06014

虚無なる「匣の中の匣」

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mixi(0-3) / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』 2007年01月28日 00:32

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=329902598&owner_id=491648
No.201 - 2007/05/13(Sun) 01:18:48

mixi(0-3)-6 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日14:43

はらぴょんさんの日記と、私の上の(長い)コメントを、「アレクセイの花園」(http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html)の方へ、「思考の代補」と題して、紹介させていただきました。
No.207 - 2007/05/13(Sun) 01:27:09

mixi(0-3)-5 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日 14:21

はらぴょんさんのご意見に触発された、いくつかの点について。

> 「つじつまあわせ」という言葉は、『闇に用いる力学[赤気篇]』にも出てくる重要なキーワードである。私は『闇に用いる力学[赤気篇]』に出てくる「つじつまあわせ」という言葉が、『匣の中の失楽』に出てくる「不連続線」と深いところで繋がっており、さらには人間の意識=魂が「ユーザー・イリュージョン」であるという考えと接点があると考えている。
>  つまり、人間の脳の中ではデジタル処理が為されており、認識の「不連続線」が発生するが、自己欺瞞の技術としての「つじつまあわせ」によって、「不連続線」が見えなくなり、隠蔽されるわけである。
(ここで、自己欺瞞の技術ということから、コリン・ウィルソンの新実存主義との接点を考えることも可能だろう。)

私が引っ掛かりを覚えるのは、「意識」が「つじつまあわせ」による「ユーザー・イリュージョン」だと考えるのなら、人間の意識を「不連続線以前の、デジタル的状態」と「不連続線以後の、意識化状態」とに分割する「不連続線」なるものもまた、「つじつまあわせ」による「ユーザー・イリュージョン」だとは言えまいか、ということです。つまり、そのような「線」や「点」は、「不可能なもの」としてしか存在しない。だとすれば、「意識」というものもまた「不可能なもの」として存在する、とも言えるのではないか、というようなことです。


>(2)キララは、日本の最先端テクノロジーとおたく文化の融合から生まれた。ミス・キャンベルは、日本のおたく文化について、多神教=アミニズム文化という観点から評価を与えている。ミス・キャンベルが批判するのは、西欧の一神教文化であり、そのなかにはキリスト教や資本主義も含まれている。そして、西欧の一神教文化へのアンチとしての精神世界至上主義をも、一神教文化のヴァリエーションとして否定する。
ミス・キャンベルの主張は、日本文化の全面肯定へと繋がるが(彼女の説は、中沢新一の『ポケットの中の野生〜ポケモンと子ども』を連想させる。)、多神教化の路線を現代思想のなかで考え直してみるとどうだろうか。一神教に対して、零神教化路線をとったモーリス・プランショ。一神教に対して、反・一神教路線をとったジョルジュ・バタイユ(彼は、過激な叛逆者のポーズを取りながら、叛逆者たるべく逆説的にキリスト教の価値体系を温存したのではなかろうか。その意味で、一神教のヴァリエーションというミス・キャンベルの皮肉は、バタイユに対してこそふさわしい)。そして、最後に一神教に対して、多神教路線をとったピエール・クロソウスキー。ともすれば、予定調和的な美しい国・日本に回帰しがちな多神教肯定論に対して、クロソウスキー路線もあることを強調せねばなない。
> (3)キララのモード・チェンジについて。昼間の意識と夜の意識の差異について。クララの状態の方が、推理力が増すというのは、興味深い。性的なエネルギーが、意識状態を開くということを暗示しているのだろうか。
> なお、昼/夜の対比は、『闇のなかの赤い馬』におけるミッション系スクールの尖塔/『ウロボロスの純正音律』における地下の対比とリンクしている。昼の意識は、サンボリックな秩序が支配する世界であり、夜の意識はカオスに満ちた欲動がうずまく世界である。
ここに多神教肯定論を導入すれば、多神教的世界こそ、この欲動の渦巻く世界に対して、抑圧の少ない世界ということになる。

この点については、うちの掲示板「アレクセイの花園」でも、いわゆる「後期クイーン的問題」として、ここのところ議論の対象となっています。
『西欧の一神教文化へのアンチとしての精神世界至上主義をも、一神教文化のヴァリエーション』というのがまさにそれで、エラリー・クイーンに象徴される「本格ミステリ」の「ロジック主義」とは、柄谷行人が『隠喩としての建築』で語った西欧における「建築的思考」の謂いであり、「最終根拠としての神」の代役としての「ロゴス中心主義=西欧理性主義」そのものなんですね。でも、そうした「ロゴス的理性」を根底で支える「幾何学」が、数学基礎論の世界で、ゲーデルによって否定されてしまう。つまり、エラリー・クイーンで言えば、「論理」を支える根拠の根拠という形で、最終根拠を問い詰めていくと、論理というものの「底が抜けている」という事実が明らかになってしまう。そこで、エラリー・クイーンは、その無底性に恐怖して、「ロジック」というものの背後に存在した、本尊としての「神」に、思わず平伏してしまったのではないか、――というような話です。つまり、「西欧理性主義=ロゴス中心主義」とは、所詮「唯一絶対神信仰」の「ヴァリエーション」であり「代補」でしかなかったという議論です。

で、うちの掲示板でも「私たち日本人に、はたして西欧人における唯一絶対神の重みが理解できるのか」という話から「日本人は八百万の神だからなあー」という話になり、そこでKeenさんから「しかし、八百万の神を有り難がる意識には、ご都合主義が働いているのではないか」という指摘がありました。つまり、『一神教に対して、多神教路線を』という行き方も、そう甘いものではなかろうということです。それは、多神教国家である日本の歴史を見てもあきらかでしょう。日本では、責任が上へ上へと登っていった果てに、最終責任者である「天皇」は無責任者であったという「逆向きの底抜け」が準備されていました。
絶対根拠としての唯一絶対神は「絶対に誤らない」という点において、実質的な拠り所にならず、責任はすべて個人へと送り返されます。逆に、『抑圧の少ない』、物わかりの良さそうな日本的多神教は、責任の所在をうやむやにして、だれも責任を取らないという「無底性」を露呈します。だから、多神教を、アンチ一神教として捉えるだけでは、ぜんぜん不十分なんですね。


> (3)キララのモード・チェンジについて。昼間の意識と夜の意識の差異について。クララの状態の方が、推理力が増すというのは、興味深い。性的なエネルギーが、意識状態を開くということを暗示しているのだろうか。

という点については、あちらでは下のような議論もなされており、関連があるように思われます。

> 特に素晴らしいのは『お茶しながら『幻影城』を読んでいて、ふと気付きました。』という部分にございます。つまり、これは「ためにする思考」ではなく、「ごく自然なかたちで、ほとんど無意識下での思考がなされている」証拠だからでございます(ユレイカ!)。こういう思考がなぜ素晴らしいのかと言えば、それは自意識が持ちがちな「はったり(ケレン)」の介入が無く、自然で真っ当な思考だからでございます。


