になると、こうおっしゃるのですね。
――でも、それはつまり、杉澤さんが、はらぴょんさんの人格を「否定的に評価している」ということを意味することになるんですよ。なにしろ杉澤さんの「はらぴょん論」は、はらぴょんさんの人格否定である必要はないんですから。

私とはらぴょんさんのやり取りが『誹謗中傷の応報になって』いるおり『人格の否定的な側面をあげつらう』ものだとおっしゃいますが、そのことについては、私はすでに、そうした捉え方自体がおかしいのではないかと、論理的に反論しております。ところが、杉澤さまは、ご意見に対する私のこの反論はスルーして、ご自分の意見を繰り返すばかり。これでは、もともと私たちに説得的な意見をするのではなく、ご自分の意見(「見苦しい」という主観)を押しつけたいだけ、だとしか思えません。私の今の杉澤さん理解は、例えば、つぎのようなものと、まったく同じです。


『(…)自分ごときを(※ 斎藤環が)批判するのは時間の無駄、ということ以外にも、斎藤さんの考え方にいくつか疑問があります。まず、彼が最後に肯定的に引用した僕の文章は結局浪花節になっていて、知里(※ 真志保)本人が読んだら一笑に付したでしょう。もう一つは、斎藤さんが最近の僕の仕事を人格攻撃だと思っていることです。多分彼は、『重力』02 や地域通貨QのWEB上で僕が書いた文章(「京都オフライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」)を読んでいて、もう柄谷批判やNAM会員批判はやめろ、理論的考察だけをやれ、と言いたかったんじゃないですか。でも、僕は相手の発言や行動に異議を述べているだけで、人格なんか元から当てにしていません。外部の組織や第三者を傷つける大騒動を起こした以上、公開の場でそれを総括する義務を免除はできないですが、僕が書く前にNAM会員が自主的にやる勇気があれば、それが一番よかったんです。
 もう少しいうと、僕が標的にしているのは物書きとその消費者、一般的には知識人と大衆がもたれ合っている相互依存的構造です。柄谷さんでも誰でも、大衆批判をやる人はたくさんいますが、それだけで自分が読者と癒着していない保証にはならない。ゴダールや柄谷が好きで自分も大衆批判者だと錯覚している連中こそ、今日の典型的な「大衆」だからです。デマを広めたり、扇動をやる時に彼らを頼るんなら、結局自分が一番色目を使っていることになる。周辺にいた文化人も相変わらずで、浅田(彰)さんが典型ですが、状況を打開する義務がある人が都合よく傍観者を気取ってゆく。相手が誰でも、暴走する連中がどんなに多くても、ここ一番で自分の勉強を無意味にする黙認は僕にはできません。だから、知里真志保を直接扱って感傷的になるより、今の自分の文章の方が知里や大西さんの仕事を本当の意味で生かせていると思います。』
      (大西巨人『未完結の問い』における、インタビュアー鎌田哲哉の発言、P212〜213)


何度も申しておりますとおり、それが正当な批判行為か、それともおっしゃるような単なる『人格の否定的な側面をあげつらうということ』かは、やり取りの「一部」ではなく、その「きっかけ以降の全て」でもって判断しなければなりません。
ところが、杉澤さんはどうしても、はらぴょんさんが話題を限定したがる部分しか問題にしたがらず、故意に問題を矮小化して、無理にでも終結に向かわせようとしているとしか思えません。

もちろん、杉澤さんは最初からそういう意図で、しかも搦手で介入を始められたのですから、客観的な態度を期待したのは、私の間違いだったのかも知れませんが、これはいささか残念なことだとは言わざるを得ません。

>>> 鍵となる点についてだけ。
>> ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。

> そうした態度、が何を表すか分かりませんが、専門家風をふかす、ということでしょうか。少なくとも私は、はらぴょんさんもアレクセイさんも同じ土俵に乗っていると思っており、哲学思想について、はらぴょんさんのほうが詳しい、という認識はありませんでしたけど。
> 何か、ここ最近の議論の流れでおかしいことになっていますが、アレクセイさんも自身で「私の文学趣味とも当然からんでくるのですが、私は人文科学系のものは概ねすべて興味があります。特に興味があるものはと言うと「哲学」「思想」「倫理学」「心理学(全般)」「宗教(学)」「神秘学」「民俗学」「文化人類学」「社会学」など。近年(「9.11」以降)は「政治」や「社会問題」にも重きを置いています。」と述べられているように、博覧強記であり、実際、それらの理解の質は高く、だからこそ一本スジの通った批評を多方面にわたり展開しているのだな、と私は思ってました。
> だから、私には、はらぴょんさんがアレクセイさんに対し専門家風をふかしているという印象はなく、ただ一冊『構造と力』のことが引っかかったのだ、というふうに思ってます。

やはり、ここでも『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、スルーなんですね。

私が言っているのは、私やはらぴょんさんの「客観的な現実」ではなく、はらぴょんさんがご自分をどのように位置づけ、私をどのように位置づけて、その上で私をどう思い、私に対し「何をしたか」ということです。その「結果責任」を問うているんですよ。
つまり、杉澤さんが、2人をどう評価なさっているかではなく、私たちの「やり取りの中味」を(印象ではなく)どう評価するのか、という話をしているのです。
――しかし、そうした回答しかなさるつもりがないのであれば、あるいは何を言っても無駄でしょう。

しかしながらそれでも、

> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。

という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう? また、私の当然の『修正』要求を無視して、さらに私を、

> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏

などと「事実無根」の誹謗を重ねるはらぴょんさんについて、何らかのお考え(評価)はお持ちなのでしょう?

関連の日記ページに書き込まれた、杉澤さんのコメントを拝見するかぎり、『誹謗中傷の応報になって』いるとか『人格の否定的な側面をあげつらう』などおっしゃるだけで、はらぴょんさんのこうした具体的な発言の是非については論評せず、はらぴょんさんには話し掛けることもなさっていないようですが、これは、はらぴょんさんに直接コメントする気はない、ということなのでしょうか? それとも、個人的に助言なさっているということなのでしょうか?

問うても詮無きことかも知れませんが、疑問は疑問として表明しておきたいと思います。
No.261 - 2007/05/25(Fri) 23:49:57

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杉澤鷹里のコメント 2007年03月04日 20:13

アレクセイさま、

>杉澤さんが、正直な「はらぴょん評価」を語った上で、私の「はらぴょん評価」について注文をつけるのなら、それは正当なものですが、「(はらぴょんさんに関する)本音」を語らないことによって、ご自分の「安全」を確保した上で、すべてを曝して発言している人間に対し意見をするのは、人として恥ずべきことです。当然、私にすれば「(背中に)隠している、その手を見せてみろよ」(ザ・ブルーハーツ)ということになるでしょう

 申し訳ありませんが、どうしてそうなるのか、理解が及ばないのですが。
 もし話が、「はらぴょんさんをどれだけ的確に表現できるか」ということに価値があり、私がアレクセイさんのはらぴょん論を「全然的確に表現できてないぞ、ひきき」などと言っているのであれば、そういう要求がされるのも分かりますが、ここまで私が述べてきたのは、「両者の争いが誹謗中傷の応報になっており、醜悪であると感じたということ」「アレクセイさんの発言が誹謗中傷になっている根拠としてのその発言の歪みについて」「思想は誰が言ったかではなく、どういう考えかということこそ大事だということ。けれどどういう考えか、ということを理解するために文脈(あるいは誰が言ったか)も大事だと思うということ」であり、はらぴょん論の内容を批判したわけではなく、だったらお前はどうなのだ、と言われても困ります。
 むしろ、人格の否定的な側面をあげつらうということ、そのものに批判的なわけであり、それなのに、ここではらぴょん論を私がやらかしたら、それこそ不誠実な態度だと思います。

>> 鍵となる点についてだけ。
>ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。

 そうした態度、が何を表すか分かりませんが、専門家風をふかす、ということでしょうか。少なくとも私は、はらぴょんさんもアレクセイさんも同じ土俵に乗っていると思っており、哲学思想について、はらぴょんさんのほうが詳しい、という認識はありませんでしたけど。
 何か、ここ最近の議論の流れでおかしいことになっていますが、アレクセイさんも自身で「私の文学趣味とも当然からんでくるのですが、私は人文科学系のものは概ねすべて興味があります。特に興味があるものはと言うと「哲学」「思想」「倫理学」「心理学(全般)」「宗教(学)」「神秘学」「民俗学」「文化人類学」「社会学」など。近年(「9.11」以降)は「政治」や「社会問題」にも重きを置いています。」と述べられているように、博覧強記であり、実際、それらの理解の質は高く、だからこそ一本スジの通った批評を多方面にわたり展開しているのだな、と私は思ってました。
 だから、私には、はらぴょんさんがアレクセイさんに対し専門家風をふかしているという印象はなく、ただ一冊『構造と力』のことが引っかかったのだ、というふうに思ってます。
No.260 - 2007/05/25(Fri) 23:48:07

mixi(6)-10 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年3月4日 13:38

☆ 杉澤鷹里さま

>  鍵となる点についてだけ。

> 私がここで言いたいのは、正しい浅田彰理解などということではなく、kamuiさんの書いている多様な解釈が可能なコンパクトな文章を理解するために、原文の文脈(現代思想的布置)に目を配ることは有益なことだということです。もちろんkamuiさんが一般的な解釈ではない読み方をしている可能性だってありましょう。結果として二人の間で成り立つ破綻のない会話ができていれば、いい、という立場だってありましょう。私自身は、自分で作った概念と、自分で作った用語で、自分の王国に住んでしまう傾向がありますから、そういう立場に近いのかもしれません。
> だけれど、より多くのヒトに開かれた、一般常識と照らし合わせて破綻のない、破綻を指摘された場合に修正可能なありようを望む考えだってあっていいと思います。


『原文の文脈(現代思想的布置)に目を配ることは有益なことだ』『より多くのヒトに開かれた、一般常識と照らし合わせて破綻のない、破綻を指摘された場合に修正可能なありようを望む考えだってあっていい』というご指摘には、全面的に同意します。
しかし、今回の場合(ホランド氏とkamui氏の対話)においては『一般常識と照らし合わせて破綻』はありません。むしろ『一般常識』的な「(非・学術的)対話」を、「哲学思想」という「限定された専門領域の常識」に従属させようと無理な注文(「浅田彰に関しては、半端な知識で語るな」という注文)をつけたというのが、はらぴょんさんの行ったことの実際です(しかし言うまでもなく、「何ごと」においても、完全な知識はありえません)。

杉澤さんのおっしゃるような「それをやれれば、それに越したことはない」「そういう考えだって、あって良い」という話ならば、わかります。しかし、そうしたご意見ならば、それは はらぴょんさんによる「原批判」とはまったくの別物であり、実質的には、はらぴょんさんの批判の「筋違い」性を認めるものとなるでしょう。つまり、はらぴょんさんの批判は「任意に求められるべきものを、義務であるかのように語った、難癖」でしかなかった、ということです。

杉澤さんのおっしゃるとおり、もちろん「理想」は求められるべきですし、「当たれる資料」があるのなら当たった方が良いに決まっています。しかし、人間に与えられた「時間」は有限であり、一方「資料」は無限に開かれています。ですから、「会話」や「発言」の現場では、ひとまず「手持ちの知識」でそれを遂行するしかなく、いちいち関連資料を当たっていたのでは、「会話」や「発言」は実質的に不可能となるでしょう。また、その先、無限に多様な選択の中から、あえてその議論を深める方向の選択するか否かは、当事者に任されるしかありません。なぜならば、有限な時間の中では、何かを選ぶということは、何かを捨て犠牲にするということに他ならないからです。したがって、こうした誰もが知っている「現実」を無視して、抽象的な「理想」論を語るのは、むしろ無責任(非理想)というものなのではないでしょうか?

例えば、杉澤さんは、ホランド氏とkamui氏の対話についてコメントする際、ホランド氏の過去の発言に、すべて当たりましたか? そこに彼の真意を了解する鍵が無かったと、どうしていえるでしょう。
また、ニーチェや浅田彰やメルロ=ポンティーを語る時、杉澤さんは、そしてはらぴょんさんは、彼らの「著作をすべて」読んだ上で、あるいは、彼らに関する「評価」をすべて読んだ上で、彼らへのご自分の評価を語ったり、彼らへの『一般常識』的な評価を語ったりなさっているのでしょうか? ――そんなことは不可能です。実際には、(アマチュアである)自分に可能な、ささやかな範囲でそれらに当り、その範囲内で語っているにすぎません。そんな自分の「限定性」を棚に上げて、他人の限定性という「現実の不十分さ」を云々するのは、端的にいって「身の程知らず」というものでしょう。
たしかに、はらぴょんさんは「哲学思想」に詳しい。しかし、それは「アマチュアの間では」という限定句つきでしかなく、はらぴょんさんが「専門家」気取りなのは「身の程知らず」であり、端的に言って「滑稽」です。だからこそ、私は、はらぴょんさんのそうした「心性」を鑑みて、適切に「哲学思想オタク」でしかないと評価するのですよ。

>  鍵となる点についてだけ。

ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。
そして、はらぴょんさん批判について、あれこれご注文をいただいた私ならば、杉澤さんに『はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。』を問う権利はあるはずですし、杉澤さんには、これに応答する義務があるのではないですか? すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?
No.258 - 2007/05/25(Fri) 07:10:47

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杉澤鷹里のコメント 2007年03月04日 02:21

 鍵となる点についてだけ。
「その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。」
で、一続きの文章です。ここで言う「浅田を批判する」は、ホランドさんがkamuiさんの引用についてした「浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定している」ということです。大体の方向性の正しさによって明らかにされるものとは、kamuiさんの言いたいこと、です。
 ホランドさんの「自己と他者の区別があって、それを乗り越えるというのではなく、初めからそんなものはない」ということは、引用(1)*******
主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)
******
ということに対する批判としてはいいのですが、引用(2)
******
成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
*******
にほぼ対応しているのであり、kamuiさんがこの引用によって示したかったことは、そのあたりのことだった可能性があります。つまり意図は正しく伝わっていた可能性があります。(本当のところはどうなのか、それはご本人に確認せねばなりませんが)
 私がここで言いたいのは、正しい浅田彰理解などということではなく、kamuiさんの書いている多様な解釈が可能なコンパクトな文章を理解するために、原文の文脈(現代思想的布置)に目を配ることは有益なことだということです。もちろんkamuiさんが一般的な解釈ではない読み方をしている可能性だってありましょう。結果として二人の間で成り立つ破綻のない会話ができていれば、いい、という立場だってありましょう。私自身は、自分で作った概念と、自分で作った用語で、自分の王国に住んでしまう傾向がありますから、そういう立場に近いのかもしれません。
 だけれど、より多くのヒトに開かれた、一般常識と照らし合わせて破綻のない、破綻を指摘された場合に修正可能なありようを望む考えだってあっていいと思います。
No.256 - 2007/05/24(Thu) 22:21:28

mixi(6)-8 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年3月3日 23:08

ここでの議論は、こちら↓に続いています。

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)
No.255 - 2007/05/24(Thu) 22:19:35

mixi(6)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月03日 23:04

☆ 杉澤鷹里さま

>> 私にとっては問題なのは「誰が言ったか(名義)」ではなく、それが「どういう考えか(中味)」ということ

> この意見に私も共感します。「吐き気がするくらい哲学学が俺は嫌い(『ナチュリストの日』より)」です。そして、
> 
>> kamui氏が、浅田彰の『構造と力』からの「引用」として紹介した引用文について、それが仮に浅田彰の意見だと仮定した上で、ホランド氏がそれに異論を唱えたに過ぎません

> という意見についても妥当性があるように思います。したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
> このことが一番初めに提起されておれば(というかこの点についてのみ議論を進めておれば)、妥協点も見出しやすく、早くに労力も少なく、この一連の議論も収束していただろうと思います。


いや、私は『妥協点』を見い出すために、はらぴょんさんを批判したのではありません。はらぴょんさんの「明白な(心根の)誤りを正す」ために批判したのです。だから、最初から「それの、どこがなぜ誤りなのか」の説明はせず、謝罪を要求したのです。

つまり、はらぴょんさんの「誤り」は、はらぴょんさんが「自分の胸に手を当てて考えれば」すぐにわかることであり、反省する気があるのなら、私が「証拠を突きつける前」に、自分からそれを語って反省し、謝罪することもできたからです。
「証拠を突きつけられてから」謝罪しても、それは本心からの謝罪ではない可能性が高い。つまり、自分が傷つかないために、中味のない謝罪という欺瞞を演じてるにすぎない可能性が高い。だから、私は、最初から証拠を突きつけたりはせず、主体的な反省のチャンスを与えたのです。

しかし、証拠を突きつけられた はらぴょんさんは、私の予想どおり、

・ 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

で、「偽の謝罪」を提示しました。これは赦されないことです。

そして、私の批判は、はらぴょんさんのこういう「心根」にこそ、向けられているのです。ですから、そこには、『妥協点』も『収束』も無関係なのです。
 
> その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。

ありません。なぜなら、前述のとおり、ホランド氏は「浅田彰」を批判してなどいないからです。ホランド氏は、あくまでも「kamuiさんの意見」に異論を唱えています。その意味で、ホランド氏の意見表明は、いたって堅実であり、そんなホランド氏とkamui氏の対話を「浅田彰論」と捉える、はらぴょんさんや杉澤さんのご意見の方が「危うさ」を通り越して、事実から「逸脱」しているんですよ。

> 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。

そのとおりですね。だからこそ、上のように書いたのです。
つまり、事態の方向性を読み誤っているのは、はらぴょんさんであり、杉澤さんの方である、ということです。

> それに関連して、はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っているように見える点についてもある程度、了解できます。思想に詳しくなると、思想家の名前を使うことが、思想の内実を効率よく圧縮することができる手法となるからです。誰が言ったかということが、何を言ったか、ということにかなりの程度対応するようになるからです。
>(もちろん圧縮することにより損なわれる情報があるということ、圧縮されたものは、受信する側によって再構成されなければならず、その再構成について用いられるコードが同じものでなければ情報が届かないということ、この二つの点への注意は必要になります。)
> といったところで、両者のスタンスの違いは違いとしてあるとしても、どちらか一方でなければならない、ということはなく、抵触した個々の事例、について修正を重ねていけばいいのだと思うのです。

杉澤さんのご意見は、徹頭徹尾「ことなかれ」であり「総花的」としか言い様がありません。

ここに見えるのは、単なる「一般論」で、「いまここ」の現実(ホランド氏とkamui氏の対話)問題を、「一般論」に還元して逸らしたい、という気分でしかありません。その意味では、杉澤さんがここでなさっていることは、はらぴょんさんのそれと五十歩百歩です。

> それに関連して、はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っているように見える点についてもある程度、了解できます。

なぜ、ここで『ある程度』という「限定」が付されるのか? それは『はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っている』ことの正当性は、『それに関連して』の場合に限定され、それ以外については『了解』できないものであるという「現実」を、杉澤さんご自身がよくご存じだからです。

つまり、杉澤さんは、はらぴょんさんの「思想哲学的知見」が、大筋において『思想についてではなく、思想家の名前だけを語っている』ものでしかないこと、つまり、権威主義的な「哲学思想オタク」的なそれでしかないことを承知している、ということです。
そして、それを承知していながら、そこへは触れないかたちで、なんとか、はらぴょんさんを救い出そうとするから、「この場合に限れば、はらぴょんさんの語り方も、一般的なそれと同じものとして、許容されうる」というような、極めて限定的かたちでの「肯定」を語ることになるんですね。でも、これは「欺瞞」です。


私の見解について注文をつけるのであれば、杉澤さんもご自分の見解を「正直」に語って下さい。それをせずに、他人の意見に「ご都合主義的な注文」をつけるのは、不誠実な行いでしかなく、他人にとやかく言えた立場ではない、ということになるでしょう。

杉澤さんが、正直な「はらぴょん評価」を語った上で、私の「はらぴょん評価」について注文をつけるのなら、それは正当なものですが、「(はらぴょんさんに関する)本音」を語らないことによって、ご自分の「安全」を確保した上で、すべてを曝して発言している人間に対し意見をするのは、人として恥ずべきことです。当然、私にすれば「(背中に)隠している、その手を見せてみろよ」(ザ・ブルーハーツ)ということになるでしょう。

はらぴょんさんにしろ杉澤さんにしろ、「哲学」がどうとかとおっしゃいますが、この程度の理屈を弁えなくて、いったい何の「哲学」であり「思想」なのでしょうか?

・ 2007年02月24日「齟齬の根底にあるもの」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

のコメント欄に、私が、

> その意味では、はらぴょんさんは無論こと、杉澤さんも「共同体主義者」として「哲学者の価値」を認めているにすぎないと思うし、それは私からすれば、非常に「反・哲学な態度」だと思います。
> まあ、哲学をやっている人の大半は、こうした意味では「反・哲学」的なんですが、それは「当たり前」のことでしょうね。「徹して見て、徹して考え抜く」ということは、『一般的』には、不可能です。それが可能であるかのような「錯覚」の上に成立しているのが「誰にでもできる、いまどきの哲学」だということでしょう。――私のこの考え方は、非常にニーチェ的かも知れません。でも、だから価値があるわけでも無いわけでもありません。 (2007年03月03日20:44)

と書いたことの意味を、これは充分に裏づける事実ではないでしょうか?