つまり、意識的な理性が解除された状態においてこそ、むしろ「自然な理性」が機能するのではないか、というような仮説です。
No.206 - 2007/05/13(Sun) 01:26:15

mixi(0-3)-4 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日 13:16

『エロエロモード全開』ですか。でも、エロにはエロなりに、好みというものもありますし、竹本さんの好みと私の好みが合致するかは、なかなか微妙なところ。
事実、表紙画・挿絵を担当なさった安森然さんの絵は、うまいとは思うものの、好みとは言えませんからねえー。世間一般の傾向としても、「萌え」を喚起するには、ちょっと生々し過ぎるような……。
まあ、べつに竹本健治にエロを期待しているわけではないので、そっちは好みに合致していなくても構わないんですが(笑)。
No.205 - 2007/05/13(Sun) 01:25:22

mixi(0-3)-3 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月28日 12:38

いっそのこと、メイド服のコスプレ写真集と『萌える英単語もえたん』に挟んでレジに持ってゆくとか……コレデハ、対策ニナラナイデハナイカ(冷汗)。

まぁ、2章目からエロエロモード全開になりますから、表紙は内容と合致していますが。
No.204 - 2007/05/13(Sun) 01:24:19

mixi(0-3)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日 11:36

うーん、これは買う時に、かなり照れてしまう「装丁」だなあー。
これじゃあ、エロ本の方が、よほど買いやすいよ……。
No.203 - 2007/05/13(Sun) 01:21:54

mixi(0-3)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』 2007年01月28日 00:32

 キララが最先端のAI(人工知能)を搭載したアンドロイドだとすると、キララについて考えるということは、人間の精神の機能について、これを<外>に取り出し、対象化して考えるということだ。
 このような操作がなぜ必要かといえば、人間が人間の精神について考えるにあたって、さまざまなドクサがまとわりついているからである。
 キララについて、益子博士は「キララには魂はない」と言っている。「キララに魂を感じているのは君の主観だ」とも。
 キララが人間そっくりだとしたら、それは情報を取り入れ、これを処理し、外に出す過程が、人間に似ているからだ。
 つまり、キララについて考えることは、人間の精神をシミュレーションして考えることである。
 では、キララそっくりである我々人間には、魂はないということなのだろうか。作者が語っているのはキララについてだけであって、人間自身についてではない。だが、有力な仮説として成り立つことを暗に示しているのではないか。
 例えば、トール・ノーレットランダーシュの「ユーザー・イリュージョン」という考え方によれば、人間の意識とは「ユーザー・イリュージョン」であって、0.5秒のタイムラグのうちに脳のなかで意識という仮象が形成され、その上で意識に基ずく反応が為される。
 「ユーザー・イリュージョン」について、次のように考えるとわかりやすいだろう。今、私が操作しているパソコンのデスクトップには「ゴミ箱」があるが、これは本物の「ゴミ箱」ではなく、「ユーザー・イリュージョン」である。そこに「ゴミ箱」があるわけではないが、幾つかの機能を束ねて「ゴミ箱」と名づけることで、操作がし易くなる。
 トール・ノーレットランダーシュによると、意識という「ユーザー・イリュージョン」が形成されるのは、現実世界に生きるために我々が「つじつまあわせ」を行っているからであるという。
 「つじつまあわせ」という言葉は、『闇に用いる力学[赤気篇]』にも出てくる重要なキーワードである。私は『闇に用いる力学[赤気篇]』に出てくる「つじつまあわせ」という言葉が、『匣の中の失楽』に出てくる「不連続線」と深いところで繋がっており、さらには人間の意識=魂が「ユーザー・イリュージョン」であるという考えと接点があると考えている。
 つまり、人間の脳の中ではデジタル処理が為されており、認識の「不連続線」が発生するが、自己欺瞞の技術としての「つじつまあわせ」によって、「不連続線」が見えなくなり、隠蔽されるわけである。
(ここで、自己欺瞞の技術ということから、コリン・ウィルソンの新実存主義との接点を考えることも可能だろう。)

 それはさておき、『キララ、探偵す。』には、他にも考えるべきテーマが含まれている。
(1)ここで、キララのキャラクター設定は、男性にとって望まれる女性像である。つまり、客体としての女性像である。(そうであるがゆえに、萌えキャラとしてのメイド・スタイルとなっている。)この設定について、女性はどう思うのか。さらにいえば、フェミニズムとの関連で、どう評価されるのか。
(2)キララは、日本の最先端テクノロジーとおたく文化の融合から生まれた。ミス・キャンベルは、日本のおたく文化について、多神教=アミニズム文化という観点から評価を与えている。ミス・キャンベルが批判するのは、西欧の一神教文化であり、そのなかにはキリスト教や資本主義も含まれている。そして、西欧の一神教文化へのアンチとしての精神世界至上主義をも、一神教文化のヴァリエーションとして否定する。
ミス・キャンベルの主張は、日本文化の全面肯定へと繋がるが(彼女の説は、中沢新一の『ポケットの中の野生〜ポケモンと子ども』を連想させる。)、多神教化の路線を現代思想のなかで考え直してみるとどうだろうか。一神教に対して、零神教化路線をとったモーリス・プランショ。一神教に対して、反・一神教路線をとったジョルジュ・バタイユ(彼は、過激な叛逆者のポーズを取りながら、叛逆者たるべく逆説的にキリスト教の価値体系を温存したのではなかろうか。その意味で、一神教のヴァリエーションというミス・キャンベルの皮肉は、バタイユに対してこそふさわしい)。そして、最後に一神教に対して、多神教路線をとったピエール・クロソウスキー。ともすれば、予定調和的な美しい国・日本に回帰しがちな多神教肯定論に対して、クロソウスキー路線もあることを強調せねばなない。
(3)キララのモード・チェンジについて。昼間の意識と夜の意識の差異について。クララの状態の方が、推理力が増すというのは、興味深い。性的なエネルギーが、意識状態を開くということを暗示しているのだろうか。
なお、昼/夜の対比は、『闇のなかの赤い馬』におけるミッション系スクールの尖塔/『ウロボロスの純正音律』における地下の対比とリンクしている。昼の意識は、サンボリックな秩序が支配する世界であり、夜の意識はカオスに満ちた欲動がうずまく世界である。
ここに多神教肯定論を導入すれば、多神教的世界こそ、この欲動の渦巻く世界に対して、抑圧の少ない世界ということになる。
No.202 - 2007/05/13(Sun) 01:21:11
mixi(0-2) / ☆
アレクセイさんの日記 さかしまのオマージュ 2006年10月17日 23:40

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746
No.195 - 2007/05/12(Sat) 23:40:49

mixi(0-2)-5 / ☆
アレクセイさんのコメント 2006年10月19日 12:59

そうですね。笠井潔の失敗は、どうも自信「過剰」にあるようです。

私もそうですが、やりたいようにやる人間というのは、基本的に嫌われるのだという自覚が必要であり、その意味で「一匹狼」でやるのが一番いいんですね。

ところが、政治は一人では出来ません。なのに笠井潔は、体質的に向いてもいないのに政治を、やれると思っているところがダメだし、そのためにせっかくの才能まで、泥に塗れさせることになっていると思います。
No.200 - 2007/05/13(Sun) 01:09:22

mixi(0-2)-4 / ☆
lainさんのコメント 2006年10月18日 03:32

「くだけちった思い」という意味では今年の笠井を象徴するような面もありますね。敵を本格ミステリ界から消すためのノートがあれば、うまくいったんでしょうけどねー。
No.199 - 2007/05/12(Sat) 23:54:28

mixi(0-2)-3 / ☆
アレクセイさんのコメント 2006年10月18日 03:02

私が拙論で言いたかったのは、西尾維新が『アナザーノート』で書きたかったこともまた、やはり「くだけ散った想い」だとか「届かぬ夢」を生きざるを得ない者の「悲哀」なんじゃないかということですね。
で、そういう観点から、西尾維新は笠井潔を見てもいたのだろう、ということです。

「叙述トリック」に関しては、肯定するにしろ否定するにしろ、わかりきった問題であるだけに、それをどうこう言っても、さほど意味があるとは思えないんですね。
No.198 - 2007/05/12(Sat) 23:53:27

mixi(0-2)-2 / ☆
lainさんのコメント 2006年10月18日 02:36

愛憎半ばする、といったところですかね。あるいは惜別を込めていたのか。いずれにせよ、このノベライゼーションが西尾のきわめて周到な計算の上に作られていたことは疑いなく、作品世界を壊さずストレートなミステリにし、かつギミックまで仕掛けてきた西尾の力量を素直に賞賛すべきでしょう。笠井がらみはどうでもいいし、読者層を考えれば重厚なミステリにする必要なんかまるでないんだし。小学生に理解できる叙述トリックを仕掛けたことがまずえらい。
No.197 - 2007/05/12(Sat) 23:44:44

mixi(0-2)-1 / ☆
アレクセイさんの日記 さかしまのオマージュ 2006年10月17日 23:40

  さかしまのオマージュ
   ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論



                          アレクセイ(田中幸一)


(※ 本稿では『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』のネタを割っています。未読の方はご注意下さい)




 本作『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』(以下『アナザーノート』と記す)の冒頭には、笠井潔の推理小説『バイバイ、エンジェル』から、主人公の探偵矢吹駆の、次のようなセリフが掲げられている。


『「第三は、少し微妙な問題だ。事件が終局に達するまでのあいだ、僕はひとつの抽象的なまなざしに還元される。抽象的な目が、かりに僕という肉体を外套のように着けて歩いていると考えてもらいたい。そんな存在にたいして、なにか社会的な責任だとか人間的な反応だとか、そうした種類のものを期待しても無駄だ」』


 いかにも矢吹駆らしい(あるいは、笠井潔らしい)セリフだと言えるだろう。

 西尾維新の『アナザーノート』は、大場つぐみ(原作)・小畑健(作画)のマンガ『DEATH NOTE デスノート』(全12巻)のパスティーシュ小説であり、この原作の中で言及される過去の事件(藁人形殺人事件)を描いた「外伝」的作品である。
 原作マンガ『デスノート』と笠井潔の『バイバイ、エンジェル』との間には、基本的には何の関連もなく、笠井や『バイバイ、エンジェル』と関係するのは、パスティーシュ『アナザーノート』の作者である西尾維新である。
 そこでこう問うてみたい。――なぜ西尾維新は、『デスノート』へのオマージュ作品たる『アナザーノート』の冒頭に、『バイバイ、エンジェル』の引用を掲げたのであろうか。


 ミステリ界の事情に詳しいマニア的読者ならば、笠井潔が評論家として、近年、新本格ミステリ作家から、ライトノベル系若手作家へと評価の重点をシフトし、若者にカリスマ的な人気を誇る美少女ゲーム作家TYPE-MOONが「奈須きのこ」名義で作家デビューを果たした伝奇小説『空の境界』(講談社ノベルス)に、上下2巻にわたる破格の長編解説を寄せ、奈須きのこのデビューをバックアップしたという事実(「空虚に巣食う魔―― 笠井潔と『空の境界』」参照・http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_nasu.html)や、西尾維新・佐藤友哉・舞城王太郎などライトノベルの洗礼を受けた若手ミステリ作家を絶賛し、従来の「本格ミステリ」から逸脱しがちな彼らの世代的個性に否定的な従来の本格ミステリ作家を、「本格原理主義者」と呼んで批判した事実も知っているかも知れない。

 そのようなわけで、西尾維新が、自分たち若手作家の「擁護者」を任じ、高い評価を与えてくれる評論家笠井潔を、その意味において「好意的に見ている」という可能性はあろう。また、笠井の作家デビュー作である『バイバイ、エンジェル』に始まる本格ミステリ「矢吹駆シリーズ」は、少なくとも『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』を含む「初期3部作」として、すでに評価の定まった古典的傑作であるから、その点で、先輩小説家である笠井潔に尊敬の念をもっていたとしても、なんの不思議もないのである。

 しかしながら、笠井潔はたいへん癖のつよい人物であり、笠井の言動には常に「文壇政治」色がつきまとうため、そこが反感を招くことも珍しくはない。斯く言う私自身、もともとは笠井潔の熱心なファンであったが、いつしか笠井の現実に失望し、可愛さ余って憎さ百倍で「笠井潔葬送派」を名乗り、十数年にわかって笠井を批判しつづけることになってしまった。――まあ、私個人のことは置くとして、ミステリ界において、笠井潔への反発を最初に明確にしたのは、舞城王太郎であった。舞城は、清涼院流水の「JDCシリーズ」のパステーシュでありオマージュ作品である『九十九十九』(講談社ノベルス)で、笠井潔の「大量死と本格ミステリ」論を名指しで批判した。この背景には、西尾維新・佐藤友哉・舞城王太郎ら、ライトノベル系ミステリ作家の「源流」となった清涼院流水への、笠井潔による全否定的評価があったと見てよい。いまでこそ「ライトノベル系ミステリ」を『脱格系』ミステリと名づけて高く評価している笠井も、清涼院流水のデビュー当時には、他の本格ミステリ作家と共に、いや、その先陣に立って「清涼院流水バッシング」を行っていたのである。
 しかし、後に笠井潔は、西尾維新・佐藤友哉・舞城王太郎などの「ライトノベル系ミステリ=脱格系ミステリ」が広く人気を集め、高く評価されるようになると、それへの高評価にあわせて、清涼院流水への評価を修正してみせた(『探偵小説と記号的人間』)。しかし、このような態度が、はたして「ライトノベル系ミステリ=脱格系ミステリ」作家たちの目に、どのように映ったであろう。「三島由紀夫賞」の授賞式にも代理人を立てて姿を見せなかった舞城王太郎を別にすれば、彼らは今時の若者らしく、露骨に本音を語って「ことを荒立てる」ようなことは好まない。乙一の「あとがき」芸に典型的に示されるとおり、彼らは巧みな保身的「韜晦」術を身につけているのである。

 したがって、西尾維新の笠井潔への思いも、一筋縄ではいかない。何を隠そう、西尾維新もまた清涼院流水ファンで、舞城の『九十九十九』よりも先に、「JDCシリーズ」のパステーシュでありオマージュ作品である『ダブルダウン勘繰郎』(講談社ノベルス)を書いているのだ。当然、西尾維新は、笠井潔による清涼院流水批判の事情も、ほぼ同期と呼んでよい舞城王太郎による笠井潔批判も、大筋で承知しているはずなのである。――では、西尾維新はどのような思いで、本作『アナザーノート』の冒頭に笠井潔の『バイバイ、エンジェル』からの引用を置いたのであろうか。少なくとも、単純な「笠井潔」讃嘆の意図だけであったとは思えない。そうした観点から見ていくと、本作は一般に理解されているところとはすこし違った相貌を、私たちに覗かせ始めるのである。