杉澤さんの議論は、ある意味で「一般論」に呪われています。「一般論」で満足できるのであれば、「哲学」や「思想」を学ぶ必要性は、「知的な見栄」以外には、どこにもないと思います。
No.254 - 2007/05/22(Tue) 22:00:47

mixi(6)-6 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月03日 21:51

☆ 杉澤鷹里さま

>  何度読んでも、よく分からないのですが、もともとの出発点となったkamuiさんとホランドさんのやり取りで、ですね、ホランドさんのしている主張は、否定していると取り上げているところのkamuiさんが二度目に引用している箇所と同じものですよね。lainさんもたぶん、同じことを言われていると思いますが。
> kamuiさんの議論の運びにクセがあって、少し見通しが立ちにくくありますが、一度目の引用と二度目の引用とはまったく質の違うもので、その質の違う二つの引用について、ちょっとホランドさんが混同されているのかな、という印象を受けていますが、いかがでしょうか。


ひとまず、関連部分をぜんぶ引用しておきましょう。

========================================================

浮遊するシニファン 投稿者:kamui 投稿日: 1月 9日(火)22時36分47秒


ホランドさん、はじめまして。

>言い換えれば、のびのびと咲き誇ってほしい。それが園主さまやボクの望みな
>んですよ。――まあ実際は、園主さまが、なにしろあの個性派ですから、なか
>なかそう思いどおりにはいかないんですけどね。「敷居が高い」なんて、よく
>言われちゃう・・・(^-^;)。

寛容なお心遣い有難うございます。古くからの友人に語りかけるようにリラックスできて、なおかつ、ざっくばらんな話題で盛り上がるのもいいですね。堅い話ばかりでは息が詰まってしまいますし、そう言ってもジョークで場の雰囲気を和ませる技量は持ち合わせていませんので、うまくリードしていただければ幸いです。

以下に浅田彰から引用させていただきます。

*******
主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)
******

上記を踏まえた上で、自己を拘束する鎖から解き放たれたような書き込みができればいいなと思っています。

それから、ご紹介していただきました、ウロボロスの基礎論』ですが、機会があれば読んでみます。
それでは、今後とも宜しくお願い致します。

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至福の読書(2) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月18日(木)10時59分2秒


◆ kamuiさま

> 主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)


 浅田彰さんは、『逃走論』は読みましたが、『構造と力』は難しそうだったので、まだ読んでいませんでした。でも、この部分は、とてもよくわかります。

 で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです(笑)。

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re:至福の読書(2) 投稿者:kamui 投稿日: 1月18日(木)21時17分1秒


ホランドさん。

>で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用
>しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」
>と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理
>だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです>(笑)。

そうですね。ただし、浅田を紹介したところの内容は自己と他者に境界ができた後での相互交換という意味で引用させていただきました。その前段階としての自己と他者が混合している状態のことではありません。浅田は以下のように述べています。

******
成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
*******

つまり、ここでは自己が他者と人称的に存立する前に、自己と他者の区別がない状態があり、その後、幼児の発展過程にしたがってパースペクティヴを交換することができると語っています。

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私って何?(3) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月21日(日)15時30分3秒


◆ kamuiさま

>>で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用
>>しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」
>>と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理
>>だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです>(笑)。

>そうですね。ただし、浅田を紹介したところの内容は自己と他者に境界ができた後での相互交換という意味で引用させていただきました。その前段階としての自己と他者が混合している状態のことではありません。浅田は以下のように述べています。

> ******
> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
> *******

> つまり、ここでは自己が他者と人称的に存立する前に、自己と他者の区別がない状態があり、その後、幼児の発展過程にしたがってパースペクティヴを交換することができると語っています。

 え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。

 浅田さんの議論は、「自己(私=我)」に基底を置き、その派生物として「他者」を規定しています。だからこそ、「自己」をいうものを大前提(基底)として「それがどのような形で、形成されたのか?」という「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」に基づいて、「自己と他者という截然とした区別がなかった時代」つまり「混沌としての幼時(=原始時代)」という「発達心理学的な仮説」を採用しているんだと思うんです。でも、「渾沌」が最初にあって、それが細胞分裂的に発達していき「自己と他者」、つまり「天と地」に分かたれたとするような発想には、わかりやすくとも、無理があります。その無理が『鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができる』という説明なんです。

 でも、『自他未分』の「渾沌」が、『鏡像ないし鏡像としての他者』に「反応する」ことなんて、あり得ない。なぜなら、「渾沌」にとっては、『鏡像』とか『他者』とかいったものも、認識不能だからです。つまり、聖書では「外部の絶対者」である「神」の一撃によって、「渾沌」は分かたれていくので、その意味では合理的なんですが、『鏡像ないし鏡像としての他者と関係すること』なんてヌルイ働きかけでは、とうてい「渾沌」が整序化し始める(自己組織化を開始する)なんて、ボクには信じられないんですよ。

 ですから、そんなボクは、当然「最初は自他未分の混沌であった」という発達心理学の「仮説」、つまり浅田彰さんも採用している「仮説」を、疑うんです。「最初から、自他は、一個の生命の中に存在した。それがやがて、実用的に整序された(変形された)にすぎない」のではないか、と考えるんですね。

 したがって、ボクが『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』と言う場合、それはkamuiさまがご指摘下さったような『前段階としての自己と他者が混合している状態のこと』でもなければ、浅田彰さんのおっしゃる『自他未分の混沌に埋没していた幼児』の状態でもないんです。ボクが言いたいのは、「幼時」も「今(成人時)」も、人の中には「自己と他者」が存在しており、それが「発達心理学的な観念」によって「自己は自己だけ」だと思い込まされているだけ、「錯覚」しているだけなんじゃないか、ということなんですね。
 ですから、そうした立場から言うと、ボクの意見は「今も、自己の中にある他者を働かせることは可能なのだ」ということであって、浅田さんのおっしゃる「自己が確立されているからこそ、他者とも相渡ることができるのだ」というのとは、根本的に「違う」んです。

 ボクの言っているのは、そういう「ロゴス中心主義」ではありません。「自己と他者」は、「階層秩序的二者」なのではなく、区分・決定の「不可能なもの」であり、まただからこそ「在りうるもの」だということなんですよ。

 例えば、園主さまは『中井英夫全集12 月蝕領映画館』(創元ライブラリ)の月報「眠り男の迷宮・迷宮の夢」で、中井英夫の「過剰な演技性」ということを論じて、


『 多くの読者、あるいは直接つきあいのあった人それぞれに、中井英夫とはこのような人であったという中井英夫像なり中井英夫観があるだろう。それが、それぞれに微妙な違いを見せるのも、「観察者」が別人ならば「観察像」が変化するのも、理の当然である。しかし、中井英夫の場合、ことはそれほど単純ではない。中井英夫とは、いわば〈私〉の「演出家」であり、「演出家」である〈私〉もまた、べつの〈私〉に演技をつけられる「演技者」であった。つまり、中井英夫には、特権的な「本来の私」など存在しなかった。――私には、そのように思えてならない。「本当の中井英夫」という〈現実〉を求めてみても、それは無限後退のあげく、いつの間にか最初の〈私〉たる中井英夫に戻っていて、実像探究の旅は堂々回りに終わらざるを得ない。』


と書いています。でも、これは、何も中井英夫ひとりに限定された話ではないんですね。これは、「内省的」な人なら、誰もが感じることなんじゃないでしょうか。つまり「私はああいう人間でもあれば、こういう人間でもあり、そういう人間でもある。さて、ホントの私とは、いったいどれなんだろうか?」と。でも、そんな「自分探し」が虚しいというのは、言われて久しいことですよね。つまり「本当の自分=特権的自分=決定的自分」なんて「存在しない」んです。つまり、「私」とは、ついに「決定・到達不可能なもの(=差延)」であり、言い換えれば「私はすべての私であり、他者はすべての他者である。したがって、私は他者でもある」ということなんです。

 だから、ボクは『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』、「私」の中には「他者」が在り、「私」は「私という他者」でもあるのだ、ということを言いたかったんです。「私は決して、単なる私(に決定され、固定された)私ではない」ということを言いたかったんですよ。そして、ここ「花園」は、「私は私でしかない」という「観念的呪縛」から解放される「場所」だと言いたかったんです。

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つまり、ここでホランド氏の「言いたい」のは「自己と他者の区別があって、それを乗り越えるというのではなく、初めからそんなものはない」ということではないかと思います。
ここでの対話の文脈で言うなら、「主催者とお客さん」が「同等」ということではなく、もともと「同じ」であり、その区分は「事後的・便宜的」なものでしかない、といったようなことではないかと、私は読みました。
もちろん、kamuiさんの意図を、ホランド氏が、あるいは私が、「正しく」理解しているという保証はありません。

ともあれ、ここでホランド氏が「言いたい」のは「ここでは、世間的な形式への配慮は抜きにしましょう」ということであり、「浅田彰の思想」がどうのという話ではない、ということです。
ホランド氏の意見は、あくまでも「kamuiさんの意見」に向けられたものであり、そこで引用された「浅田彰の言葉」は「kamuiさんの意見の代用品」でしかないということです。kamuiさんもそのつもりだし、ホランド氏もそのつもりで応接しているんですね。

ですから、この「2人の対話」において有効に働いている「kamuiさんの意見の代用品」としての「浅田彰の言葉」を、「他の浅田彰の言葉(浅田彰の思想)」とむすびつけるのは、的外れです。なぜなら、「kamuiさんの意見」は、必ずしも「浅田彰の思想」と一致しないからですね。

「全体」から切り離されて引用された「部分」としての「浅田彰の言葉」は、そもそも「kamuiさんの意見(の代用品)」でしかなく、「浅田彰の思想」に還元できるものではない(どこへでも還元できるものである)というようなことです。そこでの「浅田彰」とか『構造と力』という「名義」は、その「部分」の示す内容と「一致(同じ)」するものではありません。「部分」は「部分」であって「全体」ではない。あくまでもそれは、「所有」を示すための世俗的な「レッテル」でしかないでしょう。

はらぴょんさんには、そうした「レッテル」しか見えないし、だからこそ「レッテル」が重要なんですね。

つまり、はらぴょんさんの場合には、まったく同じ内容が書かれた本が、片側は著名哲学者の「名義」で刊行され、片側がお笑いタレントの「名義」で刊行された場合、その評価は大きく違ってくるでしょう。

だから、ある「誰でも書きそうな断片」が「浅田彰」や『構造と力』にあった場合、はらぴょんさんにとっては、それは「kamuiさんの意見」ではなく、「浅田彰」や『構造と力』が占有するもの(意見)として扱われねばならないのです(ホランド氏は、そうしなかった。「kamuiさんの意見」として応接した)。
むろん、メルロ=ポンティが原著者だという、はらぴょんさんの指摘も、同じ価値観に基づくもので、それが「誰の意見でもあり得る」ということを踏まえて発せられたものではありません。そんな考えを認めたら、はらぴょんさんの「現代思想コレクション」は「価値」を失ってしまいますからね。
No.253 - 2007/05/22(Tue) 21:59:00

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杉澤鷹里 2007年03月03日 10:35

>私にとっては問題なのは「誰が言ったか(名義)」ではなく、それが「どういう考えか(中味)」ということ

 この意見に私も共感します。「吐き気がするくらい哲学学が俺は嫌い(『ナチュリストの日』より)」です。そして、
 
>kamui氏が、浅田彰の『構造と力』からの「引用」として紹介した引用文について、それが仮に浅田彰の意見だと仮定した上で、ホランド氏がそれに異論を唱えたに過ぎません

という意見についても妥当性があるように思います。したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
 このことが一番初めに提起されておれば(というかこの点についてのみ議論を進めておれば)、妥協点も見出しやすく、早くに労力も少なく、この一連の議論も収束していただろうと思います。
 
 その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。
 それに関連して、はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っているように見える点についてもある程度、了解できます。思想に詳しくなると、思想家の名前を使うことが、思想の内実を効率よく圧縮することができる手法となるからです。誰が言ったかということが、何を言ったか、ということにかなりの程度対応するようになるからです。
(もちろん圧縮することにより損なわれる情報があるということ、圧縮されたものは、受信する側によって再構成されなければならず、その再構成について用いられるコードが同じものでなければ情報が届かないということ、この二つの点への注意は必要になります。)
 といったところで、両者のスタンスの違いは違いとしてあるとしても、どちらか一方でなければならない、ということはなく、抵触した個々の事例、について修正を重ねていけばいいのだと思うのです。
No.252 - 2007/05/22(Tue) 21:57:17

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杉澤鷹里のコメント 2007年03月03日 00:48

 何度読んでも、よく分からないのですが、もともとの出発点となったkamuiさんとホランドさんのやり取りで、ですね、ホランドさんのしている主張は、否定していると取り上げているところのkamuiさんが二度目に引用している箇所と同じものですよね。lainさんもたぶん、同じことを言われていると思いますが。
 kamuiさんの議論の運びにクセがあって、少し見通しが立ちにくくありますが、一度目の引用と二度目の引用とはまったく質の違うもので、その質の違う二つの引用について、ちょっとホランドさんが混同されているのかな、という印象を受けていますが、いかがでしょうか。
No.250 - 2007/05/22(Tue) 21:47:25

mixi(6)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 15:21

  はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ (追補)



はらぴょんさんの、

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

について、いくつか補足的に論じておきたいと思います。


「『テロルの現象学』について」と題されたこの文章で、はらぴょんさんは、笠井潔の『テロルの現象学』について、次のように論じております。

> ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
> 私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。
> 『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義的テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義の弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
> しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
> そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
> 『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
> ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
> 笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
> したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。


上の引用文の冒頭部で、

> ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。

と書いているとおり、はらぴょんさんは、私が「笠井潔の事情通」ではあっても、その「思想」面を充分に「理解していない」と言いたいわけです。そして、自分の方がよく「理解している」と言いたくて、このような文章を書いているんですが、――これは、笑止としか言い様がありません。
なぜなら、ここで、はらぴょんさんが書かれているような「笠井潔の思想的理解」は、笠井潔を読んでさえおれば、誰にでも可能な「事実の列記」でしかないからです。

つまり、

> 私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。

などというのは、笠井読者には「常識」に類する話であり、『私の見るところ』などと「私」の手柄のように言うことではない、ということです。

また、それ以外についてもまったく同じで、「笠井潔が、バタイユの影響を受けている」とか「『戯れという制度』が、ニューアカブーム当時に書かれた」とか「笠井は、ニューアカを代表する人物として浅田彰を敵視した」とか「笠井は、竹本健治や清涼院流水を、ニューアカ=ポストモダン的小説の作者として敵視した」などということは、すべて「笠井潔本人が書いていること、そのまま」であり、ここに「はらぴょんさんの理解」など、ひとかけらの無い、のですね。
つまり、これは、単なる「まとめ(要約)」であり、「理解」などではありません。「理解」などしていなくても、「読んでいれば=知っていれば」誰にでも可能な「まとめ(要約)」でしかない、ということです。まただからこそ、はらぴょんさんの論文は「ネットでコピペの、大学生の卒論」みたいなものになってしまうのです。
したがって、このような文章を「理解」を示すものであると思って提出する はらぴょんさんは、「思想」にかぎらず、何ごとにおいても、「理解」と「暗記」の区別がついていないということになるのです。


そして、このように「暗記」しかない はらぴょんさんの「批評」は、山ほど「思想哲学書」を読んではいても、当然のことながら「幼稚」なものに止まらざるを得ません。つまり、「理解」されなかった「思想哲学書」は、はらぴょんさんに何も資するところなかったということです。その実例が、次の部分です。


> この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
> では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
> アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィで探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
> 問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。


冒頭の『現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。』という点については、すでに本「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」(本編)で書いております。

で、問題は、はらぴょんさんの私への批判が『アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使して』という「馬鹿のひとつ憶え」でしかない、ということです。

例えば、私が、笠井潔に関連して「探偵小説研究会」全員を批判するのは、「探偵小説研究会」の全員には、その「肩書き」において、笠井潔の言動についての「共犯」責任があるからであり、そこに「一部例外扱い」はなされるべきではなく、はらぴょんさんのように「知り合いだけは、個人的に免責する」などという態度は、批評家として赦されない、と考えるからにすぎません。

私は、以前に「探偵小説研究会」のメンバーの「共犯責任」について、その例外を認めない理由を、次のように記しています。


『(※ 私の笠井潔、および「探偵小説研究会」批判が)お笑いいただけたと確信する半面、やっぱり「いやな感じ」も残ったでしょう? どうしてだか、わかりますか?
それは私が、「探偵小説研究会」とひと括りにして、巽昌章・法月綸太郎・千街晶之などの才能のある人も「例外」にはしなかったから、ではないでしょうか。――私が彼らを「例外」扱いにしないのは、才能があろうとなかろうと、彼らは笠井潔の「共犯」者であり、そこから目を背けることは、私たち自身の自己欺瞞であり、批評的な不徹底でしかないからです。
譬えて言えば、ユダヤ人の虐殺を知っていながら、それを黙認した者(しかも、そのナチス党員であった者)は、直接手を下さなくても「共犯」であると評価・断罪せざるを得ないし、そう評価・断罪しない者もまた「共犯」たらざるを得ないからです。
これは「批評」という行為の「形式」を徹底するならば、当然避けられないところなんですね。でも、「ミステリ界」という村中に止まるかぎり、「形式の不徹底」は、むしろ村の誰からも歓迎されるんです。巽昌章・法月綸太郎・千街晶之などの評論が喜ばれるのも、貧困な「村の土地」を耕してくれるからで、彼らが「外」へと開く「開墾」という危険な行為には手をつけないからでしょう。』
   (http://blog.taipeimonochrome.ddo.jp/wp/markyu/index.php?p=1038


ここで語られている「共犯」性とは、例えば「この度、笠井潔は探偵小説研究会の特別会員になった。特別会員とは、権利はあるが義務は負わないという立場であり、いわば一線を退いたかたちである」というような「欺瞞的な説明」を「探偵小説研究会」名義で公表した点などにも明らかでしょう(ちなみに、巽昌章と千街晶之は、彼らが評論家デビューする前からの知り合いです)。

ともあれ、私の批評は、はらぴょんさんが私に貼ろうとしているレッテルである『ニ分法』などという、単純なものではありません。つまり、批評する対象を「敵・味方」の2つに分けて、「敵は何があっても批判し、見方は何があっても誉める」というような、単純なものではないということです。そして、これはむしろ、私の話ではなく、小森健太朗や清涼院流水や竹本健治を批判することのできない、はらぴょんさんご自身の話でしょうし、それは、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のページに書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で紹介した、

> 以前、はらぴょんさんは、竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆いておられました。そして、ご自分は、どうせ長く生きられない人間だとか何とか「詠嘆調」で書いておられました

という「事実(エピソード)」にも明らかなことでしょう。
要は、そんなことでいちいち「泣き言」を言う男が、「つながりのある、好きな有名人」を批判できるわけがない、ということです。


ちなみに、私の方はと言いますと、事実としてそんなことはありません。
私は、ものごとを是々非々で評価しますから、誉める時もあれば批判する時もある。

例えば、私は竹本健治の大ファンですが、『風刃迷宮』は評価しませんでした。

・ 楽古堂主人・大内史夫「アニムスの物語 書評 竹本健治『風刃迷宮』 」(末尾付録の議論を参照)
  (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ohuti_fuujin.html

『闇の中の赤い馬』や『狂区の爪』『妖夢の舌』『眠れる森の惨劇』などといった作品についても評価しておらず、その事実は竹本健治本人にも伝えられております。

また、私は中井英夫の大ファンですが、中井英夫の生き方を全面肯定したわけでもありません。

・ 「中井英夫の「晩年」――「幻想文学者」という生」
  (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/nakai_gessyoku.html

作品についても、駄作・失敗作が多いという事実は、公に認めております。


これらは、私が、ものごとを「ニ分法」で評価するような人間ではないということを示す「事実」の、ほんの一例であり、はらぴょんさんにも「既知の事実」です。

しかし、はらぴょんさんは「アレクセイはニ分法だ」という「幼稚なレッテル貼り」しかできないので、故意に、こうした「数々の事実」を無視しているんですね。
つまり、はらぴょんさんの上のような批判は、「批判」の名に値しない、単なる「レッテル貼り=決めつけ」であり、事実を故意に無視した「誹謗中傷」でしかないということです。

そして、追いつめられると、反省することもせず、相手を誹謗するしか能がないというのは、はらぴょんさんが単に「批評家として無能」であるばかりではなく、自身の「弱さ」を直視できない「愚か者」だという事実を示す、これはなによりの証拠なのです。
No.244 - 2007/05/20(Sun) 09:34:11

mixi(6)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 00:52

  はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ



 タイトルどおりです。まったく「強弁」するにもほどがあると思うのですが、……論理的・実証的に反駁できない以上、こうなるしかないのでしょうね。


 例によって今回も、はらぴょんさんの文章、

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

について、逐語的に分析していきましょう。


> アレクセイこと田中幸一氏との論戦は、次のような経過から始まった。

> (1)ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述を行った。
> これに対し、アレクセイこと田中幸一氏は、自身の運営する「BBSアレクセイの花園」にて、2月11日(日)01時01分22秒に、同様のことを指摘する記述を行った。
> このことを、私はミクシィでの私の日記(2007年02月11日08:52)に書いたところ、アレクセイこと田中幸一氏の反感を買った。
> 時間の流れからすれば、私が書いたのが先であり、これに関してとやかく言われる筋合いはない。
> また、「かくかくしかじか」は、読めば誰でも気づくところであり、私の指摘もたいしたことはない。人によっては「スボラ流省略の極意」という人もあれば、「メタ・フィクション」傾向を見出す人もいるだけだと思う。また、アレクセイ氏の指摘が遅れたのも、単に『キララ、探偵す。』の表紙のメイドの絵に、羞恥を覚えて購入が遅れただけだと思う。
> アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
> ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
> しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。
> それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。


 この件については、はらぴょんさんの日記、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のコメント欄に書き込んだ、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」に書いたとおりである。
 しかし、はらぴょんさんは、私がここで書いたことを、まったく無視し、論旨を歪めて、ここで「恣意的なまとめ」を提示(事実に反する報告を)し、それに基づいて、私を誹謗しているに過ぎません。――問題は、次の部分です。

> アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
> ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
> しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。


 ここでは「曖昧に記述されている」のですが、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』は、私のレビュー

・ 「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」2006年04月26日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=123885033&owner_id=856746

の日付けが「昨年(2006年)」の4月にもなっているとおりで、今年(2007年)の1月末に刊行された『キララ、探偵す。』に先んずること、十ヵ月も前の作品です。
 私は、上の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」において、『狂い咲く薔薇を君に』の『あのう、それはかくかくしかじか』 (P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる竹本健治の『「メタ・フィクション」的手法』について紹介しています。つまり、はらぴょんさんが上に書いているとおり、はらぴょんさんが『キララ、探偵す。』のレビューで『「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあること』を指摘したとしても、それは言うまでもなく、私の指摘のずっと「後」でしかありません。

 それに、私の指摘は、『狂い咲く薔薇を君に』が一見したところ「メタ・フィクション」的な作品ではなかったからこそ意味のあった指摘であり、それは『キララ、探偵す。』についても、まったく同じなのですね。だから、はらぴょんさんが、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を知らずに『キララ、探偵す。』に秘められた「メタ・フィクション」性を指摘したのなら、それはそれで意味もあったでしょうが、はらぴょんさんは拙論を読んでおり、しかも『キララ、探偵す。』には『狂い咲く薔薇を君に』とまったく同じ『かくかくしかじか』という「特殊な表現」が出てくるのですから、いまさらそこに『キララ、探偵す。』に秘められた「メタ・フィクション」の可能性を指摘するのは、私の「猿真似」でしかない、ということなのです。

 ちなみに、はらぴょんさんが悪質なのは『現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。』とは書いても、ここでは、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んだとは、明言していないところです。――当然これは、「読んだ」と認めれば、前後関係が明らかになるからでしょう。しかし、ご自身の日記、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648
(2006年)
に、

『いや、実は(※『キララ、探偵す。』に)「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


と書いておられるとおり、はらぴょんさんは私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読み、そこで私が『あのう、それはかくかくしかじか』 (P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる竹本健治の『「メタ・フィクション」的手法』について紹介しているのを読んだ上で、私が『キララ、探偵す。』における『「かくかくしかじか」という箇所が53ページにある』という点にも『着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう』と思い、書いたのだ、とそうハッキリ、しかも欺瞞的に証言しているのです(『着目しそう』も何も、『狂い咲く薔薇を君に』の段階ですでに着目している、ということ)。

 つまり、はらぴょんさんの『キララ、探偵す。』における指摘は、ご自身、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んでの上だ認めているにもかかわらず、ここでは『キララ、探偵す。』については『私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはない』などと開きなおっているんですね。――『キララ、探偵す。』に「ついて」だけ言っても、まったく無意味なのにです。

 さらに、はらぴょんさんが悪質なのは、

> それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。

と、私の見解を無視した、事実に反する「レッテル貼り」に勤しんでいる点です。
 私は、「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で、事実の前後関係を明確にした上で、次のように書いています。


『私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので、私は、先の、はらぴょんさんの日記ページ、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

に、 『それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。』 とだけ、警告的にたしなめるに止めたのです(2007年02月12日)。 』


 つまり、問題は「前後」関係ではなく、はらぴょんさんの「パクリの隠蔽工作」なんですね。
 それをここでは、さも私が「優先権」を問題にしているかのように「事実をねじ曲げて報告」する。これが、はらぴょんさんの、ここでの悪質さだと、私は指摘しているのです。


> (2)前述の『キララ、探偵す。』を巡って起きた不協和音は、私が「批評におけるパラダイムの混在」という文章を、2007年02月15日01:48、ミクシィにアップしたことから激化して、今日に至るまでの議論となった。
> 「批評におけるパラダイムの混在」には、次のような記述がある。

> ※以下は、引用です。

>> 例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
>> これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、
>>>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
>>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。
>> というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
> この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
> では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
> アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィで探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
> 問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。


 この問題について、今日まで論じなかったのは、単にその時間が無かっただけであり、いつでも論じられるほど「初歩的な問題」に過ぎなかったからにです。したがって、この「鬼の首でもとった」かのようなおっしゃり方に応えて、これについて書くことにしましょう。

 まず、ここで、はらぴょんさんは、「アレクセイの花園」において、さもホランド氏が、浅田彰の『構造と力』の一節を引用し、それに異論を唱えた「かのように報告」なさっていますが、これは事実ではありません。

 事実は、「アレクセイの花園」に書き込みに来られている、kamui氏が、浅田彰の『構造と力』からの「引用」として紹介した引用文について、それが仮に浅田彰の意見だと仮定した上で、ホランド氏がそれに異論を唱えたに過ぎません。つまり、ホランド氏は、


(引用1)『

至福の読書(2) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月18日(木)10時59分2秒

◆ kamuiさま

> 主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)


 浅田彰さんは、『逃走論』は読みましたが、『構造と力』は難しそうだったので、まだ読んでいませんでした。でも、この部分は、とてもよくわかります。

 で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです(笑)。』


(引用2)『

 私って何?(3) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月21日(日)15時30分3秒

◆ kamuiさま

>>で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用
>>しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」
>>と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理
>>だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです>(笑)。

>そうですね。ただし、浅田を紹介したところの内容は自己と他者に境界ができた後での相互交換という意味で引用させていただきました。その前段階としての自己と他者が混合している状態のことではありません。浅田は以下のように述べています。

> ******
> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
> *******

> つまり、ここでは自己が他者と人称的に存立する前に、自己と他者の区別がない状態があり、その後、幼児の発展過程にしたがってパースペクティヴを交換することができると語っています。


 え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。

 浅田さんの議論は、「自己(私=我)」に基底を置き、その派生物として「他者」を規定しています。だからこそ、「自己」をいうものを大前提(基底)として「それがどのような形で、形成されたのか?」という「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」に基づいて、「自己と他者という截然とした区別がなかった時代」つまり「混沌としての幼時(=原始時代)」という「発達心理学的な仮説」を採用しているんだと思うんです。でも、「渾沌」が最初にあって、それが細胞分裂的に発達していき「自己と他者」、つまり「天と地」に分かたれたとするような発想には、わかりやすくとも、無理があります。その無理が『鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができる』という説明なんです。

 でも、『自他未分』の「渾沌」が、『鏡像ないし鏡像としての他者』に「反応する」ことなんて、あり得ない。なぜなら、「渾沌」にとっては、『鏡像』とか『他者』とかいったものも、認識不能だからです。つまり、聖書では「外部の絶対者」である「神」の一撃によって、「渾沌」は分かたれていくので、その意味では合理的なんですが、『鏡像ないし鏡像としての他者と関係すること』なんてヌルイ働きかけでは、とうてい「渾沌」が整序化し始める(自己組織化を開始する)なんて、ボクには信じられないんですよ。

 ですから、そんなボクは、当然「最初は自他未分の混沌であった」という発達心理学の「仮説」、つまり浅田彰さんも採用している「仮説」を、疑うんです。「最初から、自他は、一個の生命の中に存在した。それがやがて、実用的に整序された(変形された)にすぎない」のではないか、と考えるんですね。

 したがって、ボクが『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』と言う場合、それはkamuiさまがご指摘下さったような『前段階としての自己と他者が混合している状態のこと』でもなければ、浅田彰さんのおっしゃる『自他未分の混沌に埋没していた幼児』の状態でもないんです。ボクが言いたいのは、「幼時」も「今(成人時)」も、人の中には「自己と他者」が存在しており、それが「発達心理学的な観念」によって「自己は自己だけ」だと思い込まされているだけ、「錯覚」しているだけなんじゃないか、ということなんですね。
 ですから、そうした立場から言うと、ボクの意見は「今も、自己の中にある他者を働かせることは可能なのだ」ということであって、浅田さんのおっしゃる「自己が確立されているからこそ、他者とも相渡ることができるのだ」というのとは、根本的に「違う」んです。

 ボクの言っているのは、そういう「ロゴス中心主義」ではありません。「自己と他者」は、「階層秩序的二者」なのではなく、区分・決定の「不可能なもの」であり、まただからこそ「在りうるもの」だということなんですよ。

 例えば、園主さまは『中井英夫全集12 月蝕領映画館』(創元ライブラリ)の月報「眠り男の迷宮・迷宮の夢」で、中井英夫の「過剰な演技性」ということを論じて、

『 多くの読者、あるいは直接つきあいのあった人それぞれに、中井英夫とはこのような人であったという中井英夫像なり中井英夫観があるだろう。それが、それぞれに微妙な違いを見せるのも、「観察者」が別人ならば「観察像」が変化するのも、理の当然である。しかし、中井英夫の場合、ことはそれほど単純ではない。中井英夫とは、いわば〈私〉の「演出家」であり、「演出家」である〈私〉もまた、べつの〈私〉に演技をつけられる「演技者」であった。つまり、中井英夫には、特権的な「本来の私」など存在しなかった。――私には、そのように思えてならない。「本当の中井英夫」という〈現実〉を求めてみても、それは無限後退のあげく、いつの間にか最初の〈私〉たる中井英夫に戻っていて、実像探究の旅は堂々回りに終わらざるを得ない。』

と書いています。でも、これは、何も中井英夫ひとりに限定された話ではないんですね。これは、「内省的」な人なら、誰もが感じることなんじゃないでしょうか。つまり「私はああいう人間でもあれば、こういう人間でもあり、そういう人間でもある。さて、ホントの私とは、いったいどれなんだろうか?」と。でも、そんな「自分探し」が虚しいというのは、言われて久しいことですよね。つまり「本当の自分=特権的自分=決定的自分」なんて「存在しない」んです。つまり、「私」とは、ついに「決定・到達不可能なもの(=差延)」であり、言い換えれば「私はすべての私であり、他者はすべての他者である。したがって、私は他者でもある」ということなんです。

 だから、ボクは『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』、「私」の中には「他者」が在り、「私」は「私という他者」でもあるのだ、ということを言いたかったんです。「私は決して、単なる私(に決定され、固定された)私ではない」ということを言いたかったんですよ。そして、ここ「花園」は、「私は私でしかない」という「観念的呪縛」から解放される「場所」だと言いたかったんです。』


 以上、ホランド氏の「原文」を読めば、ホランド氏が「浅田彰批判」をしているわけではなく、「kamui氏によって引用された文章に示された考え方」に異論を唱えているだけだ、というのは明白でしょう。

 なにしろ、ホランド氏は『『構造と力』は難しそうだったので、まだ読んでいません』と明言しているのですから、この引用文が誰の「考え」を語ったものなのか、自分がそれを正確には特定できない立場にあるというのは承知しているのです。まただからこそ、ホランド氏にとっては、この「引用文」に示された考えの持ち主は、浅田彰であろうとメルロ=ポンティであろうと、そんなことは問題ではありません。つまり、ホランド氏の異論は、あくまでもkamui氏の「引用文に示された考え方」に対するものであったということなのですね。

 けれどもまた、この文章が、浅田彰の『構造と力』から引かれたものだと紹介されており、kamui氏が『浅田は以下のように述べています。』と紹介している以上、あそこでの議論においては、仮にそれを浅田彰の考えだとし、便宜的に「浅田」を主語にして語るというのは、しごく常識的なことだと言えるでしょう。
 例えば、Aが、貴方に「Bが、貴方のことをペテン師だと言っていましたよ」と告げたとします。その場合、貴方は「Bがそう言ってたんなら、それはBの勝手だけど、僕はペテン師なんかじゃないよ。Bは嘘つきだ」と答えたとします。そして、それを横合いで見ていたCが「貴方のことをペテン師だと言っていたのはDで、Bはそれを伝聞として語ったにすぎません。貴方のB批判は、とんだお門違いです」と、注文をつけたとします。さて、貴方はいつ、Bを批判したでしょうか? ――というような話と同じなんですね。
 貴方はあくまでも「Aの言ったことが、事実だったとすると」という「仮定」のもとに「B評価」を語っているのであって、これは「仮の話」でしかありません。つまり、Cは「仮の話」と「事実」の区別がつけられずに、したり顔で「知ったかぶり」しているだけなんですね。

 話を戻すと、こんな明らかなことについて「あれは浅田彰の文章ではなく、浅田がメルロ=ポンティを要約したものだ」などという指摘をするのは、はらぴょんさんにとって、こうした話題では「内容が問題ではなく、作者が問題である」と認識されている証拠だと言えましょう。要は、はらぴょんさんにとっては「考え方(思想)の中味」が問題なのではなく、「誰がそれを言ったか(名義)」が問題だということです。
 そして「誰が言ったか」ということをはらぴょんさんが問題にするのは、お得意の「思想哲学」に関することだけだという点にも、はらぴょんさんの「権威主義」「思想哲学オタク」(「これは(思想哲学)は、僕の(オモチャ)だ」)ぶりが表れていると言えるでしょう。
 なにしろ、ご自分は、

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

において、ご自分で、

『実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。』

と書いて、私のマイナスの面についての『あら探し』をする一方、『プラスの面も盗むこと』をしていたと自供して、ご自分が「誰が言ったか(作者は誰か)」の問題を、自分ではいい加減にする人間であることを認めているのですから。

 ともあれ、はらぴょんさんが、私やホランド氏の文章に、このような「難癖」をつけた理由が、私への「妬み」や「やっかみ」や、それに発する「憎しみ」にあったというのは、上のはらぴょんさんの自供にも明らかでしょう。

 ここで念のために説明しておくと、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」を利用した、私やホランド氏に対する今回の「批判」が、なぜ批判の名に値しない「難癖」なのかと言えば、それは次のような譬え話によって、その論点がハッキリするでしょう。

 ここに、童話『桃太郎』の物語について、議論している二人がいるとします。で、一方が「この物語には、作者の、アメリカ的な単独主義、問答無用の先制攻撃主義が表れているね」と言ったとします。そこへ「民話・伝承」に詳しい人が横合いから出てきて「君たちは、童話『桃太郎』の元となった民話や伝承がどういったものかを知った上で、作者の思想を云々しているのか? 童話『桃太郎』には、原・作者の考え方など反映されておらず、むしろ後代の者の思想が反映されているのだ」などと言ったとします。――さて、この「横合いからの注文」は、最初の二人の議論に関する「適切な注文」だと言えるでしょうか?

 言うまでもなく、最初の二人は『桃太郎』の成立仮定など知らないことを前提として、ごく常識的『桃太郎』理解において議論しており、決して「専門的」な話をしているわけではありません。それなのに、そうした議論を「専門の領域」に回収して、議論する権利を独占しようとするような「専門家気取り」の態度が、はたして正しいと言えるでしょうか?
 ――もちろん言えません。こういう、的外れな「専門家気取り」は、「マニア」や「オタク」の世界では、どこででも見られる、幼稚な悪弊に過ぎないのです。

 ヘーゲルは、こう言っています。

『一般によく知られたものは、よく知られているからといっても、認識されているわけではない。認識に当たって、あることをよく知っていると前提して、それをそのまま放っておくのは、最もありきたりな自己欺瞞であり、他人に対する欺瞞でもある。そういう知は、あれこれおしゃべりはするが、一向はかどらないし、そんな自分の状況も知ってはいない。』(『精神現象学』)

 つまり、私が、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」を批判して言った「暗記のレベルに止まり、理解にはいたっていない」というのと同じことを、ここでヘーゲルは言っているのです。
 はらぴょんさんは「暗記した知識」が単なる知識として放置されていることに気づかず、そんな「がらくたの権威」を振り回して、門外漢の「門外漢たる事を前提とした議論」に、嫌らしい「難癖」をつけているんですね。

 ちなみに、私とはらぴょんさんとの「思想哲学的知識の使い方」の差異は、私が上のように書いたとしても、私の場合は、それがヘーゲルの言葉でなくても何ら差し支えない、という事実に表れています。
 ――これはじつは「嘘」で、上の文章は、ヘーゲルの引用ではなく、私がそれらしくでっち上げた私の言葉なのです(笑)。

 つまり、私にとっては問題なのは「誰が言ったか(名義)」ではなく、それが「どういう考えか(中味)」ということであり、それは先のホランド氏の議論でも同じだ、ということです。
 ホランド氏は、kamui氏との議論において、あくまでも「kamui氏が引用した文章の中味」に対し異論を唱えたのであり、読んだこともないと認めている『構造と力』や浅田彰(ましてやメルロ=ポンティ)の「考え」への異論表明などではなかったというのは、常識があればわかりきった話だ、ということなのですね。


 したがって、以下につづく、はらぴょんさんの「半可通の知ったかぶり」の議論も、根本的なところで「的外れ」であり、単なる「難癖」でしかありません。

 しかし、「思想哲学的知識」にアイデンティティを依存している はらぴょんさんとしては、現実を直視して反省することをせず、こういう無内容な『一向はかどらない』『おしゃべり』に明け暮れるしかないのでしょう。――まあ、私は義理堅いので、最後までおつき合いしましょう。


> ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
> 私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。
> 『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義的テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義の弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。> だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
> しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
> そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
> 『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
> ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
> 笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
> したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。


 要は「浅田彰の『構造と力』を読んでいなければ、笠井潔の思想を理解しているとは言えないし、それでは笠井潔批判は行い得ない」と、『構造と力』を読んでいる はらぴょんさんは、そう言いたいのですね。
 いかにも『よく知られているからといっても、認識されているわけではない。』ということを理解していない、「読書量・自慢」のはらぴょんさんらしい言い方です。

 しかし、私の何倍もの「思想哲学書」を読んでいるはらぴょんさんご自身が、こんな「幼稚な意見」しか言えないという事実からしても、「読んでいる」と「理解している」は「比例しない」というのは明らかでしょう。無論、読んでいるに越したことはありませんが、はらぴょんさんのように、読んではいても「知っているだけ」では話になりません。

 どっちにしろ、ここで示されているのは「車を20台所有している者の方が、車を1台しか主有していない者よりも、車のことを知っている」とするような、極めて幼稚な議論であるのは言うまでもないでしょう。


> アレクセイ氏の件に話を戻そう。『構造と力』の解釈に関する私の疑問に、すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返しているアレクセイ氏とは、一体何者なのか。本当に「文芸評論家」と呼べるに値するのか。

 この「強弁」には、心底あきれてしまいます。

 私は、はらぴょんさんの意見を分析して、実証的に、はらぴょんさんの「幼稚さ」を証明しており、これは『すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返している』などと言われる筋のものではありません。それどころか、拙論を読んでいただければお分かりのとおり、はらぴょんさんの方が「事実に反する報告」をし、それに基づいて『すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返している』などと私を口汚く断定しているだけなのですから、『すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返している』のは、いったいどちらでしょうか。こんなことは、ログを読み返せば、誰にも明白なことなのに、よくもまあヌケヌケと書けるものです。


> あるいは、本当に笠井潔氏の思想を充分理解した上で、笠井潔氏批判をしているのだろうか。(ちなみにこののような議論をミクシィで始めてから、私のページに笠井潔氏の足あとが数回あった。だから、笠井氏はアレクセイ氏が議論のきっかけとなった『構造と力』解釈に、すぐさま反論しないという奇妙な事実を認識した可能性がある。)『構造と力』は、一昔前とはいえ、ブームとなった本であり、批評の上でベーシックな本である。批判するにせよ、肯定するにせよ、仮にも評論家を名乗る以上、一応は押さえておくべき本であると思う。しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。


 『構造と力』を読んでいない私には、反論が不可能であると、安易に前提した上での「先走り」ですが、これは前述の論証において、すでに無効です。
 私にしろ、ホランド氏にしろ、読んでもいない『構造と力』を批判したり、浅田彰を批判したりするほど、馬鹿ではありません。ホランド氏の書いた文章を、『構造と力』批判であるとか、浅田彰批判であるなどというのは、所詮は、はらぴょんさんの歪んだ自尊心(「思想哲学」に関する専門家意識)の見せた「妄想」に過ぎなかったということです。

 また、少なくとも笠井潔は、はらぴょんさんほど非論理的ではないから、実際には、せいぜい「内輪もめ」を確認しに来た程度のことでしょう。前提が間違っていると、結論も当然間違ったものになってしまいます。――それが、論理的な推論であれば、の話ですが。


 ともあれ、この調子で行けば、はらぴょんさんは今後も、ホランド氏の文章が『構造と力』批判であるとか、浅田彰批判であるなどと「強弁」するでしょう。しかし、そうした「強弁」は、事実が、その「事実無根の強弁」性を告発することになります。
 だから、せいぜい、一連の議論に関し、「削除」による「証拠湮滅」など謀らないように、と忠告しておきたいと思います。

 はらぴょんさんが、この「『テロルの現象学』について」という文章でおっしゃっているのは、簡単に言えば「私(はらぴょん)は、笠井潔批判に必要な『構造と力』を読んでいるが、アレクセイはそれも読まずに笠井潔批判をして、笠井潔葬送派などと名乗っている。そんなのは、ちゃんちゃらおかしい」というようなことです。つまり、――「思想哲学オタク」の「それもこれも読んでるぞ」という自慢話にすぎない、ということです。
No.240 - 2007/05/19(Sat) 09:42:13

mixi(6)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 『テロルの現象学』について 2007年02月27日 07:22

アレクセイこと田中幸一氏との論戦は、次のような経過から始まった。

(1)ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述を行った。
これに対し、アレクセイこと田中幸一氏は、自身の運営する「BBSアレクセイの花園」にて、2月11日(日)01時01分22秒に、同様のことを指摘する記述を行った。
このことを、私はミクシィでの私の日記(2007年02月11日08:52)に書いたところ、アレクセイこと田中幸一氏の反感を買った。
時間の流れからすれば、私が書いたのが先であり、これに関してとやかく言われる筋合いはない。
また、「かくかくしかじか」は、読めば誰でも気づくところであり、私の指摘もたいしたことはない。人によっては「スボラ流省略の極意」という人もあれば、「メタ・フィクション」傾向を見出す人もいるだけだと思う。また、アレクセイ氏の指摘が遅れたのも、単に『キララ、探偵す。』の表紙のメイドの絵に、羞恥を覚えて購入が遅れただけだと思う。
アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。
それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。

(2)前述の『キララ、探偵す。』を巡って起きた不協和音は、私が「批評におけるパラダイムの混在」という文章を、2007年02月15日01:48、ミクシィにアップしたことから激化して、今日に至るまでの議論となった。
「批評におけるパラダイムの混在」には、次のような記述がある。

※以下は、引用です。

>例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
>これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、
>>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。
>というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィで探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。

ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。
『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義的テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義の弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。

アレクセイ氏の件に話を戻そう。『構造と力』の解釈に関する私の疑問に、すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返しているアレクセイ氏とは、一体何者なのか。本当に「文芸評論家」と呼べるに値するのか。あるいは、本当に笠井潔氏の思想を充分理解した上で、笠井潔氏批判をしているのだろうか。(ちなみに、このような議論をミクシィで始めてから、私のページに笠井潔氏の足あとが数回あった。だから、笠井氏はアレクセイ氏が議論のきっかけとなった『構造と力』解釈に、すぐさま反論しないという奇妙な事実を認識した可能性がある。)『構造と力』は、一昔前とはいえ、ブームとなった本であり、批評の上でベーシックな本である。批判するにせよ、肯定するにせよ、仮にも評論家を名乗る以上、一応は押さえておくべき本であると思う。しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。
No.239 - 2007/05/19(Sat) 09:40:42
mixi(5) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 齟齬の根底にあるもの 2007年02月24日 00:48

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648
No.233 - 2007/05/16(Wed) 21:54:52

mixi(5)-9 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月04日 15:51

☆ 杉澤鷹里さま

> 「見解」においてはらぴょんさんが陳謝することができないと拒否を示したのは、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言についてであって、それは自分の発言に誤りがないことを根拠としているわけです。その点は、議論の流れの中で、一貫しています。
> 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」における「大馬鹿者」発言は激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。場合によってはアレクセイさんの発言を受け流している態度とも考えられる(アレクセイさんにとって失礼な態度な)わけですが、少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。「齟齬の根底にあるもの」においてアレクセイさんについて言及した発言は、少なくともアレクセイさんがはらぴょんさんについて論じたのと立場上同等の水準においてアレクセイさんについて言及したのであって、それを口汚い非難というならば、アレクセイさんのはらぴょんさんへの発言もまた口汚い非難であることになります。また前記の「見解」での「陳謝の拒否」、「まだまだ幸せ者だと思わなくては」での「大馬鹿者」発言と直接の関連がないわけですから、それをして一貫性がない、という評価はできないわけです。
> 互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎだと思いますがいかがでしょうか。


 この「はらぴょんさん擁護」には、はらぴょんさんと同じ、恣意的な「話題の限定」がなされております。
 つまり、話題を『「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言について』に限定して、さも私の批判が、それに対してなされたものにしては「過剰である」と言わんばかりの構成になっている、ということですね。しかし、これは誤魔化しであり「欺瞞」であるとしか言い様がありません。

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

に書いた、私の「謝罪要求と警告」文とおり、私のはらぴょんさんへの批判は、最初から一貫して「専門話にことよせてなされる、隠見姑息な嫌がらせ」にあります。それは、次のように私が、最初から書いているとおりです。

> 専門話に持ち込めば「なんとかなる」なんて考えてるのなら、それはいつもどおりの大甘ですよ。私は、専門家ともプロとも喧嘩したことがありますが、そのいずれでも、決して負けてはいません。なぜなら、私は、素人の分際で、生半可な知識を自慢げにひけらかすなんて「みっともないこと」は、決してしないからです。つまり、私が喧嘩する時は、世間の常識に立脚して、相手の言動に表れた、その人の愚劣な人間性をそのまま真直ぐに批判します。だから、相手に付け入る隙を与えないんですよ。

> ここでなされたのも、所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできることですよ。
例えば、ミステリばかり読んでいる人が「○○も読んでいなきゃ、ミステリは語れない」などと言いたがる、あれとまったく同じ。自慢できることが少ないからこそ、ささやかなオタク的知識(本人の成長にはまったく寄与しない、知識のための知識)を最大限にひけらかす。その態度が、「品位」に欠け、「知性」にも欠けたものであるいうことにも、いい年をして気づかない、本質的な「暗愚」。

 杉澤さんのご意見も、この『専門話に持ち込めば』の類でしかなく、私とはらぴょんさんの「やり取りの全体」を押さえるものでもなければ、私が何を批判しているのかを故意に無視するものでしかありません。
 私は、上の文章で、

> 端的に言いましょう。私とホランドくんに対する、この無礼な仕打ちについて、率直に謝罪して下さい。
例によっての「泣き」が入っても、容赦はしません。私は、やるとなったら、相手がそれで自殺しても構わないという覚悟でやるんだから、泣いたの落ち込んだのといったことでは、金輪際、赦したりはしないから、その覚悟でいてください。
> 無論、逃げてもダメです。逃げれば、貴方が何を書いて、こうなったのかについて、貴方の文章を引用し、証拠を「世間」に曝して、批判するだけです。

> 例えば、こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたことについても、はらぴょんさんのなさったことが、単なる「猿真似」であったということを、原文を紹介して論証し、それやこれやで内心面白くなかった貴方が、こんな陰険姑息な文章を書いたのだということを、公然と批判してあげましょう。あの人もこの人も見ている前で、呵責なく、貴方の卑小さを腑分けしてあげましょう。

と書いていますが、ここに示されているのは、はらぴょんさんが問題にしたがる、つまり、そこに話題を限定したがる『「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言』は「結果」として現象したことでしかなく、私が批判しているのは、そういう(杉澤さんも認めている)「的外れな注文」を「いまここで、あえて」つけるに至った、はらぴょんさんの「心根」なのであり、それは私の一連の「はらぴょん論」を読めば、明らかなことのはずなのです。

 例えば、上の文章にも言及している『こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたこと』について、私はその不当性を、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

に書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で、縷々説明しておりますが、杉澤さんは、私のこうした「はらぴょん批判における根拠説明」をまったく無視して、話題を『「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言について』に限定しておられます。しかし、これは、はらぴょんさんが、私の理を尽くした批判に対し、

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

で、『いささか手の込みすぎた悪戯』だったなどと言い訳にもならない言い訳で、不誠実にお茶を濁す態度を、追認するものでしかありません。

 杉澤さんは、はらぴょんさんの「見解」について、

> 「見解」においてはらぴょんさんが陳謝することができないと拒否を示したのは、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言についてであって、それは自分の発言に誤りがないことを根拠としているわけです。その点は、議論の流れの中で、一貫しています。

と書かれていますが、手前味噌に話題を限定して、『その点』に限って『議論の流れの中で、一貫』していることに、いったい何の意味があるのでしょうか? 嘘やデタラメでも、現実の状況に即さなければ『議論の流れの中で、一貫』している、ということにはなりえませんか?