                  ○


 原作のファンが、『アナザーノート』の冒頭に掲げられた「矢吹駆のセリフ」を読んだ場合、それは原作に登場する名探偵Lの立場を代弁するものだと理解するだろう。Lは、基本的には、自分の足で事件を捜査する探偵ではなく、現場に姿を現さない探偵、捜査機関を指揮して事件を解決する「バックシートドライバー」型の「安楽椅子探偵」の変種なのである(もちろん、原作『デスノート』で描かれる「キラ事件」では、この原則が崩され、結果としてLは死ぬことになる)。
 本作『アナザーノート』でも、Lはその原則を守り、FBI捜査官南空ナオミを指揮して(前面に立てて)「ロサンゼルスBB連続殺人事件」の捜査にあたる。――だから、本作の冒頭に笠井潔からの引用がある理由は、それが「たまたま内容的に重なったから」だと考えることも充分に可能であろう。しかし、それだけならば、わざわざ笠井潔の『バイバイ、エンジェル』である必要はない、とも言える。やはり、この起用には、作者西尾維新の、笠井潔なり『バイバイ、エンジェル』なりへの、何らかの「思い」があったと見るのが、自然なのではなかろうか。


 『バイバイ、エンジェル』からの引用をもって、そこに西尾維新の笠井潔および『バイバイ、エンジェル』への「好意」を読み取るというのは、しごく当然なことである。しかし、『アナザーノート』の作中には、それを裏切るような記述が存在してもいる。


『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(P48)


 日本のミステリ史に詳しい人ならば『探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。』というセリフが、笠井潔を揶揄するものであることに、すぐに気づくはずだ。
 本来「探偵小説」という言葉は、いったんは死んだ「古い」言葉なのだ。その昔、つまり戦前までは「探偵小説」という言葉が、今で言う「ミステリ」を指す一般的な用語だったのだが、松本清張に始まる「社会派ミステリ」のブームが巻き起こると、「(名)探偵」というアナクロ(時代錯誤)で古くさいイメージのつきまとう言葉を冠した「探偵小説」という用語は、いつしか「推理小説」という言葉にとって替わられてしまった。しかし、「社会派ミステリ」の凋落と「新本格ミステリ」ブームによる「古きよきミステリ」の再評価の気運に乗って、「探偵小説」という古い用語を復活させたのが、笠井潔その人なのである。

 それは、笠井潔がリーダーシップをとって組織したミステリ評論家集団「探偵小説研究会」の名称にも、ハッキリと刻印されている。この集団は、建前上は「全員平等」ということになっているが、この集団が、笠井潔・法月綸太郎・巽昌章と、この3人を選考委員とした「〈創元推理〉評論賞」の受賞者を中心に組織されたという創立経緯を知っておれば、「建て前」と「実質」の違いは自ずと明らかになろう。
 実際、「探偵小説研究会」のメンバーで、それ以前に「探偵小説」という「古い用語」をつかっていた者は、ほとんどいない。巽昌章は終始「推理小説」と慣用しているし、法月綸太郎は「ミステリ」「本格ミステリ」を常用している。つまり、ほとんど使う者がいなかった「探偵小説」という言葉を、集団の名称に掲げえたという事実が、笠井潔の特権性を、明白に証し立てているのである。


『 ここで、用語の不統一について、お断りしておきます。笠井さんは「探偵小説」とお呼びですが、私は「推理小説」を慣用しています。今回の意見交換については、この点、とりたてて指示する対象が異なっているわけでもないので、私の方はやはり「推理小説」を使うことにいたします。』

(『探偵小説と記号的人間』所収「本格ミステリ往復書簡」より、巽昌章の言葉・P246)


 ともあれ、『今時の』ミステリ業界で「探偵小説」という言葉を積極的につかっている人物といえば、笠井潔をおいて他にはいない。したがって、「探偵小説」という用語を復活させ、再び一般化せしめようと考えた笠井の立場からすれば、『探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。』などという言い方は、笠井の業績を否定する、真っ向からの批判だと言えるのである。

 また『探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。』という言葉には、明らかに清涼院流水の「JDCシリーズ」の主人公、名探偵九十九十九の存在が意識されている。
 清涼院流水の「JDCシリーズ」に登場する、多数の名探偵の特徴は、それまでの名探偵のような「論理的な謎解き」はせず、超能力的・必殺業的な「推理」で、いきなり真相に到ってしまう点である(その意味では京極夏彦の「京極堂シリーズ」に登場する「名探偵」榎木津礼二郎も意識されているだろうが、清涼院流水の「JDCシリーズ」とは違い「京極堂シリーズ」の方には、論理的な謎解きをする探偵役の主人公が、べつに存在しており、本作『アナザーノート』の記述者であるメロの意見が、そのまま通る作品だとは言えない)。
 多くの「本格ミステリ」作家たちが、清涼院流水の登場に違和感と反発を覚えたのも、この「論理的解明」が無いという点にあった。従来、名探偵の登場する「本格ミステリ」とは「論理(ロジック)」が命であり、そこに「謎の詩美性」だの「トリックの斬新性」だの「登場人物の魅力」だのが「付け加わえられ(総合され)る」形で書かれるものだという了解があった。ところが、清涼院流水の作品からは「本格ミステリの核」とも言うべき「論理(ロジック)」が捨て去られていたため、先輩「本格ミステリ作家」たちは「いくら名探偵が登場したって、いくら密室殺人が起ったって、論理的な謎解きのない作品を、本格ミステリの範疇に入れるわけにはいかない。あれは、本格ミステリもどきのキャラクター小説である」と反発的な評価を下したのである。

 前述のとおり、笠井潔による清涼院流水評価も、当初はこれとまったく同種のものであった。しかし、後には清涼院流水を「脱格系」ミステリの先行者として肯定的に評価しようとする文脈から、「論理(ロジック)の放棄を批判するよりも、記号的人間に込められた新しさを評価すべきである」との立場に移行した。しかしまた、この意見は「論理(ロジック)の放棄」を積極的に肯定するものではなかったので、笠井潔も、清涼院を含む「脱格系」ミステリの作家たちに、「謎―論理的解明」という「本格ミステリ」の基本軸の充実を期待する、としたのである。


『もともと近代小説の臨界点に出現した探偵小説だから、清涼院という個性を引き寄せたのだろう。「謎―論理的解明」をめぐる形式的支柱さえ省いてしまえば、探偵小説は無限に流水大説を産出できる。「大きな非物語」の沃土に変貌する。自覚的にか無自覚的にか、探偵小説様式をデータベース化するために、清涼院は探偵小説形式を解体した。』(『探偵小説と記号的人間』P235)


『二〇世紀小説=探偵小説の最終形態としての第三の波(※ 新本格)は、二一世紀的な脱格系を生みだすために存在した、と評価するジャンル外の立場もありうるだろう。しかし、それに同ずるわけにはいかない。深いところでジャンルXや脱格系と二一世紀的な時代精神を共有しながら、しかも「謎―論理的解明」の骨子において探偵小説以外のなにものでもない作品が登場することを期待しよう。』(前同書 P236)


 つまり、『探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。』という意見は、笠井潔の意見を否定して、清涼院流水的な作風を全面肯定するものであるから、この言葉も、笠井にとっては、充分に挑発的なものになっていると言えるのだ。

 しかしながら、『探偵は推理なんかせずに(…)』という言葉は、作者自身の言葉ではなく、Lの崇拝者であり「アナザーノート」の記述者(非・作者)である、作中人物メロのものである。だから、この言葉をそのまま作者の考えの表明だとするわけにはいかないのだが、――それでも笠井潔に対して、充分に挑発的な記述であるという事実に変わりはない。
 ともあれ、西尾維新が笠井潔に対し、どのような感情を抱いているのか。これは一筋縄ではいかない問題だということになるのである。