> 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」における「大馬鹿者」発言は激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。場合によってはアレクセイさんの発言を受け流している態度とも考えられる(アレクセイさんにとって失礼な態度な)わけですが、少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。

 たしかに、はらぴょんさんの「まだまだ幸せ者だと思わなくては」は、『陳謝の類でないことは明らか』です。つまりそれは『土下座せんばかりの、卑屈な言葉』をつらねることにより、さも「陳謝しているがごとき」効果を見込んでなされた「誤魔化し」でしかないからです。だから、はらぴょんさんは『土下座せんばかりの、卑屈な言葉』をつらねながらも、事実関係については、

> アレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯

などと「否認」します。
 つまり、これは語の本来の意味での「陳謝」ではなく、「陳謝っぽいポーズ」に過ぎないということです。そして、それはちょうど「マンション耐震構造疑惑事件」において、そうしたマンションを売った会社の社長が、その事実を非難された際「皆様にご迷惑をかけたことに関しては、たいへん申し訳ないことをしたと思っておりますし、善後策に対しては誠実に対処させていただきます」などと平身低頭しながらも、自分がそうした犯罪行為を承知していたかという肝心な点については「私は知りませんでした。ただ、知らなかったということに関しては、責任を感じております」などと「陳謝っぽいポーズ」を取りながら、不誠実な「言い逃れ」をしていたのと、まったく同じだ、ということです。

 で、私はこのような「陳謝っぽいポーズ」を『土下座せんばかりの、卑屈な言葉』と評したのですが、杉澤さんはこれを『少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。』『議論の流れの中で、一貫』しており、『激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。』などと、評するのですね。「盗人猛々しい」態度も『(※ 批判されて)激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様』と評することは可能でしょう。――しかし、これが「欺瞞」でなくて何なのでしょうか?

 私は、はらぴょんさんの「まだまだ幸せ者だと思わなくては」を、このような「見苦しい誤魔化し」と判断したから赦さなかったのですが、杉澤さんは、これが「謝罪ではなかった」から、私の評価が間違っていると注文をつけたいのでしょうか?
 ――しかし、ここには「全体を見ずに、恣意的に部分を強調する」という、今回の杉澤さんの議論に一貫した「倒錯」があるのではないでしょうか?

 結局のところ、杉澤さんは、なんとか、はらぴょんさんを救い出したいがために、結果としてご自分も、私の「はらぴょん批判」に「難癖」をつけることになっているのではないですか?

 今回の杉澤さんの議論に特徴的な、「一般的には」「ある意味では」「この点では」「についてであって」といった「恣意的な、話題の限定」は、結局のところ、今回の「議論そのものの現実」を無視するものでしかありませんし、それは、杉澤さんの「はらぴょん評価を語ることの回避」に発する「無理(ひずみ)」であることは、もはや明らかでしょう。

 私が、杉澤さんのご意見に対し、逆にお尋ねしたいのは、

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のページの、2007年03月04日13:38付けのコメントに、次のように書いたこと以外にはありません。

>>  鍵となる点についてだけ。

> ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。
> そして、はらぴょんさん批判について、あれこれご注文をいただいた私ならば、杉澤さんに『はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。』を問う権利はあるはずですし、杉澤さんには、これに応答する義務があるのではないですか? すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?
No.259 - 2007/05/25(Fri) 07:17:02

mixi(5)-8 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月04日 02:35

 アレクセイさんのここでの発言において、私が歪みを感じた部分の第二弾です。前回は誹謗中傷ということと直接の関係を持たない箇所でしたが、今回はもう少し直接的な箇所です。
 
 アレクセイさんは「見解」から「齟齬の根底にあるもの」にいたるまでのはらぴょんさんの意見を「一貫性」の欠片もない、と要約していますが、それは粗雑な要約のように思います。

>『私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。』(「見解」2007年02月20日 )
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648


>と突っぱねた後、実際に相手から、事実分析に基づく批判(「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」)をされた途端、


>『 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。』(「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日)
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648


>などと「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」は書けないでしょうし、それで赦してもらえなかったからといって、再び手のひらを返して、今回のように、


>『アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれている』

>『アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。』

>『その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法』


>などと、口汚い非難の言葉を書けるものでもないでしょう。

>この、およそ「一貫性」の欠片もない、まるで「百面相のような態度」に表れているのは、はらぴょんさんの文章には「仮面しかない」という事実です。

「見解」においてはらぴょんさんが陳謝することができないと拒否を示したのは、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言についてであって、それは自分の発言に誤りがないことを根拠としているわけです。その点は、議論の流れの中で、一貫しています。
「まだまだ幸せ者だと思わなくては」における「大馬鹿者」発言は激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。場合によってはアレクセイさんの発言を受け流している態度とも考えられる(アレクセイさんにとって失礼な態度な)わけですが、少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。「齟齬の根底にあるもの」においてアレクセイさんについて言及した発言は、少なくともアレクセイさんがはらぴょんさんについて論じたのと立場上同等の水準においてアレクセイさんについて言及したのであって、それを口汚い非難というならば、アレクセイさんのはらぴょんさんへの発言もまた口汚い非難であることになります。また前記の「見解」での「陳謝の拒否」、「まだまだ幸せ者だと思わなくては」での「大馬鹿者」発言と直接の関連がないわけですから、それをして一貫性がない、という評価はできないわけです。
 互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎだと思いますがいかがでしょうか。
No.257 - 2007/05/24(Thu) 22:24:26

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アレクセイさんのコメント 2007年03月03日 20:44

☆ 杉澤鷹里さま

> 一点を除いて、ほとんど完璧な読解をされたことに感嘆します。そして、それにもかかわらず、この作戦は受け容れられなかった、この目論見は失敗に終わった、ということが残念でなりません。

私は、人に操作されるのを、何より嫌う人間です。そして、そういう私は、相手が「書いていること」が、そのまま相手の「意図・狙い」だとも思いません。
例えば、「ぶっきらぼうな親切」というものもあれば「親切を装ったペテン」ということもあります。私が問題とするのは「見かけ(書かれたこと)」である「ぶっきらぼう」や「親切そう」ではなく、「意図(本性)」である「親切」や「ペテン」なんですね(洞察力のない、はらぴょんさんの場合には、おのずとその逆になります。つまり「見かけ」しか、問題にできない)。
だからこそ、私は杉澤さんの「失礼を装った書き方」に腹を立てなかったし、逆に、はらぴょんさんの「専門家のお節介を装った書き方」に秘められた「陰湿な嫌がらせ」に激怒したわけです。


>>『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
>> つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

> 一般的には、はらぴょんさんはアレクセイさんの発言を人格についての誹謗中傷だと言い、アレクセイさんははらぴょんさんの発言を人格についての誹謗中傷と言っているのだから、それは「人格についての誹謗中傷の応報」という括りで表現して間違いないかと思います。

『一般的には』というのは、たしかにそうでしょうね。でも、この『一般』って、誰のことでしょうか?
杉澤さんご本人は、この『一般』に含まれる「一般の中の、一人」なのでしょうか? それとも「一般には含まれない、一人」なのでしょうか?

私が、広く評価してもらいたいと言う場合、それは「一般には含まれない、一人」の大勢に、ということです。つまり「一般的意見」ではなく、たくさんの「個々の意見」に興味がある、ということです。

言うまでもなく、当事者の意見に「特権性」が無いように、「第三者である個人」の意見にも「特権性」はありません。それらはいずれも(当事者の意見と同様)「個人的な意見(ひとつの意見)」でしかないからです。

では「数的に多い」という意味での「一般的な意見」には、何か「特権性」があるのでしょうか? ――私は「無い」と思います。つまり、いくらたくさん集まっても、それらは所詮、バラバラな「個人の意見」でしかなく、つまり、本来括れない意見を、括ったかのように見せかけた「恣意的な幻想」でしかないと思うからです。

ですから、『一般的』な意見という「恣意的な抽出」には、興味はありません。つまり、そんなものの「権威」は認めません。しかし、「個々の意見」には興味があるから、全ての個人に「全てを曝そう」と言うのです。――そして、私はこれまでも、ずっとそうしてきました。

したがって、私は、所謂「一般的な意見」が、私とはらぴょんさんのやり取りを「泥試合」だと評価してもかまいません。そんな「抽象的主体」は、実在しないからです。
一方、実在する「個人」の判断については、どれについても、私たち当事者と同等の(同等でしかない)判断権利をみとめておりますから、みなさんに「広く」見ていただくことに、何の差し障りも感じないのです。

> はらぴょんさんの発言には、およそ客観性、独立性がなく、その被害者意識は実証的ではない妄想で、根拠とはならない、というのであれば、緊急アンケートでもしましょうか。「この両者のやり取りが誹謗中傷の応報だと思うヒト?」といったかんじで。

ですから、アンケートは、ぜひやってください。

ただ、「誰の回答」かは、明記していただきたいですね。でないと、それは「誰の意見」でもなくなります。

または、私とはらぴょんさんの意見が、私やはらぴょんさんの意見としてではなく、抽象的なAとBのやり取りとして判断できるようなかたちで提供されるのであれば、回答者名は不要かも知れません。

> あるいは、理屈の歪みを指摘する、というのでも実証になるのでしょうか。

それしかないのではないですか?
それをしなければ、はらぴょんさんみたいに「レッテル貼り」をするしかなくなります。

言うまでもなく、「絶対的証明」はできません。しかしそれは、証明は無意味であるとか、証明しなくても良い、ということではありません。そんなことは、哲学をしていなくてもわかることではないですか?(まして哲学をやっておれば)

> それならば、私が感じた、幾つかの歪みを指摘することでそれに応えることにします。

どうぞ、「まずは」それが必要です。

> まず「ニーチェ」について。
> ここで、思想家の名前が出てきたのに、びっくりしました。びっくりした理由の一点目は、はらぴょんさんに対し「思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して『自分の文章を飾り立てる』という愚行・醜行を、一切止めなければなりません」と提案している、という文脈において、自身が、まさにその思想家を引合いに出すということをしているという点。

簡単なことです。私は『自分の文章を飾り立てる』ために、ニーチェを引合いにだしているわけではないからです。杉澤さんと同様の誤解する人はいるでしょうが、それは、その人の思考回路に存在する「擦り込み」が問題なのだと思います。

> 二点目は、その引合いの仕方が、一般的な理解とそぐわないものである点。ニーチェを「ルサンチマンの思想家」=ルサンチマンに端を発して思考を深めた思想家、とするのは、どうにもしっくり来ません。「ニーチェは神というものが、人間のルサンチマンから生まれたものに過ぎないことを暴いてみせたのよ(竹本健治『緑衣の牙』より)」というのが一般的な理解と存じます。もちろん文脈を考えれば、わざと一般的ではないニーチェ像を提起したのだと解釈できますが、それでも「『私の理解した(範囲での)ニーチェ』でしかないというのはわかり切った話だし、たとえニーチェがそのように言っていなかったとしても、私の意見自体に変更の必要性など無いというのも明らかでしょう。」「『私の意見』の補強材量として『私の理解したニーチェ』が用いられているだけ」という意見には首を傾げざるを得ません。この意見によれば、「『XはYと言った』と私は理解した」ならば、吟味することや批判の対象とすることなしに「XはYと言った」と表記して自分の意見の補強ができるということになり、「私が理解した」ということが真か偽か検証できない以上、恣意的に「XはYと言った」と表記できることになります。それならばニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいいことになり、どんな意見でも補強ができるということになります。そんな引合いは、ナンセンスです。そして、そのような構えにおいて、なぜ(一茶でも、さんちゃんでもなく)ニーチェの名前が出てくるのかと問えば、それは飾り立てのためだと解釈するしかないことになります。

まさに『それならばニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいいことになり、どんな意見でも補強ができるということになります。』――これです。

私にとっては『ニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいい』のです。要は、「私以外」にも、このように考える人がいる、ということを示したいだけなんですね。そして、そういう「一人」を示すことは、「私一人」が狂っているわけではなく「私以外の一人」から敷衍される「多数」も似たようなことを考えており、「私一人」を「キチガイ扱い」にしても批判にはならない、ということが言いたいのです。

ちなみに言っておくと、この立場からすれば、私のニーチェ理解が『一般的』である必要性は、まったく無くなります。そういう解釈が「不可能」だと言うのならばともかく、『一般的』であることになど、私は価値を求めていません。私は、そういう「共同体(全体)主義」を批判している人間なんですよ。

その意味では、はらぴょんさんは無論こと、杉澤さんも「共同体主義者」として「哲学者の価値」を認めているにすぎないと思うし、それは私からすれば、非常に「反・哲学な態度」だと思います。
まあ、哲学をやっている人の大半は、こうした意味では「反・哲学」的なんですが、それは「当たり前」のことでしょうね。「徹して見て、徹して考え抜く」ということは、『一般的』には、不可能です。それが可能であるかのような「錯覚」の上に成立しているのが「誰にでもできる、いまどきの哲学」だということでしょう。――私のこの考え方は、非常にニーチェ的かも知れません。でも、だから価値があるわけでも無いわけでもありません。

> ご理解いただけていると思いますが、「ニーチェがそのように言ってなかったからアレクセイさんの意見には変更の必要がある」と、私は言っているわけではありません。そうではなくて、そんな(一般的なコンセンサスを欠き、修正可能性を排した)引合いならしなくていい、と言っているのです。アレクセイさんであれば、アレクセイさんに対して以下のように言うだろうと指摘しているだけです。
>「『哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない』という、アレクセイさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。」

『アレクセイさんにとってもプラスになる』という、ここが問題です。
私は、他人に『プラス』を「与えるために書いている」のであって、他人に誉めて「もらおう」(肯定的に評価される=プラスになる)と思って書いているのではありません。その点で、杉澤さんは根本的な誤解をなさっています。
そもそも私がそのような『一般的』な人間であれば、私は遠の昔に「探偵小説研究会」の古参会員、笠井潔の右腕になって、はらぴょんさんに対しても「心にもないお世辞」を言っているでしょう。「尻を掻いて」おけば喜ぶような、わかりやすいアマチュアを、わざわざ批判しても、杉澤さんがおっしゃるような意味での、私の『プラスになる』ことなど、何もないというのは、わかりきった話ですからね。

> ※以上の考察「ニーチェについて」は2月26日の時点でなされました。「はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ」の発表により、いくつかの点において、補足・修正が必要になると考えましたが、そのままのかたちで発表することにします。

ちなみに、すでにお気づきかも知れませんが、私が、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のページの「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」に書いた、次の部分、

> ヘーゲルは、こう言っています。

>『一般によく知られたものは、よく知られているからといっても、認識されているわけではない。認識に当たって、あることをよく知っていると前提して、それをそのまま放っておくのは、最もありきたりな自己欺瞞であり、他人に対する欺瞞でもある。そういう知は、あれこれおしゃべりはするが、一向はかどらないし、そんな自分の状況も知ってはいない。』(『精神現象学』)

> つまり、私が、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」を批判して言った「暗記のレベルに止まり、理解にはいたっていない」というのと同じことを、ここでヘーゲルは言っているのです。
> はらぴょんさんは「暗記した知識」が単なる知識として放置されていることに気づかず、そんな「がらくたの権威」を振り回して、門外漢の「門外漢たる事を前提とした議論」に、嫌らしい「難癖」をつけているんですね。

> ちなみに、私とはらぴょんさんとの「思想哲学的知識の使い方」の差異は、私が上のように書いたとしても、私の場合は、それがヘーゲルの言葉でなくても何ら差し支えない、という事実に表れています。
> ――これはじつは「嘘」で、上の文章は、ヘーゲルの引用ではなく、私がそれらしくでっち上げた私の言葉なのです(笑)。

ここでの、ヘーゲルの引用は「本物」です。

『これはじつは「嘘」で』という言葉は、その後の『上の文章は、ヘーゲルの引用ではなく、私がそれらしくでっち上げた私の言葉なのです(笑)。』に掛かっています(笑)。

なぜ、こんなふざけたことをやったのかというと、これが私の「著名人の言葉の引用」の本質を伝えるものだからです。つまり、ここに引用された言葉の主は、ヘーゲルではなく『一茶でも、さんちゃんでも(…)誰でもいい』のです。――すくなくとも、私にとっては、そういうことなのです。

では、なぜ、わざわざこんな「引用」をするのかと言えば、それも「面白い」からだし「参考になる」からでしかありません。実際、私が「他人の言葉」を引用する場合、「友人の言葉」や「お婆ちゃんの言葉」と「哲学者の言葉」の扱いに、区別を設けたりはしません。そこが、はらぴょんさんら『一般的』な人たちとは違うところであり、「そこに(私の)価値がある」のだということですよ。
No.251 - 2007/05/22(Tue) 21:48:54

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杉澤鷹里のコメント 2007年03月03日 00:52

>貴兄が、この「らしからぬ」コメントで何を狙ったかは、おおよそ想像ができます。
>両者に対し、ここで「そんな議論をしても、お互いに益することはないんだから、お止めなさい」と言っても、少なくとも私の方は退かないだろうと正しく判断し、それならば両者引っ括めて『人格についての誹謗中傷の応報』扱いにし、『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせるだけだ、ということを強調することで、私のやる気を削ごうとお考えになったのでしょう。

>そのために、わざわざご自分が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』に近い位置にあるかのような「演技」をし、「汚れ役」まで引き受けられたというわけです。『うっけっけっけ。』というのは、その「殊更さ」を証すものでしょう。
 
 一点を除いて、ほとんど完璧な読解をされたことに感嘆します。そして、それにもかかわらず、この作戦は受け容れられなかった、この目論見は失敗に終わった、ということが残念でなりません。
 
>『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
>つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?
 一般的には、はらぴょんさんはアレクセイさんの発言を人格についての誹謗中傷だと言い、アレクセイさんははらぴょんさんの発言を人格についての誹謗中傷と言っているのだから、それは「人格についての誹謗中傷の応報」という括りで表現して間違いないかと思います。
 はらぴょんさんの発言には、およそ客観性、独立性がなく、その被害者意識は実証的ではない妄想で、根拠とはならない、というのであれば、緊急アンケートでもしましょうか。「この両者のやり取りが誹謗中傷の応報だと思うヒト?」といったかんじで。
 あるいは、理屈の歪みを指摘する、というのでも実証になるのでしょうか。それならば、私が感じた、幾つかの歪みを指摘することでそれに応えることにします。
 
 
 まず「ニーチェ」について。
 ここで、思想家の名前が出てきたのに、びっくりしました。びっくりした理由の一点目は、はらぴょんさんに対し「思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して『自分の文章を飾り立てる』という愚行・醜行を、一切止めなければなりません」と提案している、という文脈において、自身が、まさにその思想家を引合いに出すということをしているという点。
 二点目は、その引合いの仕方が、一般的な理解とそぐわないものである点。ニーチェを「ルサンチマンの思想家」=ルサンチマンに端を発して思考を深めた思想家、とするのは、どうにもしっくり来ません。「ニーチェは神というものが、人間のルサンチマンから生まれたものに過ぎないことを暴いてみせたのよ(竹本健治『緑衣の牙』より)」というのが一般的な理解と存じます。もちろん文脈を考えれば、わざと一般的ではないニーチェ像を提起したのだと解釈できますが、それでも「『私の理解した(範囲での)ニーチェ』でしかないというのはわかり切った話だし、たとえニーチェがそのように言っていなかったとしても、私の意見自体に変更の必要性など無いというのも明らかでしょう。」「『私の意見』の補強材量として『私の理解したニーチェ』が用いられているだけ」という意見には首を傾げざるを得ません。この意見によれば、「『XはYと言った』と私は理解した」ならば、吟味することや批判の対象とすることなしに「XはYと言った」と表記して自分の意見の補強ができるということになり、「私が理解した」ということが真か偽か検証できない以上、恣意的に「XはYと言った」と表記できることになります。それならばニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいいことになり、どんな意見でも補強ができるということになります。そんな引合いは、ナンセンスです。そして、そのような構えにおいて、なぜ(一茶でも、さんちゃんでもなく)ニーチェの名前が出てくるのかと問えば、それは飾り立てのためだと解釈するしかないことになります。
 ご理解いただけていると思いますが、「ニーチェがそのように言ってなかったからアレクセイさんの意見には変更の必要がある」と、私は言っているわけではありません。そうではなくて、そんな(一般的なコンセンサスを欠き、修正可能性を排した)引合いならしなくていい、と言っているのです。アレクセイさんであれば、アレクセイさんに対して以下のように言うだろうと指摘しているだけです。
「『哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない』という、アレクセイさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。」

※以上の考察「ニーチェについて」は2月26日の時点でなされました。「はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ」の発表により、いくつかの点において、補足・修正が必要になると考えましたが、そのままのかたちで発表することにします。
No.247 - 2007/05/21(Mon) 07:27:22

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アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 01:47

ここでの、はらぴょんさんと私(アレクセイ)のやりとりの続きは、↓こちらです。

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648
No.242 - 2007/05/20(Sun) 09:22:26

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アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 01:44

☆ 杉澤鷹里さま

> 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
> まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。


『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

貴兄が、この「らしからぬ」コメントで何を狙ったかは、おおよそ想像ができます。
両者に対し、ここで「そんな議論をしても、お互いに益することはないんだから、お止めなさい」と言っても、少なくとも私の方は退かないだろうと正しく判断し、それならば両者引っ括めて『人格についての誹謗中傷の応報』扱いにし、『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせるだけだ、ということを強調することで、私のやる気を削ごうとお考えになったのでしょう。

そのために、わざわざご自分が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』に近い位置にあるかのような「演技」をし、「汚れ役」まで引き受けられたというわけです。『うっけっけっけ。』というのは、その「殊更さ」を証すものでしょう。

しかし、その程度の「狙い」が見抜けない私ではないし、私はこの論争が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせる「だけ」のものだ、とも思ってはおりません。
と申しますか、ご承知のとおり、私は「身内・友人」でも「例外扱い」にはせず、これまでも必要とあれば徹底的に批判してきましたから、いまさらそれがどうということは、まったくないんですね。つまり、私がこうした信念を意固地なまでに貫き、自分で理解者を減らしてしまうことを『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』が喜ぶとしても、それはそれでかまわないのです。私にとって大切なのは、信念を貫くこと、例外は認めないこと、自分が納得のできる「筋の通し方をする」ということなのですから。

なぜ私が、はらぴょんさんとつきあいだしてからでも、自らを「一匹狼」と言い「世界でただ一人の笠井潔葬送派」だと名乗ってきたか、わかりますか? 私は、誰とでもつきあいますし、他人を拒もうとは思いません。しかしそれは、原理原則や信念を曲げない範囲でのつきあいであり、つきあい故の「馴れ合い」を容認するものではないのです。つまり、私は誰とつきあっていようが、いつでも「一人で立つ」ことを自分に強い続けているのです。

ですから、下らないやつらが、私とはらぴょんさんの論争・喧嘩を見て喜ぶのなら、喜ばせておけばいいんですよ。私は、こうした自身の不羈において、自分を下がるとはまったく思っていません。そんなことで下がるような「誇り」なら、遠の昔に下がり切っていますよ。

むしろ私は、そんな輩に評価されたくはないんです。そんな輩に悪口・陰口を言われるような批評家でありたい。だから、必要とあれば、誰でも批判するのです。群れないではいられない「おまえらとは違う」ということを、はっきりと示して見せてやるです。

言い換えれば、私の考える『無様さ、滑稽さ、醜悪さ』と、そうした輩の考える『無様さ、滑稽さ、醜悪さ』は、根本的に違うということです。――無論、貴兄はそのあたりもご承知で、このように書かれたんでしょう。
いずれにしろ、結果として貴兄に、こうしたことを強いてしまったという点については、誠に申し訳ないことをしたと思っております。


なお、「人格攻撃」ということについて、最近書いた文章があるので、こちらでもご紹介しておきましょう。

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  2007年02月26日19:20  295: アレクセイ