(※ ちなみに、その後の『容疑者Xの献身』問題において、有栖川有栖などから批判された笠井潔が、新本格ミステリ作家との決別を宣言したこともあって、笠井がいつまで「謎―論理的解明」という「本格ミステリ」の基本軸にこだわり続けるかは、いささか疑わしくなってきた)


                  ○


 さて、そろそろ『アナザーノート』そのものの分析に移ろう。

 本作は、一般にどのような作品だと評価されているだろうか。原作『デスノート』のファンとして「楽しく読んだ」とか、西尾維新ファンとして「西尾維新小説として楽しめた」とかいった意見を別にすれば、かなり多くの読者の語った典型的な評価は「メイントリックが、原作漫画ファンには通用しても、ミステリマニアには通用しない、あまりにも有名なものだった」という評価であろう。つまり「ミステリとしては、あまり高く評価できない」という評価である。――しかし、これで済ませてしまって、果たしてこの作品を評価したことになるのだろうか? この作品は、原作の世界(設定)を下敷きに、ミステリの世界ではあまりにも有名なトリックをそのまま使って、原作ファンであり尚且ミステリ初心者の読者向けて書かれた「軽い作品」だと評価して、それで充分だと言えるのであろうか?

 もちろん、私はそうは思わない。作者西尾維新が書きたかったのは、そんな半端な推理小説ではなく、もっと「人間的な小説」だったと考える。

 西尾維新は「あとがき」で、


『当初の予定ではこのノベライゼーション、サブタイトルを『Lにメロメロ!』にしようと思っていたのですが、現場の空気が思ったより真面目だったのでやめました。』


と、冗談めかして書いている。
 だが、『アナザーノート』に描かれたL像を見れば、『Lにメロメロ!』という表現も、あながち大げさなものではなかったことがわかる。


『「犯人が知り合いでも、関係ありませんか?」
 それは。
 南空ナオミにとって、(※ 犯罪者として生きるしかなかった)子供相手に引き金が引けるか――という問いかけにも似ていた。
「関係ありません」
と、Lは言った。
「正確に言えば、Bは私の知り合いではなくただ単に知っている人間だというだけですが――だからと言って私の推理が鈍るというようなことはありません。確かに、私がこの事件に興味を持ち、この捜査に乗り出したのは、最初から犯人を知っていたからです。しかしそれが、私の捜査方針に影響を与えるということはありません。南空ナオミさん、私は、悪というものが許せないんですよ。許せないんです。だから、知り合いだろうがなんだろうが、関係ありません。私が興味があるのは、正義だけですから」
「正義だけ」
 南空は、その返事に、息を呑む。
「じゃあ……それじゃあ、Lは、正義以外は、どうでもいいというんですか?」
「そうはいいませんが、優先順位は低いです」
「悪はどんなものでも、許せないんですか?」
「そうはいいませんが、優先順位は低いです」
「でも――」
 十三歳の被害者のように、
「正義で救えない人達も、たくさんいます」
 十三歳の加害者のように、
「悪で救われる人達も、たくさんいます」
「いますね。しかし、それでもなお」
 Lは、まるで口調を変えないままで言う。
 南空ナオミを、ゆっくりと諭すように。
「正義は他の何よりも、力を持っています」
「力? 力っていうのは、強さですか?」
「違います。優しさです。」
 あまりにもあっけないその口振りに。
 南空は、電話を取り落としそうになった。
 L。
 世紀の名探偵、L。
 正義の名探偵、L。
 ありとあらゆる難事件を解決してきた――
「……あなたのことを誤解していたようです、L」
「そうですか。誤解が解けて何よりです」
「捜査に戻ります」
「はい。では」』(P142〜143)


 じつにカッコいいLである。原作では、ここまでカッコよく描かれてはいなかった。――しかし、Lが原作以上にカッコよく描かれているという点に、『アナザーノート』評価のポイントがあったのである。


     (※ ネタを割ります。ご注意下さい。)


 『アナザーノート』のメイントリックとは、「叙述トリック」である。アガサ・クリスティーが某作で編み出し、ジョン・ディクスン・カーの某作、綾辻行人の諸作、折原一の諸作、貫井徳郎の某作、歌野晶午の某作などなど現在にいたるまで多数の作例があり、高度に発展してきた読者欺瞞の技法である。

 要は、作中「竜崎」を名乗って登場する人物が、その名前や容貌や行動の「描写」から「じつはLその人なんだろう」と読者に誤認させる欺瞞が仕掛けられるのだが(したがって、原作を読んでいない読者には効果がない)、じつはこの人物は、Lに憧れ、Lを継ぐという夢を果たせなかった絶望から、狂気の連続殺人犯になってしまった、「藁人形殺人事件=ロサンゼルスBB連続殺人事件」の犯人BB(ビヨンド・バースディ)であったいう衝撃に事実が、終盤に明かされるのである。つまり「探偵」だと思って読んでいたら、じつはその人物こそが「犯人」だったというトリック。Lの特徴(容姿・言動)を「文章で表現する」ことで逆手にとった「叙述トリック」なのである。

 クリスティー以下の諸作に親しんできたミステリファンの目からすれば、『アナザーノート』のトリック(主人公の探偵だと思われていた人物が、じつはべつの人物であり、犯人であった)は、わりあい叙述トリックとしてはストレートなものであり、たとえ引っ掛けられたとしても、種を明かされれば「なんだそのパターンか。あんまりシンプルすぎて、かえって騙されてしまった」などと思ってしまうくらいに、斬新さに欠けるものであった。しかも、この「メイントリック」には、決定的な難点があった。すなわち、冒頭ちかくに置かれた、


『あれ(※ ロサンゼルスBB連続殺人事件)こそ、Lが初めて竜崎と名乗った事件なのだから。』(P10)


というメイントリックの伏線となる文章の「不備」である。

 メイントリックの種明かし後にハッキリするのだが、『Lが初めて竜崎と名乗った』のは「ロサンゼルスBB連続殺人事件」の終結後であり、おのずと『Lが初めて竜崎と名乗った事件』とは、それ「以降の事件」ということになる。
 したがって、「あれこそ、Lが竜崎と名乗る切っ掛けとなった事件なのだから。」と書けば、まんざら「嘘」にはならなかったのだが、原文のままでは、叙述トリックの文章として「致命的な難点」があったと言わざるを得ない。まただからこそ、この「メイントリック」に注目する読者は、おおむね本作をさほど高くは評価しなかったのである。


 しかし、繰り返して言うが、本作『アナザーノート』は、決してそれだけの作品ではない。作者西尾維新が「あとがき」で『サブタイトルを『Lにメロメロ!』にしようと思っていた』と書いていたとおり、じつは本作のテーマは、『Lにメロメロ!』になったが故の「Bの悲劇」を描くところにあったのだ。
 『Lにメロメロ!』というのは、作者西尾維新本人のことではなく、犯人B(BB=ビヨンド・バースディ)のことだったのである。


 さて、先にもすこし触れておいたが、「藁人形殺人事件=ロサンゼルスBB連続殺人事件」の犯人Bは、ニアやメロと同様「Lを継ぐ者」の候補者の一人として育てられ、B自身、Lに憧れ、Lを継ぐという夢を追い求めて、挫折し夢やぶれた人物である。そんな彼が、Lになれなかったという絶望の乗り越えるために見つけた「生きる目的」とは、Lにも解けない完全犯罪の達成であった。
 「解けない謎」は、当然のことながら、生涯Lの心を捉え続けるだろう。つまり、自分の作り上げた「謎」がLの心を捉えつづけるということは、彼にとっては「Lとの勝負に勝つ」ということと同時に「Lの気持ち(注目)を、ずっと自分に惹きつけておける」ということを意味したのである。