寺僧流さんのご意見を拝読していて、気づいたことがありました。

論争を辞さない私の経験から言って、やたら「人格攻撃」などという言葉を持ち出す人は、自分がそのことによって、相手の「人格攻撃」をしてても、まったく平気なんですね。――と言うか「無自覚」。
まさに、自分の「人格」を「反省」できない人ほど、他人に「人格」を云々されるのを「拒絶する」傾向が顕著にある、ということです。


それから「人格攻撃はいけない」というのは、なにやら「絶対真理」のごとく言われますが、そもそも「意見」や「思想」や「行動」の多く(ほぼすべて)は、その人の「人格」に基礎を置くものですから、「意見」や「思想」や「行動」を批判する場合には、結果として「人格」を批判するような形になる場合も、やむを得ずにあるはずです。

つまり「人格攻撃はいけない」というのは、本来、批判の対象とすべき「意見」や「思想」や「行動」をうっちゃっておいて「おまえには存在する価値がない」などと相手の「全人格」を否定ようなやり方を批判するものであり、「意見」や「思想」や「行動」を批判したことの結果として、相手の「人格の一部」を批判するようなものを言うのではないと思います。

例えば、私が「貴方は阿呆です」「貴方は下司です」と「根拠を示して」言った場合、私はその人の「阿呆」の側面、「下司」の側面を否定しているのであって、「おまえなんか存在しない方がいい」という意味合いで「全人格」を否定しているわけではありません。「阿呆」にも「下司」にも、それ以外の「人格」面で、良い側面、好ましい側面は、きっとあるはずだからです。

ですから、このあたりをきちんと区別しておかないと、「人格攻撃だ!」というような言い方は、容易に「批評・批判封じ」の道具になってしまうのだということを、私たちは肝に命じるべきでしょう。

そして「人格攻撃だ!」というような「紋切り型」だ登場した時には、私たちは確信をもって「人格の、悪しき側面は、正しく批判されるべきである」と言い切るべきでしょう。なぜなら、批評を失った「人格」は、「イエスマンに囲まれた権力者」と同様、いずれ腐敗・堕落するしかないからです。


・ 「ここは机上の空論ばかり」2007年02月01日
  (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14890456&comm_id=5343

No.241 - 2007/05/20(Sun) 09:22:25

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杉澤鷹里のコメント 2007年02月27日 02:26

 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
 まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。
No.237 - 2007/05/18(Fri) 07:09:03

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アレクセイさんのコメント 2007年02月26日 01:23

  はらぴょん論 ――第2章  はらぴょん批評の「根底にあるもの」



・ 「齟齬の根底にあるもの」2007年02月24日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

と題された、はらぴょんさんの今回の文章は、はらぴょんさんの批評の「原型(=根底にあるもの)」を露にしていると言えるでしょう。

つまり、はらぴょんさんの「批評文」から「思想哲学的な粉飾」を取り去ると、今回のような、いかにも「無内容」な原型が、その姿を露にするということです。

今回の「齟齬の根底にあるもの」が、どのように「無内容」なのかと言うと、

(1) 批評文には不必要な「自分は善人である」という「くどい自己喧伝」と、それに対応する「論敵は悪人である」という、単純化された「図式」。
(2) 「分析(的批評性)」が存在せず、「決めつけ(=レッテル貼り)」オンリー。
(3) 主張の根拠となるのは「私に優しい人は善人。私に厳しい人は悪人」という、幼児的感情。
(4) 対象を、総合的に判断できない(評価の、極端な一面性)。
(5) したがって、「俗論」に媚びることでしか、説得力を持たせられず、独自性は皆無。

と、ざっとこんなところでしょうか。

もちろん、これらの特徴の『根底』にあるのは、はらぴょんさんの「批評性の無さ」です。そのために、すべての弱点や問題点が惹起されているんですね。
そもそも、自分の頭で考え、自分の言葉で語れる人間は、他人の権威に依存する必要などありませんから、はらぴょんさんのように「現代思想オタク」性が丸出しになってしまうほどの、過剰な「思想哲学的な粉飾」をほどこす必要など、どこにも無いんです。

はらぴょんさんの「批評」の実質とは、例えば「1+1とは」という問いに「1+1=2」と答える類のものです。つまり、普通なら誰でもそう答えるような、「思慮」を必要としない「凡庸な反応」でしかない、ということです。
ただ、はらぴょんさんの場合には、「1+1=2」と答えただけでは「利口そうに見えない」と考えて、「1+1×12÷3−3=2」である、などと答えるんですね。一見したところは複雑そうですが、これは「単純なものを、無用に複雑化しただけ」であり、特に「内容」と言えるほどのものは、何も付け加わってはいないんです。
つまり、はらぴょんさんの批評は「鬼面、人を脅かす」たぐいのものであり、言い換えれば「ちんどん屋、目を惹く」たぐいの批評だと言えるでしょう。

しかし言うまでもなく、「1+1とは」と問われた場合、本来考えるべきは「1+1=2、と一般にはそういうことになっているけれども、その根拠は何なのだろう? なぜ1+1=3ではないのか?」といった具合に「自身に問い直して考えること」であり、「どのように答えれば、人が感心してくれるか」と考えることではないんですね。
そして私が、はらぴょんさんには「批評性が無い」というのは、こういうことを指して言っているのです(はらぴょんさん、上の計算は「譬え話」ですよ。念のため)。

                 ○

それでは、今回のはらぴょんさんの論文「齟齬の根底にあるもの」を、以下逐語的に分析してみましょう。


> アレクセイさんには、いままで恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。

言うまでもなく、私とはらぴょんさんとは「対等の友人」ですから、『恩義』もへちまもありません。このような「大仰な言い方」は、むしろ真の意味での「友情」に反するものだと言えるでしょう。

また『恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。』とは、どういう意味なのか? それでは、『恩義』が無い相手ならば、自分の『文章で、不快な思いをさせたと』しても『大変申し訳なく思い』はしない、ということなのでしょうか?

じつは、そのとおりなのです。
もともと、ここでの『恩義』という言葉は「自身の善人性をアピールするため」の空疎な修辞でしかありませんから、はらぴょんさんはご自分でも書いておられるとおり、本気で『恩義』など感じていない相手(私を含む)に対しては、ご自分『の文章で、不快な思いをさせたと』しても『大変申し訳なく思』ったりはしないのです。

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

のページに書いた「はらぴょん論 ――第1章「偽の反省」に表れた、その人間性」に、


『はらぴょんさんのような権威主義者は、むしろ威張ってくれる人(対等ではなく、上手から下手へと手を差し伸べるような人)の方がありがたく感じられる』


と書いたとおり、はらぴょんさんが本気で『恩義』と感じる相手とは、私のような『対等』の相手ではなく、『上手から下手へと手を差し伸べるような』相手なのでしょう。だから、はらぴょんさんは、決して小森健太朗や清涼院流水(といった、縁のある有名人)を批判することはない。そういう人には絶対に『不快な思いをさせ』たくないし、嫌われたくない。つまり、本当は『恩義』など感じてはない相手である、私やホランド氏に向けた書いたような「悪意のある文章」を、はらぴょんさんが「縁ある有名人」に向けて書くことなど、金輪際ありえないのですね。

・  「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のページに書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で紹介した「竹本健治のサイトとのリンクが切れていたといって大騒ぎして嘆いた」事例などにも明らかなとおり、多少でも はらぴょんさんを知っている人なら、はらぴょんさんに「縁のある有名人」批判が不可能だというのは、明々白々なことなのでしょうが。

しかしまた、いくら傍目に明白なことでも、はらぴょんさんご自身は、自分が小森健太朗や清涼院流水の『単なる追随者、あるいは家来』つまり「単なるミーハーファン」だとは認めず、自身の「批評家としての独立性」を主張することでしょう(つまり「提灯持ち批評」はしていない、と主張するでしょう)。

つまり、はらぴょんさんは「口先」では、自身の独立性を言い立てますが、実際には『恩義』を感じる人間には無批判に追随し、その一方、『恩義』を感じていない人間、それどころか「煙たい」人間には、もともとありもしない「独立性」を口実に悪意ある嫌がらせを行うという「ごくありふれたタイプの人間」だということなのです。


> ただ、アレクセイさんの私に対する理解には、相当な誤解があるように思います。

具体的に「何」が誤解だというのでしょうか? 例えば、はらぴょんさんには「無内容な衒学趣味」があり、それが「思考=反省」を疎外している、という私の指摘は『誤解』だと言うのでしょうか。

> 私はアレクセイさんの反権力的で、一匹狼的なスタイルが好もしいものに思えましたので、アレクセイさんのスタイルを模倣しようとしました。

誰でも『一匹狼的なスタイルが好もしい』と思うでしょう。つまり、誰しも「できれば、そうありたい」と思う。誰だって、自分をすき好んで「数を頼りに生きる弱き羊」だと認めたくはありません。だから、できることなら『一匹狼的なスタイル』を『模倣』したいとも思うでしょう。それは「ごくありふれた感情」であり、逆に言えば、そうした感情の存在が、『一匹狼的なスタイル』に「理解のある」者の証しだとは言えません。

むしろ、『一匹狼的なスタイル』を『模倣』しようとして、それができなかった場合、『一匹狼的なスタイル』の保持者は「妬み」や「憎しみ」の対象になるというのが、一般的です。つまり、『一匹狼的』を「反社会的な存在」として排除し、そうなれなかった自分を慰め、正当化する、という心理です。

> それと同時に、アレクセイさんの単なる追随者、あるいは家来になりたくなかったので、アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視するようになりました。真にアレクセイさんのようになるためには、アレクセイさんに従うようではだめで、アレクセイさんを超えなければならないと考えました。

言うまでもなく『スタイルを模倣』することは『単なる追随者』なることでも『家来』になることでもありません。優れたもの、非凡なものに「学ぶ」のは、まず「真似び」からだというのは、常識的な話でしょう。

したがって、ここで はらぴょんさんが書いているのは、『アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視する』つまり平たく言えば「粗探し」をする、自身の「卑しい心根の正当化」でしかありません。
尊敬する人や優れた人の弱点や欠点や「粗」を探すことが、そうした相手を『超え』ることになる、などという発想は、およそ「卑しい」としか言い様がありません。

> アレクセイさんには、想像もできないでしょうが、そういう人間もいるのだということをご理解いただきたいと思います。そうであるがゆえに、私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。

『私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。』――およそ、論理性の欠片もない、論述です。

>  アレクセイさんの標榜する「笠井潔葬送派」については、その反権力性、一匹狼性において、共感するものがありました。

それはそのとおりでしょう。しかし、その点での「共感」が、「妬み」に反転するのは容易なことだというのは、前述のとおりです。

> ひとつ、質問をしたいのですが、アレクセイさんは論考を書かれた際に、さまざまな場所でそれを紹介し、「ご笑読」くださいということを書かれるのですが、アレクセイさんは、本当にご自身の書かれたものが、笑って読めるものだとお考えなのでしょうか。

読める人は読めるし、読めない人読めない。つまり、そこで行われている批判的分析について、自身に心当たりのある人は、笑っては読めないでしょうね。

> 正直、プラックユーモアを解さないためか、私はアレクセイさんの論考を笑って読めたことは、これまで一度もありませんでした。

私の評論は、笑って読むために提供されているのではありません。笑って読めるような人間になってもらうために提供されています。したがって、私の評論においては『プラックユーモア』は無関係であり、笑って読まなくてもいいのです。
要は、「笑えない指摘」を受けた時に、「なぜ自分は、この指摘を他人事のように笑えないのか? それは、ここで批判されているのが、まさに自分だということなのではないか」と気づき、そこで「自分」を「反省」することが必要なんですね。「よくぞ指摘して下さった」と。

> アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。

ここで「恣意的(無根拠)な、論理の飛躍」が行われます。これは、私「アレクセイは、人間を非情に二分して断罪する批評家」だと「単純な図式」に当て嵌めて批判するための、悪意ある「段取り」です。

> アレクセイさんの書かれたものを大笑いして読める人が、アレクセイさんにとって、いい読者であるのならば、私は過去に遡っても、いい読者であったことはなかったといえます。

誤った「仮定」による、誤った「結論」。

はらぴょんさんが、私の『いい読者』でなかったとすれば、それは『大笑いして読める』読者じゃなかったからではなく、読んで『顔がひきつってしまう人』であるにもかかわらず、その「ひきつり」の原因を、自分の内に探ろうとはしなかった点、つまり「無反省」であった点にあります。

――そして、自分の欠点を反省しない人は、必ずその欠点を指摘した人を「憎み」ます。

> 思うに、アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれているのではないかと思います。この憎しみは、愛情の反転したものであると思いますが、スタート地点が憎悪であるがゆえに、その結論が冷笑であり、侮蔑であるということになるのだと思います。
> しかしながら、憎しみの感情は、その対象にピンを突き刺す代わりに、その対象によって自身のこころを不自由に拘束するのではないかと思います。私は、このような不自由さが嫌なのです。

はらぴょんさんはここで、自分の中にある「憎しみの感情=ルサンチマン」を私に「投影」することで、自分を救い出そうとしています。

しかし、仮にも思想や哲学を齧った人が「動機としてのルサンチマン」を「悪しき冷酷非常さ」と短絡させるのは、いただけません。これは、はらぴょんさんの思想哲学的教養が、いかに皮相的な「暗記」に止まり、いかに身についていないかの証にしかなりません。

「ルサンチマンの思想家」と言われる、ニーチェも持ち出すまでもなく、「動機としてのルサンチマン」は、それ自体は、何ら問題ではありません。ニーチェは、人間に対する「期待=愛」が大きかったからこそ、現実の人間のダメさを「憎み」ました。そして、その「憎しみの力」をもって、深く人間の内実を洞察したんですね。

つまり、「憎しみ」を表に出す者の背後には「愛」があり、「愛」を表に立てる者の背後には「憎しみ」が隠されている、といった現実は、決して珍しいものではありません。『恩義』だの「憧れ」だのを前面に立てる はらぴょんさんの背後に「憎しみ」がある、というようなのが、その好例だと言えるでしょう。

> 大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえていました。このような私を、アレクセイさんは論理の不徹底だと笑うのでしょうか、それとも偽善の上塗りだと断定するのでしょうか。

『大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえ』ていたのは、『大筋の方向性では共感しつつも』、はらぴょんさんは『どうしても』それが「自分には実行できない」という(『解けない違和感』ではなく)解けないジレンマ『を常にかかえ』ていたからでしょう。

> アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。

『自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまう』ような人間なら、遠の昔に精神病院に入っていますよ。まったく、ほとんど精神病者呼ばわりですね(笑)。

たしかに私は、ニーチェタイプの人間かも知れませんが、あそこまでの頭脳はありませんから(つまり、いたって大雑把な部分がありますから)、気も狂わないんでしょうね(笑)。

それに、はらぴょんさんがおっしゃるような「被害妄想」があったら、20年間も論争家などやってはいられません。逆説的に聞こえるかも知れませんが、人間を疑いきれない人間だけが、懲りずに人間を批判し続けることができるんですよ。

> はっきり言いましょう。アレクセイさんの批評のスタンツは、反権力的である限りにおいて、大筋において賛同しますが、その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法をとっていらっしゃいます。

結論として語られた、はらぴょんさんの「アレクセイ論」は『(※ アレクセイは)ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打する』批評家だ(人間だ)、というものです。

じつに「わかりやすい」評価であり、たぶん私に批判され切り捨てられ、それでも反省することを知らなかった多くの人からは、きっと支持される「極端に一面的で、恣意的な、アレクセイ像」だと言えるでしょう。一言で言えば「アレクセイ=サタン説」とでも言い換えれば、その「戯画性」が理解しやすいのではないかと思います。

しかし、最初に書いたとおり、はらぴょんさんの批評のわかりやすさは、その「無内容」にあります。つまり、ここに示された「アレクセイ=サタン説」は、「批判された自分」という「視点」からのみ「批判者であるアレクセイ」を語る、じつに「一面的な評価」でしかありません。

ここには「主観的な印象」しかなく、「分析」などまったく存在しません。現に、私の文章は引用されておらずも検討もなされず、ただ「こんな感じ」だと語られているだけです。
つまり、これは「批評」の名に値するようなしろものではなく、むしろ、はらぴょんさんによる「戯画的創作」であり「はらぴょんファンタジー」とでも呼ぶべきものだと言えるでしょう。

ともあれ、この「アレクセイ=サタン説」は、私が実際に書いている文章をいくつか読めば「そんな単純な話ではない」ということが了解され 、ただちに瓦解してしまうような「ファンタジー(絵空事)」でしかありません。
むしろこれは、はらぴょんさんの「批評」の基本的な性格を、たいへんよく伝える「事例」だと言えるでしょう。

> アレクセイさんがこれまで私にいろいろとよくしてくださったことには感謝しますが、私はアレクセイさんのこういう手法にはついていけないものを感じます。今回の齟齬の根底に、こういった考えの食い違いがあるのだと考えます。残念ながら、私はアレクセイ派ではありません。納得いかない部分があるということです。

最初と最後に「空疎な感謝の言葉」をつけ加えておけば、自分が「悪意あるレッテル貼りしかしていない」という事実も「隠蔽できる」とお考えなのでしょうね。
これは「思想哲学的粉飾」さえしておけば、皆が「そのこと」だけで感心してくれると信じられるのとパラレルな「ナイーブさ」だと言えるでしょう。

しかし、世間はそんなバカばかりではない。はらぴょんさんの「読者の設定水準」は極めて低い。また、そうだからこそ「衒学趣味」に安住することもできるのでしょう。


ともあれ、はらぴょんさんの最大の問題点は、ご自分の現実の姿に、あまりにも「無自覚」だという点にある、と言えるでしょう。
例えば、まともな大人であれば、自分の発言について「謝罪しろ」と「警告」を発せられたのに対し、一端は、

『私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。』(「見解」2007年02月20日 )
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648


と突っぱねた後、実際に相手から、事実分析に基づく批判(「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」)をされた途端、


『 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。』(「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日)
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648


などと「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」は書けないでしょうし、それで赦してもらえなかったからといって、再び手のひらを返して、今回のように、


『アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれている』

『アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。』

『その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法』


などと、口汚い非難の言葉を書けるものでもないでしょう。

この、およそ「一貫性」の欠片もない、まるで「百面相のような態度」に表れているのは、はらぴょんさんの文章には「仮面しかない」という事実です。
そこに、主張を一貫させる「自己」や「考え」というものが無いからこそ、このように臆面もなく、泣いたり笑ったり怒ったりできるし、あの思想家この哲学者の言葉をそのまま流用するだけで、さも「自分」を(が)語ったような気にもなれるのです。

このような「脆弱な主体」だからこそ、はらぴょんさんの批評は「表面だけが派手で、厚みがない」ものになるのでしょうし、私がはらぴょんさんを批判するのも、まさにその本質的な「弱さ(脆弱さ)」の故なのです。


> アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。

と書いて、はらぴょんさんは、まるで私が「笠井潔&探偵小説研究会」批判しかしておらず、私の他の批評は、すべてそれに従属し、それに『算入』させうる程度の「狭い」ものであるかのようにおっしゃっていますが、私が批判するのは、ごく当たり前に、人間一般の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」なんですね。

笠井潔を批判しようが、「探偵小説研究会」を批判しようが、その批評の根底にあるのは、人間の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」に対する批判です。
私の批評は、笠井潔でも「探偵小説研究会」のメンバーでもない、はらぴょんさんが、しばしば顔をひきつらさなければならなかったような『人間一般の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」』を剔抉するものであり、笠井潔や「探偵小説研究会」に限定されない、もっと本質的で普遍的な批評だからこそ、私のそれには価値があるのです。――これは、普通に読めばわかることだと思います。

そして、私が批判する『人間一般の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」』とは、簡単に言えば人間の「弱さ」だと言えるんですね。人は、その「弱さ」のゆえに「俗」に流され「偽善」をなし「権威」を渇望するのですから。

ニーチェが「力への意志」ということを言ったのも、それは「人間に期待するところ」つまり「愛」があったからでしょう。だから「強くなれ」と言ったのです。「おまえたちは自己欺瞞の微睡み安住した豚だ」とその「人間的な弱さ」に「憎しみ」をぶつけたのでしょう。
つまり、ニーチェの言う「力」とは、「量的な力」ではなく、「質的な力」です。「政治権力」的な「力」ではなく、「一人立つ力(=単独者の力)」です。

で、私が「人間的な弱さへの批判」として、その批評行為において求めるものは、ニーチェと同様の「一人立つ力(=単独者の力)」なんですが、はらぴょんさんが求める力とは、まさにその対極にある「既成権威の力」なんですね。だから、はらぴょんさんは人並み以上に「有名人好き」であり「衒学趣味者」なのです。
はらぴょんさんは、自分の足で立とうとはせず、つねに寄り掛かれる「杖としての権威」を求めている。だから、私にその「弱さ」を批判されるのです。


そして、こう書いた時に「哲学思想史的理解からすれば、アレクセイさんのニーチェ理解はデタラメだ」といった形で「粗探し的注文」をつけるのが、はらぴょんさんの「教養」であり「批評」です。

しかし、そのような評価に、いったい何の価値があるでしょうか? 
私がここで「ニーチェ」という場合、それは「私の理解した(範囲での)ニーチェ」でしかないというのはわかり切った話だし、たとえニーチェがそのように言っていなかったとしても、私の意見自体に変更の必要性など無いというのも明らかでしょう。

私のここでの論説では、「私の意見」の補強材量として「私の理解したニーチェ」が用いられているだけで、私は「ニーチェそのもの」を正確に語りたいわけではないし、その意味で「哲学思想史的理解」に義理立てしなければならない義務など無い。そもそも、テクストは一人歩きするものであり、解釈は前例に縛られるものでもない。テクストに対する著者の優位など存在しないし、まして著者ですらない「業界的理解」になど、何の拘束力も無い。また、読んでいない部分に対しては、配慮のしようがない。――これは、当たり前の話です。

はらぴょんさんは「公認の哲学思想史」を支持し、それに従属することで、自分もその「権威」に連なっているつもりであり、逆に私の場合には「そんな権威など、どうでもいい。私は、それらを参考にはしても、それらを前提として、そこに連なるつもりなどない」という(一匹狼的)態度がうかがえるからこそ、「権威従属者」であるはらぴょんさんは「お上に、無礼をはたらく狼藉者め」と、その「権威」を振り回さずにはいられなかったのでしょう。

しかし、それは「的外れな注文」でしかなければ、「動機の卑しい注文」でしかないとも言えましょう。
はらぴょんさんが、どのような「神」にひざまづこうと、それははらぴょんさんの勝手ですが、それを私までが誉めたり尊重したりしなければならない義務など、どこにも無いからです。

はらぴょんさんが、どうして私やホランド氏に「的外れな注文」をつけずにはいられなかったのか、どうしていったんは「土下座めいた謝罪」までしておきながら、「衒学趣味を捨てろ」と要求されると、一転、手のひらを返して攻撃に出たのか?
その原因はすべて、はらぴょんさんの本質的な「弱さ」と、その「弱さ」が呼び込んだ、薄っぺらな「教養信仰」にあります。要は、私の批評行動が、それらに抵触したということなのです。


私のように「行動」することができないという自身の「弱さ」を、いやというほど感じているはらぴょんさんは、だからこそ「思想哲学についてだけは、私はエキスパートである」という「依存的幻想としての自負」にかけて、私のような「門外漢」が横合いから口出しをして、その「聖域」を乱すことを看過しえず、「牢名主根性」あるいは「小姑根性」で、「嫌がらせ」のひとつもしないではいられなかったのでしょう。つまり、

「これ(思想・哲学)は、僕の(玩具)だぞ」というのが、はらぴょんさんの正直な感情だったのです。
No.235 - 2007/05/17(Thu) 23:20:54

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はらぴょんさんの日記 齟齬の根底にあるもの 2007年02月24日 00:48