 そして、そんな彼が構想した完全犯罪とは、最後に犯人である彼自身が、被害者として犯人に殺されてしまうという連続殺人事件であった。
 つまり、この犯罪の動機は「Lには解けない完全犯罪の構築」という極個人的に特殊なものであり、しかも最終的には犯人自身が「犯人に殺された」という自作自演の自殺を敢行することにより、犯人はこの世に存在しなくなってしまう。したがって、犯人の逮捕は不可能となり、密室殺人に見せかけた最後の「自殺」によって、それまでの3つの密室殺人(他殺)の謎も、永遠に解けなくなってしまう。これらを4つの事件を、連続した(同種の)密室殺人事件だと考えるかぎり、この密室トリックは解読不能になってしまうよう、じつに巧みに構成されていたのである。

 しかしながら、密室殺人の謎は、最後の最後で南空ナオミによって解読され、自らに火を放ったBBは重傷を負いながらも、生きたまま逮捕されてしまう。

 ――この結末を、記述者メロは次のように綴る。


『 実際のところ、Lがことの真相をどの時点でどこまで把握していたかというのは今となっては永遠の謎だ。最初からわかった上で南空を動かしていたのかもしれないし、最後まで何もわからず南空に助けられたのかもしれない。どうとでも考えられそうなところではあるが、まあ、そんな野暮なことを考えるのはよそう。Lはそんな低レベルな次元で語れるような存在ではない。はっきりしていることが一つあれば、それでいい。
 Bは南空ナオミに負けた。
 即ち、Lにも負けた。』(P163〜164)


 メロが言うとおり、たしかに『Lがことの真相をどの時点でどこまで把握していたかというのは今となっては永遠の謎』である。しかし、Lが、Bやメロ自身も含む後継候補者の誰も遠く及ばない、およそ桁違いの天才であるとするならば、Lがことの真相を見抜いたのは、第三の殺人が発生して、この連続殺人事件の犯人が、Lの後継者育成機関の出身者であるという点に注目した直後だったと考えるのが、妥当なのではないだろうか。
 Lは、南空が「密室の謎」を解く以前に、南空に「あらゆる手段を使って――この事件の犯人を捕まえて下さい」と指示しているが、この言葉を穿って読めば「自殺させないで、生きて捕まえてください」と読めないこともない。犯人に死なれては、たとえ犯人が特定できたとしても「捕まえる」ことはできないし、死なれてしまうことは、BがBの主観において「完全犯罪を成立させてしまう」ことにもなるからである。

 もちろん、Lはそのようなことを許しはしない。たとえ、Bの犯行が、Lへの歪んだ愛情に発するものだとしても、3人もの罪もない人の命を奪った以上、Bはその罪を生きて購わなくてはならないからである。
 そして、Bを一連の殺人事件の犯人として逮捕する唯一のタイミングが、Bが第4の事件を敢行する、その瞬間だった。だからこそ、Lは、Bと思しき「神崎ルエ」を名乗る探偵に南空ナオミを張りつかせ、最後の最後で南空が「密室の謎」を解いて、Bの野望を完膚なきまでに叩きつぶすことに期待した……というよりも、南空の能力を適切に評価して、そのような事件解決までの流れを「読んでいた」のであろう。

 つまり、所詮Bは、Lの手のひらの上で踊っていたにすぎない。南空による逮捕は、それがLの代理人でしかないだけに、Bの歪んだプライドを完膚なきまでに叩きつぶしたことだろう。LのBに対する処遇は、徹底的に残酷であったと言えるかもしれない。

 しかし、LはBに対して、本当に残酷だったのだろうか?

 ――そんなことない。事実、Lは本件「ロサンゼルスBB連続殺人事件」の後、仮名として「神崎」を使用するようになった。


『 南空ナオミは――そんな風に、青年に名前を訊く。
 青年は、それを受けて。
 答えた。
「竜崎と呼んで下さい」
 飄々とした口調だったけれど。
 それは、誰かを偲ぶような名乗りだったと言う。』(P168)


 Lにとって「正義」は、最優先事項だった。それがすべてではないけれど、それが最も大切なものだった。だから、LはBに対しても容赦はなかった。Bは逮捕され、罪を購わなければならなかった。たとえBの犯罪が「それ無くして生きられない(止むに止まれぬ)もの」であったとしても、である。Lにとって「正義」とは、「力」であり「優しさ」であったからこそ、それはBのためにも貫徹されないわけにはいかなかったのだ。

 だから、こう考えてみてはどうだろうか。
 Lは、全力で挑戦してきたBを、代理人によって退けた。これは、L自らが直接手を下すまでもない挑戦だという意思表示であり、事実、Bは、Lの代理人である南空ナオミに敗れてしまった。これはとても残酷な処遇だと言えよう。
 ――しかし、南空に逮捕された時、はたしてBはどう考えただろうか。結局はLの足下にもおよび得なかったことに歯噛みする思いだっただろうか? 私はそうは思わない。心の底からLに憧れていたBであればこそ、彼がどんなに努力しても、爪痕ひとつ残すことのできない高みにLがいるという「Lの完璧性」を、自分が自分の手であらためて証明できたという事実は、Lのナンバーワンファンを自認するであろうBにとって、むしろ「喜び」だったのではないだろうか。「やっぱり、俺のLは完璧だ……」――南空に手錠をかけられた時のBの思いは、むしろそうしたものだったのではなかったろうか。

 だからこそ、Lの「優しさ」も、そこにあった。Bに対して「圧倒的な力量の差を見せつける」ことが、その「残酷さ」が、何よりもBの期待に沿うことであり、Bへの何よりの贈り物だと知っていたからこそ、LはBの期待どおり「歯牙にもかけない」対応を、最後の最後まで演じ切ったのではないだろうか。


                  ○


 さて、ここで話を『アナザーノート』の冒頭に掲げられた『バイバイ、エンジェル』の一節の意味へと差し戻そう。なぜ、あるいは、どのような感情を持って、作者西尾維新は、笠井潔のそれを、作品の冒頭に掲げて見せたのであろうか?

 ここでヒントとなるのが、笠井潔による次のような分析である。
 笠井は、西尾維新の『クビシメロマンチスト』に登場する巫女子というキャラクターの特異性を、次のように論じている。


『 しかし西尾はまた、『クビシメロマンチスト』の巫女子のような特異なキャラクターを創造してもいる。脱格系では佐藤友哉『水没ピアノ』の伽耶子も同様だ。(中略)彼女たちは萌え要素の束以外のなにものでもないのに、どうしてか哀切なものを喚起させる。人間的な要素を残しているぶん、萌えキャラとして不徹底だから哀切さを感じさせるのではない。それは、萌えキャラの徹底化の果てに出現する謎めいたなにかという以外ない。
 巫女子には人間的な内面性が皆無だ。したがって人間的な欲望も欠いている。巫女子が片思いの相手に抱くのは、必要と充足が直結する動物的な欲望にすぎない。動物が食物を必要とするように、「彼」が必要だから単純に邪魔者を排除した巫女子なのに、結末では、自殺という「人間」的な場所に追いやられてしまう。繰り返すが、巫女子のキャラ性が不徹底だから、最後に人間性に目覚めて自殺するのではない。動物以上でも以下でもないのに、どうしてか巫女子は「必要―充足」という円環的な回路の外に逸脱してしまうのだ。』

                (『探偵小説と記号的人間』P235〜236)


 勘のよい読者なら気づいたことであろう。
 そう。『アナザーノート』のBは、『クビシメロマンチスト』の巫女子と同型のキャラクターなのである。その「愛のゆえ」に犯罪を犯し、自死して果てる、あるいは自死しようとする「痛ましい犯罪者」。
 さらに、Bの注目すべき特性は、探偵Lとの「双生児」性にある。

 「双生児」「自殺」とならべれば、『アナザーノート』がいかに『バイバイ、エンジェル』に似ているかに、気づく読者もいるはずだ。
 『バイバイ、エンジェル』の犯人は、名探偵矢吹駆をして「双生児」と呼ばしめるほどの人物だった。その人物は、世界への徹底した憎悪の感情において、かつての矢吹駆(あるいは、笠井潔)その人にそっくりだったのである。だから、ラストにおける、犯人であるその人物との直接対決において、矢吹駆は犯人が彼を毒殺しようとして用意した毒杯をすりかえ、犯人を殺害してしまう。しかし、もしかすると犯人の死は、世界への憎悪の故に自身に歯止めが利かなくなった犯人が、同類として尊敬しうる矢吹駆の助けを借りることで「自殺」したと理解することも可能だろうし、矢吹駆としてもその犯人を「もうひとりの自分」とまで思えるからこそ、犯人の「自殺」を幇助したとも言えるのではないだろうか。その意味では、犯人の「自殺」は、探偵矢吹駆の「過去の自身」を葬送する「自殺」だったと理解することも可能なのである。

 『バイバイ、エンジェル』のこうしたラストシーンと比較すると、『アナザーノート』のラストは、見事に転倒した形で「逆しまに対応」している。犯人は「偽の双生児」であり、「自殺」は探偵によって妨害される。『バイバイ、エンジェル』のラストでは、探偵の犯人への思いが強く印象を残すが、『アナザーノート』の実質的ラストである犯人B逮捕の場面では、B(犯人)のL(探偵)への思いの深さが強く印象を残す、という具合である。

 つまり、西尾維新の『アナザーノート』は、ある意味で『バイバイ、エンジェル』へのオマージュ作品だったとも言えるのである。だからこそ、作品の冒頭に『バイバイ、エンジェル』の一節が掲げられた。

 しかし、そのオマージュは「逆しま」の、どこか「歪んだ」オマージュであった。だからこそ作中には、笠井潔批判としか思えない文言が書きつけられる結果となったのであろう。

 なぜ『アナザーノート』の冒頭に『バイバイ、エンジェル』の一節が掲げられたのかと言えば、それは「愛憎」と「肯定・否定」の絡まりあった感情を、作者西尾維新が、笠井潔に、そして『バイバイ、エンジェル』に持っていたからであろう。そして、穿って言うならば、その複雑な感情を精算するものとして、『アナザーノート』は『バイバイ、エンジェル』と笠井潔に捧げられたのではないだろうか。

 私自身がそうであったように、西尾維新にとっても憧れの的であったろう『バイバイ、エンジェル』の頃の「今は亡き笠井潔」の思い出に捧げられたのが、『アナザーノート』だったのではないだろうか。
 Lは最後までBの期待に応えた「完璧なカリスマ」であったけれど、現身の笠井潔は今や「堕ちた偶像」である。だからこそ、西尾維新は笠井潔にこの『アナザーノート』を捧げた。「貴方にも、Lのように完璧であってほしかった」という思いを込めて、この『アナザーノート』は、笠井潔への「決別の書」として捧げられたのではなかったろうか。



  2006年10月17日


 初出: BBS「アレクセイの花園」 2006年10月17日
     (http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

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【関連論文】

・ 「笠井潔葬送派:笠井批判論文集」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=200283859&owner_id=856746


・ 「二つの「正義」 ――『デスノート』私論」2006年3月24日
  (http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=856746&id=399680

・ 「『デスノート』の自死」2006年7月18日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=178132664&owner_id=856746
  (http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=856746&id=512453
No.196 - 2007/05/12(Sat) 23:42:20
mixi(0-1) / ☆
アレクセイさんの日記 『狂い咲く薔薇を君に』を読む 2006年04月26日 00:44

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=123885033&owner_id=856746
No.192 - 2007/05/12(Sat) 23:36:13

mixi(0-1)-2 / ☆
lainさんのコメント 2006年4月26日 01:01

そういえば、まだ買っていなかったなと気がつきました。チェックせねばー。
No.194 - 2007/05/12(Sat) 23:39:30

mixi(0-1)-1 / ☆
アレクセイさんの日記 『狂い咲く薔薇を君に』を読む 2006年04月26日 00:44

  「お約束」的世界からの逸脱
     ――竹本健治『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』を読む



                         アレクセイ(田中幸一)


 雑誌掲載時の評判からして、「異色作」「問題作」と呼ばれるような種類の作品ではなかろうと予想し、過大な期待は寄せずに読んでみました。案の定、善かれ悪しかれ「本格ミステリの佳品」という感じの、こじんまりとまとまった連作短編集でした。
 「あとがき」に、

『いずれにせよ、この連作短編にいつもの僕と違ったテイストがあるならば(実際、そんなにないと思うのだが)、それはこういう経緯を辿ったせいであることを明言しておこう。』

と書かれているとおり、本書は、竹本健治の親友であった、故 東海洋士が中心となり、そこへ竹本健治・千街晶之・福井健太の3人が加わって、共同で練り上げられ(後に企画のポシャっ)た「マンガ原作」を下敷きにしています。そのため、竹本健治的な「歪み」や「(本格ミステリ的形式からの)逸脱」は少なく、カバー背面に刷られた『痛快学園本格ミステリ決定版!!』という紹介文の枠内に収まる作品となっています。
 その意味では、竹本の言うとおり、全体としては『いつもの僕と違ったテイスト』が積極的に「ある」とか「多い」と言うわけではなく、逆に「いつものテイスト」たる竹本健治的な「歪み」や「逸脱」を期待する私には、そうした本来のテイストの「不在=不足」こそが物足りなく感じられて、「こんなミステリなら、竹本健治じゃなくても書ける」と思ったのは、偽らざるところなのでした。


 ただ、竹本健治的な「いつものテイスト」がまったく存在しないのかと言えば、そうとまでは言えない。本作においても、「作中世界の虚構性」に対する「作者(=竹本健治)の醒めた目」を、私は作品のそこここに感じずにはいられませんでした。例えば、


 「そう言えば、おたくの学校では、つい先月も事故がありましたね」
                     (「騒がしい密室」P28)

 「えらい事故を! ああ、またしても何たる不祥事! さっき矢を射
 た役は誰じゃ!」         (「狂い咲く薔薇を君に」P97)

 「それにしても、ここのところ立て続けですよね。これまでずっと平
 和な学校だったのに、いったいどうしちゃったんだろう」
 「本当よね。しかも事件がだんだん派手になってきてるじゃない。教
 頭先生もさぞかし頭が――」     (「遅れてきた屍体」P165)


と、見てのとおり、収録の3篇には3篇とも「おなじ学校内で短期間に、重大事件が脈略のなく発生する、不自然さ」への言及が、それとなくなされています。
 もちろん、こういうのは「シリーズもの」における、ある種の「お約束」なのですが、それが「フィクションゆえのお約束」であればこそ、普通であれば「作中人物」がその「不自然さ」に言及することはなく、むしろそこには「禁忌」として触れないというのが、普通なのです。それなのに、その「不文律」をあえて犯しているところに、作者竹本健治の意識的な「メタ的視点の導入」を見るのは、決して無理のあることではないはずです。