アレクセイさんには、いままで恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。
 ただ、アレクセイさんの私に対する理解には、相当な誤解があるように思います。
 私はアレクセイさんの反権力的で、一匹狼的なスタイルが好もしいものに思えましたので、アレクセイさんのスタイルを模倣しようとしました。
 それと同時に、アレクセイさんの単なる追随者、あるいは家来になりたくなかったので、アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視するようになりました。真にアレクセイさんのようになるためには、アレクセイさんに従うようではだめで、アレクセイさんを超えなければならないと考えました。
 アレクセイさんには、想像もできないでしょうが、そういう人間もいるのだということをご理解いただきたいと思います。そうであるがゆえに、私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。
 アレクセイさんの標榜する「笠井潔葬送派」については、その反権力性、一匹狼性において、共感するものがありました。
 ひとつ、質問をしたいのですが、アレクセイさんは論考を書かれた際に、さまざまな場所でそれを紹介し、「ご笑読」くださいということを書かれるのですが、アレクセイさんは、本当にご自身の書かれたものが、笑って読めるものだとお考えなのでしょうか。
 正直、プラックユーモアを解さないためか、私はアレクセイさんの論考を笑って読めたことは、これまで一度もありませんでした。
 アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。
 アレクセイさんの書かれたものを大笑いして読める人が、アレクセイさんにとって、いい読者であるのならば、私は過去に遡っても、いい読者であったことはなかったといえます。
 思うに、アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれているのではないかと思います。この憎しみは、愛情の反転したものであると思いますが、スタート地点が憎悪であるがゆえに、その結論が冷笑であり、侮蔑であるということになるのだと思います。
 しかしながら、憎しみの感情は、その対象にピンを突き刺す代わりに、その対象によって自身のこころを不自由に拘束するのではないかと思います。私は、このような不自由さが嫌なのです。
 大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえていました。このような私を、アレクセイさんは論理の不徹底だと笑うのでしょうか、それとも偽善の上塗りだと断定するのでしょうか。
 アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
 はっきり言いましょう。アレクセイさんの批評のスタンツは、反権力的である限りにおいて、大筋において賛同しますが、その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法をとっていらっしゃいます。
 アレクセイさんがこれまで私にいろいろとよくしてくださったことには感謝しますが、私はアレクセイさんのこういう手法にはついていけないものを感じます。今回の齟齬の根底に、こういった考えの食い違いがあるのだと考えます。残念ながら、私はアレクセイ派ではありません。納得いかない部分があるということです。
No.234 - 2007/05/16(Wed) 21:55:38
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 はらぴょんさんの日記 『魔』 2007年02月10日 00:37

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648
No.183 - 2007/05/10(Thu) 23:21:21

mixi(1)-8 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 13:32

ここでの議論が、↓こちらでの議論へとつながって、論争へと発展しております。

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648
No.243 - 2007/05/20(Sun) 09:29:53

mixi(1)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年2月14日 20:47

上に予告いたしました、文春文庫版『魔』に関する『ツッコミどころがいくつもありますが、ぜんぶ突っ込んでいると、また長くなりそうなので、そこは飛ばして、軽く頭を撫でて』やる論文を書きました。ご笑読いただければ幸いです。

・ 「笠井潔の「大量死理論」」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=346643582&owner_id=856746
No.215 - 2007/05/13(Sun) 13:03:38

mixi(1)−6 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月12日 18:49

それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。
ともあれ、『キララ、探偵す。』についても、「アレクセイの花園」に書いたものに手を入れて、短かめの論文にまとめる予定です。

それと、文春文庫版『魔』を読了しました。例によって、ツッコミどころがいくつもありますが、ぜんぶ突っ込んでいると、また長くなりそうなので、そこは飛ばして、軽く頭を撫でてやろうかなと思っております。乞うご期待。
No.190 - 2007/05/11(Fri) 21:09:09

mixi(1)−5 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんのコメント 2007年02月11日 08:52

さらに、「アレクセイの花園」http://8010.teacup.com/aleksey/bbsを読んでいたら、こんな箇所もありました。

このミクシィには、2007年02月01日 00:16に私が書いた『キララ、探偵す。』のレビューがあり、次のような文章があります。

>(2)53ページには「いや、実はかくかくしかじか」という表現がみられる。しかし、現実の会話では「かくかくしかじか」という端折った表現は、当然しない。これは、この物語が紙に書かれた虚構であることを前提にした省略法である。これは、作者のメタ・フィクション指向の現われと看做すことができるのではないか。

一方、「アレクセイの花園」2月11日(日)01時01分22秒の花園の園主氏の書き込みには、次のような文章が見られます。

>Keenさまやはらぴょんさまが指摘なさっているような、「意識とは何か」「生命とは何か」「恋愛とは何か(可能か)」といった哲学的な問題提示を別にしても、本書には『匣の中の失楽』以来、連綿と続いている、竹本健治ならではの「過剰性」「逸脱性」が見て取れます。
例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

2007年02月01日 00:16の方が、先でしたね。
いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)
No.189 - 2007/05/11(Fri) 20:54:11

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はらぴょんさんのコメント 2007年02月11日 08:16

ところで、議論は脱線しますが、最近「アレクセイの花園」 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みを読んでいて気になった箇所……。

>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

このP134ページの箇所は、浅田彰によるメルロ=ポンティの要約であり、メルロ=ポンティを批判するためにやっている箇所なので、これを浅田の主張と解すると、ミスリーディングに繋がるので、どうなのかな、と。
この『構造と力』は、いろんな説を紹介しては、段階的に否定してゆくという構成をとっているので、全体を見ないと敵側の要旨を引用してしまうことになるので。
(1)現象学・実存主義パラダイム批判
サルトル批判
メルロ=ポンティ批判(ここで、メルロ=ポンティより、サルトルの方が社会がわかっているという評価がなされます。ここが、134ページのあたりです。ワロンとセットで批判されています。)
(2)構造主義パラダイム批判
レヴィ=ストロース批判
(3)記号論批判
バタイユ批判
クリステヴァ批判
(4)構造主義のリミットとしてのラカン批判
(5)ドゥルーズ=ガタリの思想
だいたい、こんな構成になっているのです。批判しては、次の段階にステップアップするという構成です。
No.188 - 2007/05/11(Fri) 20:46:47

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はらぴょんさんのコメント 2007年2月11日 1:06

やはり、というべきか、この種の話題の時には、アレクセイさんのレスがつきます。
引用箇所と、リンク先も、想定内でした。
しかし、解説を外された佳多山大地氏は、『容疑者Xの献身』肯定派という観点は想定外で、眼から鱗が取れました。
次回のときは、あらかじめアレクセイさんの文体を模倣して、想定されるレスを書いておくのも一興かもしれません。
少なくとも「笠井潔」コミュのとくまるさん(じゃなかっでしょうか。急速に関心が薄れてしまって、すでに忘れつつありますが。最近、足あとにハンドルネームが残っていたので。)が、アレクセイ=はらぴょんの証拠を掴んだとして喜んでくれるでしょう。
まぁ、冗談はそのくらいにして……。

最近思うことは、笠井潔氏という人は、そのまま自然体でいれば、その作品によって尊敬されるのに、おそらくは尊敬されようと政治的に振舞うばかりに、それを台無しにしてしまっているのではないか、ということです。
この『魔』に収録された「追跡の魔」という作品は、ストーカーを扱った作品ですが、読み進めてゆくと非常に込み入った状況になり、恐怖感が沸き起こってくる作品です。
私は恐怖とかスリルとかがまずあって、恐怖を沈静化させるために、理知的な解決が要請される作品が好きで、その観点からすると、この作品は高評価ということになります。
(逆に単なる知識のひけらかしで、恐怖感やスリル感が減じる場合、減点となります。知的議論がドラマツルギーを加速させる場合は、加点されます。)
だから、この作品は、西尾維新氏への影響とかを云々しなくても、堂々とハードボイルド本格推理ということで勝負できる作品だと思うのです。
思うに、小森さんは(1)本格ミステリへの関心、(2)グルジェフ&ウスペンスキーを中心とする神秘哲学への関心、(3)ライトノベルやアニメなどおたく文化への関心という3つの偏愛傾向があり、今回の解説では(3)の傾向が全面に出たために、西尾維新氏への影響関係への言及に、かなりの文字数を費やす結果となったと考えますが、これはやりすぎると逆効果になってしまいます。
逆効果とは、読み手に「西尾維新氏に影響を与えたがゆえに、笠井潔氏は偉い。だから西尾維新氏の人気を、笠井氏にも分けてあげよう」ということなのかしらん、と思われてしまうことです。
やはり、この作品は、作品そのものによって勝負すべき作品であって、西尾氏云々は豆知識程度の話として捉えておくのが妥当だと思うのです。
それに、西尾氏が関心があるのは、笠井氏のミステリ作品であって、その政治性ではないはずです。

それにしても、まだ「東野圭吾」コミュの構成員の足あとがあることがあるのですが、アレクセイさんへの執拗な追跡と、一点集中の理解できないものへの封殺は、ストーカーや浮浪者への集団襲撃の心性と共通するものを感じます。
これは、大勢の人が集まると、大衆心理でこうなる(模倣の法則と、第三項排除効果によって)と考えるべきなのか、『容疑者Xの献身』を読んで感動するタイプの人間に、比較的多く見られる傾向なのか?

ところで、私の場合、「探偵小説」「推理小説」「ミステリ」の使い分けは、以下の通りです。
◆推理小説について
(1)登場人物による分類
探偵が登場するのが「探偵小説」、警察が登場するのが「警察小説」、スパイが登場するのが「スパイ小説」
(2)謎解きのタイプによる分類
謎解きのロジックを重視するのが「本格推理」、スリラーやアクションなど筋立てを重視するのが「変格推理」
(3)リアリズムによる分類
社会的な観点を持ったリアリズムによる文学作法に則るものが「社会派推理」、そのなかの一傾向を特化したものとして「冒険小説」「トラベル・ミステリー」などがある。「社会派推理」の多くには探偵が登場しない。だから「探偵小説」とは呼べない。それゆえ、「探偵小説」より広義の「推理小説」という言葉で「社会派推理」を指すこともある。松本清張らの「社会派推理」を指す「推理小説」は、「新本格派推理」より古い。「本格推理」は、反リアリズムもしくは論理を特化した抽象の傾向が見られることが多い。
(4)表記の問題
「推理小説」全般を、「ミステリ」とも呼ぶが、「本格推理」のみを「本格ミステリ」を省略して「ミステリ」と呼ぶこともある。「社会派推理」は、「ミステリー」と表記することが多い。
私が「探偵小説」と呼ぶときは、探偵が出てくる小説を意味し、別に「探偵小説研究会公認」の小説を示しているのではありません。誤解があるといけませんので、念のため。
No.187 - 2007/05/10(Thu) 23:42:00

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アレクセイさんのコメント 2007年02月10日 13:36

文春文庫版 『魔』、今日買いました。

この文庫で注目すべき点は、「小森健太朗の解説がついている」ことではなくて、「小森健太朗の解説に差し換えられている」という点でしょう。つまり、「『容疑者Xの献身』論争」で笠井潔に追従せず、結果として叛旗を翻すことになってしまった「佳多山大地による(親本での)解説とインタヴューが、きれいさっぱり消去されている」のです。

で、「小森健太朗の解説」はというと、当然のことながら「笠井潔に追従」する内容になっています。つまり、笠井潔がいちばん書いてほしいと思っていることを「その意を汲んで」書いた、「笠井潔は、西尾維新や奈須きのこに影響を与えた作家だ」というのを殊更に強調する解説になっているんですね。

しかしながら、こういう「人気作家の名前利用」に、どれだけの合理的かつ倫理的な妥当性があるのか。例えば、西尾維新の『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』には、『バイバイ、エンジェル』からの引用があるし、西尾が『バイバイ、エンジェル』に多大な影響を受けているというのは事実でしょう。しかし、私が、拙論、

・ 「さかしまのオマージュ
   ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746

で、分析したとおり、西尾維新は「今や笠井潔を評価していない」可能性が非常に高い。にもかかわらず、そこには目を瞑って、西尾維新らの名前を利用するのは、批評家のすべきことではないはずです。しかし、小森健太朗は、事実それをやってしまっている。――権力者に媚びると、人間は覿面に堕落するという、これは端的な実例です。

小森健太朗のファンである はらぴょんさんにはつらい現実かも知れませんが、これは否定できない事実だろうと思いますし、たぶんはらぴょんさんも、なかば以上お気づきなんじゃないかとも思います。



『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』

 (西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)


『 ここで、用語の不統一について、お断りしておきます。笠井さんは「探偵小説」とお呼びですが、私は「推理小説」を慣用しています。今回の意見交換については、この点、とりたてて指示する対象が異なっているわけでもないので、私の方はやはり「推理小説」を使うことにいたします。』

 (笠井潔『探偵小説と記号的人間』所収
          「本格ミステリ往復書簡」より、巽昌章の言葉・P246)
No.186 - 2007/05/10(Thu) 23:34:03

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 はらぴょんさんの日記 『魔』 2007年02月10日 00:37

 笠井潔著『魔』の文春文庫版が出た。
 「本格ミステリ・マスターズ」の単行本として刊行された著作は、文庫化されたとき帯に「本格ミステリ・マスターズ」のマークがつくことに気づいた。(小森健太朗著『グルジェフの残影』の帯にもマークがついているので、間違いはない。)
 『魔』の解説は、小森氏である。解説の特徴としては、笠井氏からの西尾維新氏への影響を語っている点にある。この解説には書かれていないが、創元推理文庫版『バイバイ、エンジェル』の帯の推薦文を西尾維新氏が書いていること、『ロサンゼルスBB連続殺人事件』でも『バイバイ、エンジェル』からの引用が冒頭に見られることからも、この指摘は立証できるだろう。(どうやら、西尾維新氏の場合、矢吹駆シリーズでも、初期の、一作目の『バイバイ、エンジェル』の影響が強いようである。確かに、『バイバイ、エンジェル』における思想対決の緊張感は、凄かったし、自分にしてもあの本がなかったら、他の本に手を伸ばすこともなかったと思う。)
 ところで、『魔』を読む新規の読者(以前からの固定客を除く)として、どんな人が想定出来るだろうか?
 西尾氏のファン?
 で、あれば矢吹駆シリーズを読んでみるか可能性はありそうだと思う。特に『バイバイ、エンジェル』。しかし、飛鳥井シリーズまで関心を示す人は、あまりいないのではないか。
 とすれば、新規の読者は、ハードボイルドファンではないか。この文庫版の装丁も、ハードボイルドファン受けするデザインだと思うし。
No.184 - 2007/05/10(Thu) 23:23:05
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はらぴょんさんの日記 まだまだ幸せ者だと思わなくては 2007年02月22日 01:08

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648
No.228 - 2007/05/16(Wed) 00:23:51

mixi(4)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月26日 01:26

この続きは、こちらです。↓

・ 「齟齬の根底にあるもの」2007年02月24日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648
No.236 - 2007/05/17(Thu) 23:23:53

mixi(4)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年02月23日 00:56

  はらぴょん論  ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性



☆ はらぴょんさま

ぜんぜんですね。まだまだダメです。

拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」での批判を受けて書かれた、

・ 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

と題する、このご文章は冒頭、

> アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648 でのコメント参照)を読みました。この文章は、私にとって痛い文章ですが、そうであるがゆえに、深い厚情を感じずにはいられない文章です。ひょっとして、私は幸せ者かもしれません。 
> ここで書かれた私の性格に関する分析、例えば、
>>(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている
>> 権威主義
>> 本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在(しない)
>>(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。
> は、まったく的確な指摘だと思います。

等と書いて「一見謙虚に、自身の問題点を認め、反省しているかのように、装って」はおられますが、全文を通読すれば、この文章の目的が「自己正当化」のための「言い訳」にしかなく、私に対する「謝罪の言葉」が「欠片も見えない」のと同様、自身の問題点に対する「真摯な反省も無い」というのは、明らかです。

例えば、それに続けて、

> 強いて言えば、アレクセイ氏のはらぴょん批判は、まだまだ寛容すぎ、評価が高すぎるように思われます。
> 「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」ですと、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに追い詰められて、「BBSアレクセイの花園」で、あら探しをしたように取れますが、実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。だから、今以上に評価を落とさないと、真実とは言えないと思われます。

と書かれてますが、これは私の指摘した「粗探し根性」を否定するために、私がハッキリと指摘しなかった「パクリ根性」を、交換条件的に持ち出したにすぎません。しかし、後者を持ち出したから、前者が無かったということにはなりません。
結論から言うなら、はらぴょんさんには「粗探し根性」も「パクリ根性」も両方ありますし、後者についても私は、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」の中で、竹本健治作品における『「小説文法からの逸脱」的な「省略」』についての私の指摘を、はらぴょんさんが「パクっている」という事実を、


『もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」』


と指摘し、批判しております。
もちろん私は、はらぴょんさんによる「過去のパクリ」にも気づいてはいましたが、それをいちいち指摘したりはしなかっただけのことです。

> また、(1)の有名人好きということに関して、アレクセイ氏が、おそらくは見落としているであろう点があります。私にとって、アレクセイ氏自身もまた、有名人であり、その評価もまた恣意的かつ感情的評価になりがちであるということです。

これも、私にすれば先刻、想定済みの「言い訳」にすぎません。
たしかに私は、ささやかとは言え商業論文も書いているし、竹本健治の作品中にも登場した「ちょっとした有名人」ですが、実質的には「プロとアマとの境界的存在」だと言えるでしょう。

しかし、「プロの権威」というようなものが、大抵の場合は「勿体をつけることによって、意識的に醸成される幻想」でしかないという事実に鑑みるならば、私のような「中途半端な存在」が、自己を殊更に「権威化」することもなく、プロにもアマにも同じように接するというようなことをやっておれば、もともと「プロの権威=幻想」が大好きな はらぴょんさんが、私を「アマ=非権威者」としか見なくなり、その点で軽んずるようになる、というのは「理の当然」なのです。つまり、はらぴょんさんのような権威主義者は、むしろ威張ってくれる人(対等ではなく、上手から下手へと手を差し伸べるような人)の方がありがたく感じられる、一種の倒錯者だということなのです。
――しかし、残念ながら、反権威者である私には、そんな滑稽な「自己権威化」など、できる相談ではありませんでした。

> 例えば、アレクセイ氏の書かれた「さかしまのオマージュ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746)では、
>『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)の箇所が、西尾維新の笠井潔の探偵小説観との乖離を示す論拠として示されるわけですが、果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。ですから、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに対して、(1)の有名人好きの傾向がある私は、小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになったということを告白せねばなりません。


『果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。』というのも、不誠実な、その場かぎりの「言い訳」でしかありません。――というのも、拙論、

・ さかしまのオマージュ 西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746

において提示される「西尾維新は、かつては笠井潔の『バイバイ、エンジェル』にイカレ、笠井のファンとなったであろうけれども、この作品に示されているのは、そんなかつての憧れの的への、さかしまのオマージュなのである」という結論は、決して、上に引用された「作中人物のセリフ・のみ」によって導き出されたものではないからです。
つまり、拙論を通読しておれば「判断はできる」はずなのに、拙論を通読しているはずの はらぴょんさんは、ここに便宜上引用された「作中人物のセリフ・のみ」をもって『判断できませんでした。』と言い、それゆえに『小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになった』、というような嘘の『告白』をしているのです。

つまり、はらぴょんさんはここで、私が論文に示した「すべて判断材料」には言及せず、便宜的に示された一部資料だけに言及して、拙論全文を読んでいないであろう「多くの読者」に対してだけ、さも自分の「判断不能」が正当なものであったかのような「欺瞞」的なアピールをして、そのうえで自分の「人の良さ」までアピールするという「恥知らずな自己喧伝」を行って見せているのです。

> 『キララ、探偵す。』の「かくかくしかじか」の件と、『構造と力』P134の件を書いた件について、アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648)では、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯であり(ですから、これに関する言及は一度限りでひっこめました。)、後者に関しては『テロルの現象学』で批判の対象となった対極的な本であり、笠井潔の専門家であるアレクセイ氏ならば専門領域であると考え、再三にわたり、言及した次第です。「はらぴょん論・序説」を読むまでは、アレクセイ氏は神聖にして侵すべからずの無誤謬主義ではないかと義憤に駆られていましたが(これなども、感情的な判断しかできない証拠といえます。)、冷静になって自分の文章を改めて読み直してみると、悪意を持った中傷と受け止められて、批判を受けるのは当然の、つたない表現だと気づきました。

この部分は、多くの読者にとって、ほとんど「意味不明」だろうと思います。私にとってそれは同じで、はらぴょんさんには、さらに分かりやすい、筋の通った説明を要求したい。たとえ、それをすれば、さらに「ボロが出る」結果になろうとも、形式的にではあれ「自身の非」を一方的に認めている はらぴょんさんには、当然のことながら「伝わる説明をする義務」があり、私の当然の要求に応じる義務もあるからです。

ともあれ、ここにも、ご自身の「本質的な卑小さ=卑小な人間性」を『つたない表現』に還元し(摺り替えて)、自分を救い出そうという「セコい目論見」が、ハッキリと透けて見えるという事実を指摘しておかねばならないでしょう。

> このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。

そうです。はらぴょんさん、貴方は正真正銘の大馬鹿者です。しかし、貴方の大馬鹿さは、その「無自覚」にこそあり、その意味では、貴方はここでこのように語りながらも、すこしもその馬鹿さ自覚していないし、反省もしていません。まただからこそ、ぬけぬけと『たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。』などという「甘ったれ」たことが言えるのだし、ことここに至っても『こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。』などと、私に「見逃して」もらおう、「寛大な措置を期待」しようなどとするのです。

しかしながら、はらぴょんさんもご承知のとおり、私は極めて「情の濃い」人間ですから、簡単に見捨てたり、切り捨てたりはしません。私が相手を斬るのは、その愛ゆえですから、私は徹底的に貴方の大馬鹿さをこそ、切ってあげたいのです。

で、はらぴょんさんが少しでも、その大馬鹿さから脱皮するための方法を、ここに具体的に示しておきましょう。

まず第一は、最初に要求しておいたとおり、私とホランド氏への「謝罪」を明確にすること。
当然、謝罪にあたっては、ご自身の「本質的な卑称さ=卑小な人間性」を直視して、それを公に認めなければなりません。つまり、表面的な「大馬鹿さ」や「文章の拙さ」に、問題を摺り替えたりせず、率直に「反省」し、それを公にして、成長を誓う、ということです。その場合、タイトルは「謝罪と誓い」が適当でしょう。

つぎは、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」でも指摘しているとおり、はらぴょんさんの、その度しがたい「無反省=大馬鹿さ」を支えているのは、「現代思想に関するオタク的知識の所有意識」つまり「コレクター的自尊心」なのだから、これを捨てないことには、はらぴょんさんの成長は、当然「望めない」ということになります。

ですから、本当に「反省」する気があるのであれば、はらぴょんさんは今後、ご自分の文章において、思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して「自分の文章を飾り立てる」という愚行・醜行を、一切止めなければなりません。そういう「虚飾」を脱ぎ捨てた後の、裸の貧相な自分を直視した時にこそ初めて、本当の「反省」も可能だからです(『バイバイ、エンジェル』での、矢吹駆の助言と同じです)。

無論、私は、哲学書や思想書を「読むな」と言っているのではありません。むしろ、それらをしっかり読んで消化し、身につけてほしい、と言っているのです。そうしたもので学んだことを、自分のものとして消化したかたちで表現するのなら、それは一向にかまいません。
私が、忠心からの助言として、そして誹謗中傷をされた被害者として、はらぴょんさんに要求したいのは「哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない」という、はらぴょんさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。

ちなみに、私は、曖昧な誤魔化しを許すような人間じゃありませんから、再度その点をご確認ご認識下さい。不誠実な「言い訳」を重ねれば重ねるほど、恥をかくのは、はらぴょんさん、貴方ご自身だということを、くれぐれもお忘れなく。

ホランド氏に対する誹謗も、近々、それが「誹謗」でしかなかったという事実を「論証」して差し上げる予定ですので、覚悟しておいて下さい。私は、やると言ったらやる男だし、いちばん嫌いなものが「言い訳」なのです。つまり、ぐずぐず言い訳する奴を優しく諭すほど、私は気の長い人間ではないんですよ。

No.230 - 2007/05/16(Wed) 07:20:32

mixi(4)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 まだまだ幸せ者だと思わなくては 2007年02月22日 01:08

アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648 でのコメント参照)を読みました。この文章は、私にとって痛い文章ですが、そうであるがゆえに、深い厚情を感じずにはいられない文章です。ひょっとして、私は幸せ者かもしれません。 
 ここで書かれた私の性格に関する分析、例えば、
>(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている
>権威主義
>本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在(しない)
>(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。
は、まったく的確な指摘だと思います。 
 強いて言えば、アレクセイ氏のはらぴょん批判は、まだまだ寛容すぎ、評価が高すぎるように思われます。
 「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」ですと、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに追い詰められて、「BBSアレクセイの花園」で、あら探しをしたように取れますが、実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。だから、今以上に評価を落とさないと、真実とは言えないと思われます。
 また、(1)の有名人好きということに関して、アレクセイ氏が、おそらくは見落としているであろう点があります。私にとって、アレクセイ氏自身もまた、有名人であり、その評価もまた恣意的かつ感情的評価になりがちであるということです。
 例えば、アレクセイ氏の書かれた「さかしまのオマージュ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746)では、
『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)の箇所が、西尾維新の笠井潔の探偵小説観との乖離を示す論拠として示されるわけですが、果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。ですから、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに対して、(1)の有名人好きの傾向がある私は、小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになったということを告白せねばなりません。
 『キララ、探偵す。』の「かくかくしかじか」の件と、『構造と力』P134の件を書いた件について、アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648)では、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯であり(ですから、これに関する言及は一度限りでひっこめました。)、後者に関しては『テロルの現象学』で批判の対象となった対極的な本であり、笠井潔の専門家であるアレクセイ氏ならば専門領域であると考え、再三にわたり、言及した次第です。「はらぴょん論・序説」を読むまでは、アレクセイ氏は神聖にして侵すべからずの無誤謬主義ではないかと義憤に駆られていましたが(これなども、感情的な判断しかできない証拠といえます。)、冷静になって自分の文章を改めて読み直してみると、悪意を持った中傷と受け止められて、批判を受けるのは当然の、つたない表現だと気づきました。
 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。
No.229 - 2007/05/16(Wed) 00:24:33
mixi(2) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 批評におけるパラダイムの混在 2007年02月15日 01:48

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648
No.216 - 2007/05/13(Sun) 13:05:05

mixi(2)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月23日 20:15

上記のとおり、ここでの議論の続きは、こちらです。↓

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648
No.232 - 2007/05/16(Wed) 21:04:40

mixi(2)-6 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月21日 00:36

☆ 杉澤鷹里さま

お気づかい、恐縮です。しかし、

>  はらぴょんさんもまた、そう思ってきたのだろうと思います。そうしたアレクセイさんの批評に対する高い信頼があるからこそ、このような文脈の中で、ホランドさんの発言を引き合いに出し得たのだろうと思います。

というような「無難なきれいごと」では、私は納得しません。

「なぜ、はらぴょんさんは、あのようなアレクセイ批判をしたのか?」――その動機については、先ほど、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

の方へ投稿した、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」の中でも縷々分析しておりますので、そちらを踏まえた上で、まだご異論がおありならば、ぜひ拝聴したいと思います。

ともあれ、はらぴょんさんが懲りない人だというのは、私もわかっていますし、その意味では決定的な批判を突きつけたところで、そんなものの効果もさほど長続きはせず、徒労に終わる公算の大きいことも、承知しております。
けれどもだからこそ、これまでは誰もやったことがないであろう徹底した批判を、批判になってしまう「はらぴょん論」を書こうと覚悟し、実行したのです。「ああ、とうとうやっちゃったのか……」とさぞ、ため息をおつきのことでしょうが、これが私の「例外なきやり方」であると、どうかお諦め下さい。こういう人間でなければ、やれないことだってあるんですよ。

ま、とにかく、あれほどあからさまな「警告」を与えておいたにもかかわらず、あの程度の誤魔化しに満ちた「見解」しか示さなかったということは、はらぴょんさんの愚かさの自己証明であると同時に、私への侮辱でもあるわけですから、はらぴょんさんには大人として、それ相応の痛いメを見てもらわなければなりません。ですから、そのあとで、フォローしてあげていただければと、最後にいささか勝手なお願いを申し上げます(苦笑)。


No.227 - 2007/05/14(Mon) 20:42:37

mixi(2)-5 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年02月20日 22:11

 私も常々、クリアな議論をしている批評を読みたいと思っています。そういう批評が少ない、とも思っています。
 そして、アレクセイさんの批評は、クリアな議論をしており、読ませるものがあると、思ってきました。
 はらぴょんさんもまた、そう思ってきたのだろうと思います。そうしたアレクセイさんの批評に対する高い信頼があるからこそ、このような文脈の中で、ホランドさんの発言を引き合いに出し得たのだろうと思います。
No.225 - 2007/05/14(Mon) 20:05:03

mixi(2)-4 / ☆ [ Mail ]
lainさんのコメント 2007年02月20日 00:20

さあ、きましたね。大体予想された事態ですが。ということは、安易にはらぴょんさんに賛成するコメントを書いてしまった私も攻撃対象になるということですかね。うーむ、怖い怖い。浅田もメルロ・ポンティもろくすっぽ理解しておらず、安易なことを書いたlainがアレクセイさんに叩き潰されるということでしょうか。クリプトビオシス化して逃げようかなー。
No.223 - 2007/05/14(Mon) 07:48:29

mixi(2)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月19日 19:20

今日まで見落としていたんですが、面白いことを書いてるじゃないですか、はらぴょんさん。
――これは、私に「喧嘩を売ってる」ということですよね?

専門話に持ち込めば「なんとかなる」なんて考えてるのなら、それはいつもどおりの大甘ですよ。私は、専門家ともプロとも喧嘩したことがありますが、そのいずれでも、決して負けてはいません。なぜなら、私は、素人の分際で、生半可な知識を自慢げにひけらかすなんて「みっともないこと」は、決してしないからです。つまり、私が喧嘩する時は、世間の常識に立脚して、相手の言動に表れた、その人の愚劣な人間性をそのまま真直ぐに批判します。だから、相手に付け入る隙を与えないんですよ。

ここでなされたのも、所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできることですよ。
例えば、ミステリばかり読んでいる人が「○○も読んでいなきゃ、ミステリは語れない」などと言いたがる、あれとまったく同じ。自慢できることが少ないからこそ、ささやかなオタク的知識(本人の成長にはまったく寄与しない、知識のための知識)を最大限にひけらかす。その態度が、「品位」に欠け、「知性」にも欠けたものであるいうことにも、いい年をして気づかない、本質的な「暗愚」。

・ 「千野帽子にうんざり――『CRITICA』創刊号のレベルや如何に?」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=208726762&owner_id=856746

で論じた千野帽子が、ちょうどそういう馬鹿でしたが、はらぴょんさんは、ああいう馬鹿に何も学ばず、あんなのに同情でもしていたんですか?

言うまでもないことですが、本物の専門家は、素人の粗探しなんか絶対にしませんよ。そういうことをやりたがるのは、世間に認めてもらいたくてしかたがない、実力のない「二流」です。ど素人を相手にして知識自慢をするか、専門家当人の見ていないところで、あてにならない知ったかぶりの批判をしてみせるか。――こういうのにかぎって、本物の専門家の前では、借りてきた猫みたいにおとなしくなるもんなんですがね。

また、こういう人にかぎって、若い時分から「知ったかぶりの講釈たれ」で、年長者が内心でそれに苦笑していたのにも気づかず、自分が年をとって知識だけは年相応に増えると、今度は若者の知識の少なさを云々して「知らないのなら語るな」などと、若い者には「語る権利」も無いかのようなことを言うんです。若い頃の自分の行いを、きれいさっぱり忘れてね。

例えば、西尾維新しか読んでいない若い読者が「ミステリとは」などと語れば、それはたしかに底の浅い「ミステリ」論になるでしょう。しかし、では彼にミステリを「語る権利」が無いのかと言えば、当然、そんなことはない。知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。しかし、「知識があれば、理解が深い」というわけでもない、というのも、わかりきった話です。だから、たしかに知識は大切だけれども、まともな「大人」なら、素人に対し「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言いはしません。そういう、己が唇の寒くなる発言は「知識しかない・頭の悪い」人間しかしないんです。そして、このくらいの理屈は、高校生にでもわかるでしょう。

だいたい、誰に何を学んできたのかは知りませんが、批判するんなら、正々堂々と名指しでやったらどうですか? よくは知りませんが、ドゥルーズ=ガタリの思想に学ぶと、そういう態度を採るようになるんですか?(笑) 
それとも、これは「名指しの批判」も同然の、堂々としたものだとおっしゃるのか? それならば結構、私もいつもどおり、このやり取りを「花園」の方へも紹介して、お互い「公明正大」に、徹底的にやり合おうじゃないですか。
もちろん、ご承知でしょうが、私はやると言ったらやりますよ。実行する、ということです。そして、批判するとなったら、相手を叩き潰すつもりでやりますが、貴方にその覚悟がありますか? ――無いですよ。あるわけありません。無いからこそ「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判をするんです。

端的に言いましょう。私とホランドくんに対する、この無礼な仕打ちについて、率直に謝罪して下さい。
例によっての「泣き」が入っても、容赦はしません。私は、やるとなったら、相手がそれで自殺しても構わないという覚悟でやるんだから、泣いたの落ち込んだのといったことでは、金輪際、赦したりはしないから、その覚悟でいてください。
無論、逃げてもダメです。逃げれば、貴方が何を書いて、こうなったのかについて、貴方の文章を引用し、証拠を「世間」に曝して、批判するだけです。

例えば、こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたことについても、はらぴょんさんのなさったことが、単なる「猿真似」であったということを、原文を紹介して論証し、それやこれやで内心面白くなかった貴方が、こんな陰険姑息な文章を書いたのだということを、公然と批判してあげましょう。あの人もこの人も見ている前で、呵責なく、貴方の卑小さを腑分けしてあげましょう。

言わないとわからないのなら、わかるまで教えてあげます。貴方も、子供じゃないんですから、文章を公にする以上は、その覚悟でいてください。
No.219 - 2007/05/13(Sun) 21:56:42

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lainさんのコメント 2007年02月15日 02:13

うーん、反省することしきり、といった感じですね。自分も現代思想の理論を現象学、フェミニズム、構造主義、ポスト構造主義、とつまみ食いしながら論の中にぶち込み、時には混戦を引き起こして遊んでいることもあるという不逞の輩なので、自分が書いたテキストに対してどこまで責任を持つのか、自分の中に並存する複数のパラダイムをいかに整理していくのか、そのあたりは真摯に、真剣にやらなきゃいけないのかな、という感じです。

ホランド氏の書き込みについては、はらぴょんさんの意見に賛成です。『構造と力』の該当箇所は浅田がメルロ・ポンティの要約を行い、後に出てくる自説への地ならしを行っている場所ではないでしょうか。ホランド氏の指摘がそのままメルロ・ポンティの現象学の一断面になってしまっている気がします。引っ張ってくるのであれば、もう少し適切な箇所があったのではないかと思います。

これも、別にホランド氏を責める意図のあるコメントではありませんので、誤解なきよう。
No.218 - 2007/05/13(Sun) 13:15:45

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はらぴょんさんの日記 批評におけるパラダイムの混在 2007年02月15日 01:48

 一体、何がいいたいのか、私にはわからない。
 なぜ、文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられるのか、私にはさっぱりわからない。
 どっちかが上位の価値基準で、もう片一方が下位の価値基準ならばわかる。しかし、並列に、対等の立場で並んでいるのだ。これをどう解せばいいのか。
 どっちかがオールマイティーに、全般的に通用し、片一方が部分的に、ある条件下でのみ適用されるというのならばわかる。しかし、そうではない。互いに両立しない理論を唱える論者の名前が、まったく対等に並んでいる。
 批評文を読んでいると、往々にしてこのような事態に直面する。何を言っているのかと、これはこうなのだと言いたい気持ちと、言っても無駄なことだ、現代は教養自体が崩壊しているのだ、ドストエフスキーの名前を知っているだけでも評価しておくべきだという気持ちが入り混じる。

1.現象学・実存主義のパラダイム
2.構造主義のパラダイム
3.文化記号論のパラダイム
4.ポスト構造主義のパラダイム

 同じパラダイムであっても、個々の思想家の思想の差異も、当然ある。
 だが、パラダイムが異なると、まず間違いなく、それ以上の思想の開きが出来る。
 これらパラダイムの異なる思想をどう整理をつけるか。
 例えば、私の場合、これらのパラダイムを、以下のように整理している。
 ポスト構造主義のパラダイムに属するドゥルーズ=ガタリの理論は、資本主義の動的な仕組みをも射程に収める理論を提出している。ドゥルーズ=ガタリは、社会モデルの理念型を提示し、コード化・超コード化・脱コード化ということを言っている。ところで、コード化社会、すなわち動的な変化の少ない未開社会に対しては、構造主義のパラダイムに属するレヴィ=ストロースの構造人類学でカバーできる。レヴィ=ストロースは熱力学の比喩を使って、未開社会を冷たい社会と名づけ、構造分析を展開した。だが、超コード化社会、すなわち専制君主社会の分析に、構造分析が役立つかといえば、無理がある。専制君主社会での王殺しや祝祭に関しては、文化記号論のパラダイムに属する山口昌男の「中心−周縁」理論の方が適している。が、これもまた万能ではなく、システムの解体をシステム化した資本主義の分析には、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ・アナリーズの方が適している。つまり、下位のパラダイム(上の1〜4では、数字の小さいもの)に属する学問的成果は、ある限定条件のもとでは有効であるが、上位のパラダイムのようには適用できる範囲が広くないと考えるのである。
 だが、パラダイム違いの思想家を並置して書く批評家は、こうしたどちらのパラダイムを優先させるかとか、適用範囲の限定を行うかといった事柄には、まったく関心を持たないのだろう。そういう批評家の読んできた評論自体が、パラダイムの混線現象が起きていることが多い。二流の思想家のテクストばかり読むと、三流の思想家が生まれることになる。
 
 問題は、言っていることが、まったくわけのわからないものになることである。
 文化記号論では、内部/外部といった二項対立を基に、理論展開をすることが多い。これに対し、ポスト構造主義のパラダイムでは、内部/外部といった二項対立の外部に出ることを教える。つまり、外部/(内部/外部)ということになる。ポスト構造主義では、外部/(内部/外部)の最初の外部の方に力点が置かれている。
 ところが、パラダイムを混線させる論者は、ポスト構造主義の外部/(内部/外部)を、単純な内部/外部に置き換えてしまう。このほうが、物語として判り易いからである。
 こうして、山口昌男とジャック・デリダ、あるいは柄谷行人が並置されるといった喜悲劇が起きる。(別に山口昌男が悪いという意味ではなく、適材適所があるといっているだけである。)
 
 さらにテクスト全体を読まず、一部分だけを抽出して、著者の言いたいことを捕捉することに成功したとして、それを基に論ずる批評家も存在する。
 この手法でも、最初から最後まで一貫して、同じ事を言い続けるテクストの場合、何の支障も起きないかも知れない。
 だが、例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
 これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、

>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
 上記は、まだ些細な事柄であるが、ただでさえ、小難しい現代思想の世界において、さらにわかったようなわからないようなことを言う魍魎が跋扈するという状況は宜しくない。また、文学を隠れ蓑に、曖昧なイメージ思考に終始するものもある。素人の私にもわかるようなクリアな議論をしている批評を読みたいのですが、なかなかそうはいかないようである。
No.217 - 2007/05/13(Sun) 13:06:11
mixi(3) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 見解 2007年02月20日 00:18

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648
No.221 - 2007/05/14(Mon) 07:45:03

mixi(3)-4 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月23日 20:13

この議論の続きは、こちらです。↓

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648
No.231 - 2007/05/16(Wed) 21:02:52

mixi(3)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月21日 00:17

 よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説  


☆ はらぴょんさま

こんな見え透いた「余裕ぶり」で、第三者を誤魔化せると思っているんだから、本当に救いがたい人ですね、貴方は。――私が、こんなことを、曖昧に許すような人間だと思いますか? こんなことで「収まる」とでも思ったんだったら、貴方の読解力は「ゼロ」ですよ。

>  それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。
>  ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。


そこまでわかっているんなら、私が『啖呵』において「警告」を与えているうちに、しかるべき謝罪をすべきでしたね。なぜなら、このあとに来るものは『理』であり、つまり『啖呵』で語ったことの論証であり実証しかないんだから。

言い換えれば、――これから私が語るのは「はらぴょん論」です。はらぴょんさんが、どんな人間かを、はらぴょんさんの言動に即して、論証していく。これは、批評としてはあくまでも「ごく当たり前の行為」だけれども、当たり前の行為だからこそ「救いがない」ということです。

例えば、以前、はらぴょんさんは、竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆いておられました。そして、ご自分は、どうせ長く生きられない人間だとか何とか「詠嘆調」で書いておられました(はらぴょんさん、あれはいつでしたかね?)。
これは、はらぴょんさんが、オフで個人的に語ったのではなく、「ミクシィ」の日記としてアップされた「公式見解」だったからこそここで言及しているんですが、はらぴょんさんは「そういうことを書く人」だというのが、ここでハッキリとわかる。――つまり、自制心に乏しく、感情に流されて書くけれども、本人にその自覚は乏しい、ということです。

ともあれ、はらぴょんさんがこのように「思い込んだ」のは、竹本健治の作品について、多少なりとも「肯定的でない評価」を書いたからだったと記憶します(はらぴょんさん、どうでしたかね?)。それで、竹本健治に「嫌われて、切られた」んだと思い込んだんでしょう。
で、私は「そんなことはありませんよ。竹本健治はそんなことをいちいち気にする人じゃないし」と慰めました。たとえ、はらぴょんさんの「思い込み」がで当たっていたとしても、批評行為によって作家に嫌われたことを「公に向けて嘆く」などという感覚は、そもそも批評家としての自覚と覚悟に欠けた「情けない態度」だと言えるでしょう。が、ともあれ、こんな「小心」な はらぴょんさんが書く程度の「及び腰の批判的批評」で嫌われるのなら、私は遠の昔に、竹本健治に縁を切られていただろうという確信がありましたので、竹本に電話して「はらぴょんさんが、こんなこと書いてるけど、確認してあげてくれませんか」と依頼し、竹本は覚えのないことながら確認してみると、事実リンクが切れていたので、管理者に連絡して、再度つないでもらうように手配した、ということがありました(ちなみに、私が竹本健治に電話することなど、事務連絡的なことを除けば、年に一度もないことです)。
無論、このことは、はらぴょんさんも今回ここで、初めて知らされる事実です。

で、こうした「事実」をなぜ公にするのかと言えば、はらぴょんさん自身のことについては、ご本人が進んで公にしたことですし、私の行為については、今までは公にする気も無かったし、する必要も無かったけれど、ここに来て、はらぴょんさんという人の「本質」を明らかにする上では、たいへんわかりやすい「事例」だと考えたからです。

さて、この事実から、合理的に引き出せる「はらぴょん像」とは、如何なるものか?

(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。

という事実が、まず挙がられます。
「有名人好き」というのは、べつに問題はありません。誰でも、多かれ少なかれそうだからです。ただし、はらぴょんさんは「批評」をなさっていますから、そこには「批評家としての公正さ」でなければならない。つまり、「好きなもの」を語る時は、相手を怒らせないか嫌われないかと「及び腰の批評」になったり「お追従批評」になるのに、「そうでないもの」に対してなら遠慮会釈なく批評して「それが当たり前の態度」だなど自慢するような、そんな「不公正」は許されない、ということです。

しかし、竹本健治に対する「過剰な反応」からも明らかなとおり、はらぴょんさんは「自分の感情を殺してでも、公正に徹する」ということができません。それができる人ならば、そもそも大の大人が「嫌われてしまった」などという「泣き言」を公にして、他人や(もしかすると竹本健治の)同情を惹こうとするわけがない。そんな醜態は、批評家と言わず、自制心や矜持のある人間には、到底できることではないからです。

したがって、はらぴょんさんには「個人的な感情」を殺した、「公正な批評態度」は不可能です。つまり、「感情に流され」た「不公正な批評」しかできない、ということです。
そのため、はらぴょんさんは「好きなもの」について語る時は、自ずと「お追従批評」あるい「及び腰の批評」になります。具体的に言えば、清涼院流水、小森健太朗、竹本健治などについては、公正な批評ができない、ということです。

で、はらぴょんさんのこうした「わかりやすさ」は、例えば「作家と直接やりとりができた」というような「経験」が加わると、ほとんど決定的なものになります。平たく言えば、せっかく「お近づきになれた」という「幸運」に「しがみついてしまう」ということです。

今回の、私やホランドくんの文章に対する「搦手の悪口」も、それは私が、はらぴょんさんの日記、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

へのコメントとして、はらぴょんさんがコミュの管理人を勤める「小森健太朗」に関して、


『分析したとおり、西尾維新は「今や笠井潔を評価していない」可能性が非常に高い。にもかかわらず、そこには目を瞑って、西尾維新らの名前を利用するのは、批評家のすべきことではないはずです。しかし、小森健太朗は、事実それをやってしまっている。――権力者に媚びると、人間は覿面に堕落するという、これは端的な実例です。

小森健太朗のファンである はらぴょんさんにはつらい現実かも知れませんが、これは否定できない事実だろうと思いますし、たぶんはらぴょんさんも、なかば以上お気づきなんじゃないかとも思います。』


と書いたからでしょう(2007年02月10日13:36 )。
はらぴょんさんは、この書き込みにつづくコメントの中で、この話題とはまったく関係のない、「アレクセイの花園」でのホランド氏の書き込みについて、いきなり否定的な言及を始めています(2007年02月11日08:16 )。

そして、さらに、はらぴょんさんは、それに続く書き込みで、私が「アレクセイの花園」に書いた竹本の新刊『キララ、探偵す。』についての文章に言及して、私の文章を「一部」引用して、次のように指摘しています(上半分が、私の文章の引用。下半分が、それに関する、はらぴょんさんの見解)。


『例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

2007年02月01日 00:16の方が、先でしたね。
いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


ここで、はらぴょんさんは、この点についての指摘は、自分のほうが『先でしたね。』あるいは『アレクセイさんの(…)着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りした』と書いています。――しかし、これは「恥知らずなレトリック(意図的欺瞞)」です。

事実は次のとおり。
私が『キララ、探偵す。』について上のように指摘した『「メタ・フィクション」的手法』については、はらぴょんさんも紹介している、私の『狂い咲く薔薇を君に』評、

・ 「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」2006年04月26日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=123885033&owner_id=856746

において、『あのう、それはかくかくしかじか』 (『狂い咲く薔薇を君に』P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる「同種の技法」を指摘した上での、


『と、作中人物のセリフのなかで、「小説文法からの逸脱」的な「省略」がなされます。

 むろんこれらが、凡百の作家においてなされたものであれば、単なる「無神経」だと理解することも可能なのですが、作品に「メタ」的視点を導入するのが常態だと言ってもよい竹本健治の場合、そのような無神経さは、ほとんど考えられないことなのです。そして、そうだとすれば、これらは故意になされた「不自然な描写」だと理解する方が、むしろ自然だと言えるはずです。 』


という「私の指摘(見解)」を踏まえたものです。――と言うよりも、この点に関する指摘と、その意味を指摘することが、拙論の「眼目」であり、拙論を読んだ者であれば、「誰」でも『キララ、探偵す。』における「同様の部分(まったく同じ言い回し)」の意味を理解できるし、その箇所を「指摘」するのも容易なのです。
つまり、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んだ後に、『キララ、探偵す。』における上記の箇所を指摘するのは、私の批評に対する『先回り』ではなく『後追い』であり、その観点がすでに私によって指摘されたものであるという「断りを入れないで」なされた指摘は、所詮は単なる『猿真似』でしかない、ということです。

はらぴょんさんは、

・ 「『キララ、探偵す。』補足」2007年01月29日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=331067408&owner_id=491648

で、自分の書いた、


『ただ、普通のミステリと違うのは、「いや、実はかくかくじかじか」(53ページ)のような表現があることで、同じことを何度も書くのは、書く方も読む方もめんどうだし、小説=虚構だからいいじゃないの、ということで書かれているのだと思いますが、そこが違うということです。
このことは、メタ化とかかわってくると思いますが、そんなことは気にせず、愉しめばいいと思います。』


という指摘が、私の『猿真似』でしかないということを重々自覚していたからこそ、私が『狂い咲く薔薇を君に』で指摘しておいた点を『キララ、探偵す。』でも指摘すると(もちろん、私の指摘はそれだけではないが、はらぴょんさんは、そこしか紹介しません)、読者の多くが私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」までは読まないだろうことを見込んで、


『いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


と書き、私の『着目しそうな箇所』だと暈して、私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので、私は、先の、はらぴょんさんの日記ページ、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

に、


『それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。』


とだけ、警告的にたしなめるに止めてのです(2007年02月12日)。

しかし、はらぴょんさんは、こうした「忠告」すら、気に喰わなかったのでしょう。自分の行為を恥じるのではなく、逆に、

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

を書いて、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったのです。

で、これには、さすがの私も堪忍袋の緒が切れ、同コメント欄に、はらぴょんさんのこの日記も所詮は、まともな反論ができない「腹いせ」に行われた、


『所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできる』


筋違いの「嫌がらせ」でしかなく、そちらがそんな「不誠実な態度」を採るのであれば、私も容赦はしないと、次のような「最後通牒」を突きつけることになったのです。


『端的に言いましょう。私とホランドくんに対する、この無礼な仕打ちについて、率直に謝罪して下さい。
例によっての「泣き」が入っても、容赦はしません。私は、やるとなったら、相手がそれで自殺しても構わないという覚悟でやるんだから、泣いたの落ち込んだのといったことでは、金輪際、赦したりはしないから、その覚悟でいてください。
無論、逃げてもダメです。逃げれば、貴方が何を書いて、こうなったのかについて、貴方の文章を引用し、証拠を「世間」に曝して、批判するだけです。

例えば、こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたことについても、はらぴょんさんのなさったことが、単なる「猿真似」であったということを、原文を紹介して論証し、それやこれやで内心面白くなかった貴方が、こんな陰険姑息な文章を書いたのだということを、公然と批判してあげましょう。あの人もこの人も見ている前で、呵責なく、貴方の卑小さを腑分けしてあげましょう。

言わないとわからないのなら、わかるまで教えてあげます。貴方も、子供じゃないんですから、文章を公にする以上は、その覚悟でいてください。』


しかし、それでも、はらぴょんさんは「知らぬ存ぜぬ」で誤魔化そうと、この、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

というページに示された、誤魔化しと不誠実に満ちた「見解」を明らかにしました。
――こうなっては、もう容赦はできない。こんな人間に「私はあたりまえに、批評や思想の話をしただけです」みたいな「専門家づら」をさせておくことは、「批評」のためにも「思想・哲学」のためにも、そして、はらぴょんさんご本人のためにもならないと判断し、こうして本格的な批判を「開始した」というわけです。


はらぴょんさんとは、一体どういう人なのか? その一点目は、前記のとおり、

(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。

という点にあり、この点を分析してわかるのは、前述のとおり、

(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。

という点でしょう。
また、はらぴょんさんが「現代思想に関する知識」を振り回したがるというのも、(1)の権威主義に由来しており、ご本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在せず、はらぴょんさんの「博識」は、「公正な判断のための参照事項」ではなく、もっぱら自分の「好み」の「箔づけ」にしかなっていない、ということがわかってきます。

例えば、日記、

・ 「『キララ、探偵す。』」2007年01月28日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=329902598&owner_id=491648

で、長々と書かれているご意見も、これは作者自身が作中人物の口を借りて、作中で語っていること(P100〜101)について、それをそのまま「衒学趣味的に飾り立て」「追認するもの」でしかなく、はらぴょんさんの「独自の考え」といったものは、まったく見あたりません。

これは、はらぴょんさんのテクスト全般に言えることで、書いている「内容」そのものは、別に目新しくもなく、個性的でもない。そこには、単なる「趣味的な肯定・否定」でしかないのですが、それを「思想哲学」に関する「知見」で飾り立てているために、「その部分」に幻惑されて、「なんだかすごいことを書いている」かのように「素人には見える(誤解される)」に過ぎないのです。
ですから、はらぴょんさんのテキストから、そんな「権威主義的レトリック」を取り除いたら、いったいどれだけのものが残るでしょう? ――その答は、誰の目にも明らかです。

だからこそ私は、はらぴょんさんへの今回の「警告」において、


『ここでなされたのも、所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできることですよ。
例えば、ミステリばかり読んでいる人が「○○も読んでいなきゃ、ミステリは語れない」などと言いたがる、あれとまったく同じ。自慢できることが少ないからこそ、ささやかなオタク的知識(本人の成長にはまったく寄与しない、知識のための知識)を最大限にひけらかす。その態度が、「品位」に欠け、「知性」にも欠けたものであるいうことにも、いい年をして気づかない、本質的な「暗愚」。』


と書いたのです。
つまり、はらぴょんさんの「思想哲学」に関する考え方は、常に「下向き」であり、「自分より知識の少ない者に向けて」書かれた、志の低い「自己権威化指向」に貫かれたものでしかない、ということなんですね。

はらぴょんさんの「思想哲学」的な知見は、所詮は「素人」「趣味人」の域に止まるものであり、その範囲においてのみ、「素人」や、あるいは「プロ」からも「すごいですね」と煽ててもらえる類のものでしかありません。
人は、相手の知識がいかに浅薄なものであるかを知っていても、「素人のそれ」をいちいち挙げつらったり、批判しようとはしません。そんなことをすれば、それが自分に返ってくるのは見えた話なんですから、幼稚児のお遊戯を誉める時の大人と似たような態度で「すごいですねえー」と無難に誉めて見せるものなのです。

で、こんなことは、はらぴょんさんが、ご自分の「教養」について客観的でありうるのならば、わかりきった話だと言えるでしょう。しかし、はらぴょんさんは、(1)権威主義的であり、(2)感情的ですから、誰よりも「自分のこと」については「客観視」できません。むしろ、誉めてもらえば、それをそのまま信じようとするでしょうし、その「お愛想」にすがって、「本質的自信を欠いた、ひ弱な主体」を支えようとするでしょう。そして、その結果、そうした「逃避的な幻想としての自負」を揺るがしてくるような、私のような存在、つまり、「知識など何ほどのものか」と言い切り、それを実証してしまうような存在を、内心で「憎み」つづけるのです。

でも、はらぴょんさんも、まんざらバカではありませんから、と言うか人並みの頭はありますから、私に対して手出しするのがいかに危険かということに、気づいていないわけではありません。だから、できれば、事を荒立てたくはない。
けれども、そのように、物事を曖昧にしておきたいのならば、私について言いたいことがあったとしても、それを我慢するのが「理性的な態度」であり「自制心」というものなんですが、はらぴょんさんは(2)感情的な人間で自制心に欠ける上に、はらぴょんさんにとっての私は「何の権威もない人間」、つまり「嫌われるだけなら」かまわない人間(けれども、攻撃されるのは困る、という中途半端な存在)だから、はらぴょんさんは、つい自制が利かなくなったというわけなのです。

はらぴょんさんの「自制心の無さ」は、その「文体」に表れた「衒学趣味」にも明らかですし、「コレクション自慢」に止まらない「自慢好き」ぶりにも、明らかでしょう。
はらぴょんさんの場合、「思想哲学」的な教養は、他人に向けての「ひけらかしの道具」であり「自慢のコレクション」であって、ご自分の「思想」や「思考」や「意思」や「批評性」を「鍛えるもの」ではありません。むしろ、そのブクブクと膨らんでいく「着ぐるみ」の厚みによって、その内側に秘められた「素肌」は、どんどん「脆弱さ」を増していっているとも言えるのです。

この、日記、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

における、「見せかけだけの強がり」と「明示されない本音」は、次の「結論部分」に明らかです。


『 それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。
 ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。』


――『そんなバトルを継続して行えるほどの暇はない』などという「言い訳」は、「バトル」とやらを「やったことのある人間」にだけ許されるものであり、


『ど素人を相手にして知識自慢をするか、専門家当人の見ていないところで、あてにならない知ったかぶりの批判をしてみせるか。――こういうのにかぎって、本物の専門家の前では、借りてきた猫みたいにおとなしくなる』


などと私に当て擦られて、それには反論できないような人間の言うことではない、というのも明らかでしょう。

そもそも、自分から進んで他人を批判しておいて、それについて相手が反論してきたことに対し『そんなバトルを継続して行えるほどの暇はない』と言う権利など無いというのは、批評家ならば常識として弁えていることでしょう。つまり「責任を取ることのできないような批判なら、初めからするべきではない」ということです。

無論、こんなことは、はらぴょんさんだって先刻ご承知なんですが、『バトル』をやりたくない人間、やる自信のない人間は、それを正直に表明するかわりに、その「時間がない」ということで誤魔化そうとするものなんですね。つまり、「時間がない」という「言い訳」は、「逃げ口上」の最たるもの、ありふれたものなのです。

さらに指摘しておくと、

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

に書き込まれた、私の「批判、および謝罪要求」に対し、どうして、わざゎざこの日記、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

を立てて、そこで返答したのかも、この本質的な「逃げ腰」に、その「意図」は明らかです。
つまり、はらぴょんさんは、先のページに書かれた、私による「批判、および謝罪要求」をできるかぎり、「第三者」に読ませないようにし、自分の文章だけを読ませ、その「印象」だけで、ご自分を「第三者の嘲笑」から救おうとしたのです。

これは、先に書いた「竹本健治作品におけるメタフィクション的記述」に関する、はらぴょんさんの「書き方」にも明らかです。
はらぴょんさんは、私が「先に指摘したおいて事実」においては、しごく「曖昧」にしか言及しませんし、もちろん、この私の文章のように、リンクを張って明示することもしません。つまり、できるかぎり「自分に不都合なものは、読者に対して隠蔽しようとする体質」をお持ちなんですね。そして、それをここでも実行している。

そしてこれは、はらぴょんさんの「衒学趣味」の裏返しとして、充分に納得できるところでしょう。
つまり、自分の「箔づけ」になることなら「不必要なまでに喧伝する」一方、自分に不都合な事実については「不公正(アンフェア)なまでに隠蔽する」というわけです。

言い換えれば、はらぴょんさんの「文章」とは、常に「自分を、実際以上のものに見せよう」とするための、「第三者の目」だけを意識した「客観性に欠ける記述」のみ、なのです。
そして、そこには、自分が論じている「対象=相手」への「公正な配慮」が欠落しています。そのようなものが有るかに見える時も、それは自分が「公正な人間であるということの自己喧伝」にかぎられ、その効果が見込めない時には、そういう「当然の配慮」もしないのが、はらぴょんさんの「素の態度」だということです。



このように見ていけば、はらぴょんさんという「アマチュア批評家」が、いかにも「アマチュアらしい動機」によって動き、その範囲を一歩も出ていないか、というのが明らかになるでしょう。こうした「動機と行動」においては、はらぴょんさんがひけらかしたがる「現代思想的知見」は何の役にも立ちませんし、事実、役に立ってもいません。――と申しますか、むしろその度しがたい「ひ弱な自己愛病」を「膏肓」にいたらしめる、悪しき要因にしかなっていないというのは明らかです。
つまり、はらぴょんさんが「依存」する、ご自身の「博識」とは、その程度のものであり、所詮は、その胸に麗々しく飾られた「おもちゃの勲章」でしかない、ということです。


そして、ここまで、長々と綴ってきた「はらぴょん論」での指摘は、あたりまえに文章を読める人間にとっては、「何を今さら」といった「わかりきった話」でしかありません。しかし、だれも、それをあえて指摘することはしなかった。なぜなら、三十を過ぎた大の大人に対し、今さらそんなことをしても「改まらないであろう」ことは、ほぼ明白なことだったからです。

しかし、そうした「放置」だの「甘やかし」だの「黙殺」によって、自制心に欠けるはらぴょんさんは、ご自分に対する「過大な逃避的幻想としての自己像」を、なんとかここまで守って(保って)きました。で、その挙げ句、その「肥大した自意識」によって、私に対し「無礼」を働くことにもなったのです。

私とて、いかにも「現代思想オタク的な博識」が自慢の、ただ「アマチュア批評家」を、積極的に批評・批判したいとは思いません。しかし、この甘え掛かる「火の粉」は払わねばならないし、「鬱陶しい」にも限度があろうというものなのです。


私の「はらぴょん論」は、今日はひとまずこれくらいにしておきましょう。しかし、「予告」したとおり、なすべき「謝罪」もできない甘ったれに、かける情けはありませんから、これからもまだまだ「その態度」について、分析・批評・批判を加えていく予定です。つまり、順次その言及・発言の範囲を「拡大」していきます。

もちろん、「アレクセイの花園」での、私やホランド氏の発言に対する「的外れな批判」については、まずあちらで明らかにし、その上で、こちらでも同様の報告をすることになるでしょう。そして、この文章も、いずれあちらでも公開することになるでしょう。

したがって、読者諸兄には、はらぴょんさんが、そうした私の文章を読んでいるということを前提にして、彼の反応を観察していただきたいと思います。たとえ「時間が無いので、アレクセイさんの文章はフォローできません」などと誤魔化そうとしても、それができるほどの自制心が、はらぴょんさんには無い、ということを踏まえておいていただきたいと思います。

私は、だてに十五年にもわたっての「笠井潔批判」を、実行してきた人間ではありません。つまり「無視黙殺すれば、それでいずれは飽きて黙るだろう」などという期待を持つべき相手ではない、ということです。

私が望んでいることは、いたって単純です。要は、はらぴょんさんの書いたことが正しいのか、それへの私の反論が正しいのか、それをハッキリさせたいだけです。「暇がない」などという、いい加減な言い訳を認めて、それで事実の究明を「曖昧」にしたくはないし、するつもりもない、ということです。

したがって、はらぴょんさんが自分のなした「発言」に対するこの批判に対し、今後も今回のような「誤魔化しにみちた、不誠実な態度」を採るのであれば、私の批判は、さらに拡大します。隠蔽は、断じて許しません。
ともあれ、私には、批判された者としての「反論する権利」があり、はらぴょんさんには「批判した者」としての「応答義務」があるんですから、お互いアマチュアとは言え、批評をやっている人間として、いい加減なことでは済まされない。自分自身に関わることだからこそ、白黒ハッキリさせて、その襟をきちん正さなければならない、ということです。

さあ、はらぴょんさん、私の「反論」第1号は、ここに放たれました。どのような態度で、これに「応答」してくれますか? はらぴょんさんの反応を楽しみに拝見したいと思います。
No.226 - 2007/05/14(Mon) 20:09:05

mixi(3)-2 / ☆ [ Mail ]
lainさんのコメント 2007年02月20日 00:53

傍観している(?)lainでございます。
はらぴょんさん、アレクセイさんのやりとりについてあまり精査もしないまま、安易に突っ込むようなコメントをしてしまったことはお二人に謝罪しなければならないと思います。申し訳ありません。
私個人としてはデスゲームを望んでいるわけでも何でもありませんが。どちらかが死に至る前にどこかバランスの取れたところに収斂してくれると一番いいんでしょうけど、そうはならないかもしれません。
しかし、酒を飲みながらこんなコメントを書いている私が最も小ざかしい浅知恵の人間であり、矮小な人間ですな、うーむ。
No.224 - 2007/05/14(Mon) 07:49:50

mixi(3)-1 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 見解 2007年02月20日 00:18

 私の理解することころでは、アレクセイ氏は、「批評におけるパラダイムの混在」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648で私が提示した分類、すなわち

1.現象学・実存主義のパラダイム
2.構造主義のパラダイム
3.文化記号論のパラダイム
4.ポスト構造主義のパラダイム

でいえば、地に足のついた"1あるいは合理主義"に沿って発言する人であって、2〜4に属する思想家について発言するときも、"1あるいは合理主義"から納得のいく領域だけを限定的に評価して利用しているおり、自分の納得のいかないことには言及しないことが、アレクセイ氏の強みであると考えてきました。
 ですから、「批評におけるパラダイムの混在」に関して云えば、アレクセイ氏に「批評におけるパラダイムの混在」が起こりようがなく、文中指摘した『構造と力』に関するどうみてもミスリーディングの箇所を、同居人(なのかな。まぁ、そこのところはよくわかりませんが。)のホランド氏に伝えて、問題のテキストを確認された上で、部分的に軌道修正すればいいだけの話であって、こんなところで怒ると「あれれ、どこかで批評におけるパラダイムの混在をやっている自覚があるんだろうか。」と邪推してしまいます。
 (ちなみに、この箇所の指摘は、「批評におけるパラダイムの混在」より前の日記ですでに書いていますが、見事に無視されましたので、だんだんくどく指摘しております。原文を読めば納得いただける箇所だと思いますので、ご検証をお願いします。なお、この箇所に見られるような適切でない批判は、今回、ホランド氏が原文全体を読んでいなかったためだと考えますので、訂正するのはホランド氏の方であり、私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。)
 「批評におけるパラダイムの混在」を読んだら、「そうそう、バタイユ主義者の笠井氏は、<栗本は○で、山口は×>の原則だったのに、なぜか『空の境界』の巻末解説では、山口評価をしてますからねぇ」といったようなコメントが返ってくると思ったのですが、的中しませんでした。
 それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。
 ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。
No.222 - 2007/05/14(Mon) 07:45:49
そもそも「著者」概念を批判していた人達が? / 藪木二郎 [関東]
メルロ・ポンティ→吉本隆明→(岸田秀)。

これはいわゆる「日本のポストモダン」の、一つの大きな流れでしたよね? ……と言っても現代思想をやっている人達は、かつて自分が言っていたことに関して、すぐに「スッ呆け」ますからね……。

さて上の系譜にあって岸田秀が括弧に入っているのは、「彼の『唯幻論』からは『対幻想』が抜け落ちている」などといった批判が定番だったからでありまして、「『自己幻想』も『共同幻想』も中心は一つ。『対幻想』だけが中心が二つ。故にオタクにもならないしナショナリズムにも巻き込まれない」、などと言われていました。なんでも、「『対幻想』だけが『他者』との関係を含んでいる」、ということなのだそうで……。

ところがこの「対幻想」が、ある面で「近代主義的」な「商品交換」の論理を帯びてきてしまうところがあるわけでして、「『近代主義』を攻撃する人ほど『近代主義的』なんだよなぁ……」という結果にもなり勝ちだったわけです。

こうした人達にしても、メルロ・ポンティや岸田秀を使って「自説への地ならしを行ってい」たのでしょうし、「それでもやはり……、結果的に……」ということだったのだと思います。

> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

「浅田さんの議論も……、結果的に……」ということは大いにあり得ることですし、実際に、「浅田によると……」などとも言っていてた人達が、上の話をしてくれたわけです。因みに上の話、『構造と力』とほとんど同じ装丁の本からのパクリなわけですし、セットにして読んでいた人も、結構いたのではないでしょうか?
No.220 - 2007/05/13(Sun) 22:26:11
ミクシィでの一連の遣り取りについて / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 これから、ミクシィではらぴょんさんアレクセイさんを中心に、2月中旬から3月中旬になされた一連の遣り取りを、11のスレッド、91の投稿というかたちで再現してまいります。

 ミクシィの形式になじみのない方に、若干の説明をしておきます。
 ミクシィは、各人が日記を公開することが出来ます。日記には、本人を含め、日記閲覧者がコメントを寄せることができます(ブログの形式に近いものです)。
 マイミク(という親密さの証明のような関係があり)の方の日記が書かれるとそれが(自分のトップページにタイトルが表示されるというかたちで)知らされます。自分がコメントを寄せた日記に新たにコメントが寄せられると、それも知らされます。マイミクの方の日記にコメントが寄せられても、自分がコメントを寄せていない限り、それは知らされることはありません。
 他の人が自分のページを訪れますと、「足あと」というかたちで、それが(自分にだけ)知らされます。「足あと」が残るので、あるヒトが自分のページを訪れたか訪れていないのかは分かります。足あとを残していったヒトのページを訪れるのは(ワンクリックで済み)容易なことです。そして、問題のあるヒトのページに「足あと」を残すのを厭う風潮があります。

 ここでは、スレッドを各日記に対応させることとします。フォントの色相の違いによって投稿者の違いを、フォントの明度の違いによって日記の主の違いを表現し、直感的な理解の補助とすることにします。実際の投稿の順番に従って、投稿していきます。投稿の間隔は残念ながら正確なものではありません。
No.182 - 2007/05/10(Thu) 22:00:51

mixi(0-1)からmixi(0-4)について / ☆
 mixi(0-1)からmixi(0-4)は、mixi(1)より前に発表されたものです。
No.214 - 2007/05/13(Sun) 01:48:09

投稿者名について / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 この場への投稿者と、mixiでの投稿者との間での混乱を避けるため、この場への投稿者名を☆で表すこととします。
 ですので、mixi関連の投稿での☆は、杉澤鷹里のこととご理解ください。
No.185 - 2007/05/10(Thu) 23:27:28
mixi(0-4) / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』補足 2007年01月29日 07:03

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=331067408&owner_id=491648
No.208 - 2007/05/13(Sun) 01:28:23

mixi(0-4)-5 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月31日 02:19

名古屋のジュンク堂には、3冊ありました。
背表紙だけが見えるかたちでおいてありました。

アニメショップに置いてあるかは、まだ未チェックです。
No.213 - 2007/05/13(Sun) 01:32:20

mixi(0-4)-4 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月30日 13:22

『キララ、探偵す。』が売れている、かも知れません。

昨日、通勤の途上で立ち寄った「ブック・ファースト」には、5冊くらいが面陳で置かれていました。「明日、仕事を終えてから買おう」と先ほど立ち寄ったところ、売り切れだという……。

本当か、本当なのか? ――と自問しつつも、別の書店で無事購入。
しかし、あの装丁だからこそ、売れているのかも知れません。

竹本健治も知らずに買った、君。
そりゃあ、かまわないけど、わかりやす過ぎだよ……(-_-;)。
No.212 - 2007/05/13(Sun) 01:31:40

mixi(0-4)-3 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月30日 00:46

『果実』10割読了。
これについては、明日以降言及します。
No.211 - 2007/05/13(Sun) 01:30:59

mixi(0-4)-2 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月29日 23:30

現在時点で、『果実』は9割読了。
前半、ストーリー展開の面で単調さが否定できませんでしたが(その代わり、凝った文体とか、引用とその換骨奪胎は、並の水準を遥かに越えていますが)、6割目移行はストーリーの面(推理合戦)でも結構楽しめました。
というわけで、これについてはしばし時間をください。
No.210 - 2007/05/13(Sun) 01:30:20

mixi(0-4)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』補足 2007年01月29日 07:03

先日の日記で、小難しいことを書きましたが、この本はエンターテイメント作品です。
各章ごとに謎解きのあるストーリーなので、ネタバレを回避しようとすると、どうしても先日のように重箱のふちをつつくようなことになります。
ということで、小難しいことが苦手な方も、安心してお読みください。

ただ、普通のミステリと違うのは、「いや、実はかくかくじかじか」(53ページ)のような表現があることで、同じことを何度も書くのは、書く方も読む方もめんどうだし、小説=虚構だからいいじゃないの、ということで書かれているのだと思いますが、そこが違うということです。
このことは、メタ化とかかわってくると思いますが、そんなことは気にせず、愉しめばいいと思います。

ということで、キララは読了したので、再度『果実』に戻ります。(あと4割残っています。)
2月になると、『パーフェクト・ワールド2』が出るので、今月中に読み終えたいところです。
ところで、『果実』は、昨日の新聞に載っていたトーハンの週間売り上げランキングで、9位でした。1位は、森博嗣の新作。
No.209 - 2007/05/13(Sun) 01:29:34
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