 実際、本書では、こうした「フィクション的な不自然さに対する隠蔽工作」とも呼ぶべきレトリックが、ほとんど確信犯的に放棄されているように見えます。例えば、同級生が殺され、その死体がまだ傍に転がっている現場においてなされる学生たちの会話は、およそ「リアリティー」というものが感じられないほどに「軽い」。また、主人公の津島海人が、牧場智久に事の経緯を説明する部分では、


 「それはそうと、君のほうもどうしてここに?」
 「あのう、それはかくかくしかじか」
 「類ちゃんが潜入を命令? 本当? よっぽどご機嫌斜めだったのかな」

                     (「遅れてきた屍体」P230)


と、作中人物のセリフのなかで、「小説文法からの逸脱」的な「省略」がなされます。

 むろんこれらが、凡百の作家においてなされたものであれば、単なる「無神経」だと理解することも可能なのですが、作品に「メタ」的視点を導入するのが常態だと言ってもよい竹本健治の場合、そのような無神経さは、ほとんど考えられないことなのです。そして、そうだとすれば、これらは故意になされた「不自然な描写」だと理解する方が、むしろ自然だと言えるはずです。

 しかし、結局のところ、本書の中では、この「不自然さ」の説明はなされません。つまり、本書を読むかぎりにおいて、この「不自然さ」は読み流されて良いものとして扱われている。単なる『痛快学園本格ミステリ決定版!!』と読まれてもかまわない作品として、本書は書かれているんですね。
 しかしながら、それでは、作者竹本健治には、この「伏線」を回収するつもりが無いのかと言えば、必ずしもそうとまでは言えません。例えば、竹本は「あとがき」に、


『 東海が初め考えていたのは、高校生の男女カップルの探偵事務所もの(A)で、しばらくその線で話作りをしていたが、のちにキャラ設定を大幅に変え、高校生三人組による学園探偵もの(B)に路線変更した。
(中略)
 残っているシナリオの内訳はAが一本、Bが三本だが、読み返してみていささかミステリ的にヌルい一本を除き、B1の「やかましい密室」を「騒がしい密室」に、B3の「薔薇への供物」を「狂い咲く薔薇を君に」に、A1の「ホワイト&ブラック」を「遅れてきた屍体」にそれぞれ練りなおして書き改めた。いずれB2もトリック部分だけ(僕の提出したトリックでもあるし)、全く別のかたちで使うことになるだろうが、そのときはこういうかたちで断り書きをすることもあるまい。』


と書いておりで、この『B2』の発展系が、本短編集の「不自然さ」をも包括するような「メタ・ミステリ」になるという可能性は、十二分に考えられるのです。
 つまり、竹本健治は、東海洋士らによって生み出されたアイデアはアイデアとして尊重し、その世界を自己流に逸脱・破綻させない範囲で、本連作短編集を自己完結させた。けれども、「いかにも作り物(=お約束)の世界」に満足できない部分が竹本にはあって、先に言及したような作品世界の「お約束性」を指摘するようなセリフをあえて作中人物に語らせ、いずれはそれらの「矛盾」をも、自身の描く「包括的世界」に回収しようと考えたのではないでしょうか。

 こうした私の推理は、決してこの場かぎりの、無根拠なものではありません。例えば、牧場智久シリーズのひとつである『風刃迷宮』には、作中人物の意識がいきなり時空を跳んだかのような描写のなされるシーンがありますが、この「ミステリにはあるまじき飛躍」にかんする合理的な説明は、ついに作中ではなされず終いになっています。
 つまり、『囲碁殺人事件』で始まった「牧場智久シリーズ」は、それに続く第2作『将棋殺人事件』において「個人の狂気」がシリーズ世界に入り込み、作品世界の「虚構的な自立的合理性」を揺るがしはじめ、それは『風刃迷宮』において、決定的な「逸脱」へと発展するのです。そして、その先に広がる世界とはどういうものかと言えば、それは「集団の狂気」を描いた未完の大作、『闇に用いる力学』の世界だと言えるのではないでしょうか。

 「個人の狂気」とは、「その他の人々(周囲)の意識」からの「逸脱」であると定義することができますが、これは「個人の正気と、周囲の狂気」というふうに言い換えることも可能でしょう。現実的な例を挙げるなら「戦場で人殺しに抵抗を感じる兵士の正気とは、戦時における(軍隊における)狂気でしかあり得ない」というようなことです。
 ともあれ、中井英夫の言う「癲狂院の鉄格子の内と外は、容易に反転可能である」という認識を、中井の後継者たる竹本健治は確実に受け継いでおり、その意味で竹本は「合理性=正気」というものに、さほどの信を置いていないのではないか。――「世界」をリアルに描くためには、むしろ「狂気」と看做される側にこそ着目するべきなのではないか。少なくとも、そちらの側から「合理性=正気」の世界を逆照射すべきなのではないか、という態度が、竹本健治の作品にはたしかに窺われるのです。

 このような前提に立って見た場合、本書3作目の「遅れてきた屍体」に登場した、「不可解な殺人事件は、宇宙人によってなされたものだ」と主張する滑稽なオカルト高校生の存在が、にわかに軽視できないものとして浮上してきます。本作では「三枚目のちょい役」として描かれている彼は、しかし『闇に用いる力学』の世界においては、「個人の狂気」の側ではなく、「その他の人々(周囲)の意識」の方に属する存在であり、その意味では、彼こそが本書の『闇に用いる力学』へと通ずる「抜け穴」だとも言いうるのです。

 最初に書いたとおり、本書は、ごく普通に読めば「本格ミステリの佳品」と呼んでよい「普通の本格ミステリ短編集」です。しかし、作品の端々にあらわれる「作品世界との違和の表明」に着目するならば、本書は竹本健治という作家の特性と可能性が、そこ此所に滲んでいる作品集だとも言いうるのではないでしょうか。




  2004年4月25日
No.193 - 2007/05/12(Sat) 23:38:17
『現代精神医学の概念』 / 杉澤鷹里
 H.S.サリヴァンの『現代精神医学の概念』を読んでいこう。 
No.177 - 2007/05/04(Fri) 23:13:17

第一講 基本概念(2) / 杉澤鷹里
((1)の補足をしておこう。〈自己〉が表現することのない、意識と相容れない、衝動、欲望、欲求が〈自己〉との結合を断たれてあることを、解離される、という。
 自殺についての見解を述べる。「他人に対して示す態度は自分自身に対して示すはずの態度を忠実に反映する」という観点から、外部世界に向けられている、おとしめの意味合いをもつ敵対的な態度が、〈自己〉に向うときに自殺が生じると考える。
 だから、自殺は憎しみの感情のたぎる中で着想され実行される。また自殺の夢想は、自殺の衝動を放電させて解消してしまう働きがあるのだが、それとともに、敵意をはらんだ破壊的行為の予防という目標を持つものだとも言える。
 自殺の失敗という現象を、落馬という実体験に基づいて、考察を進めている。
 障害物跳躍を得意としていた筆者は、落馬というきっかけによって、一年半障害物跳躍ができなかった。(意識としての)〈自己〉としては、決してしり込みなどしていなかったにも関わらず、それができなかった。それは解離された部分によるものだと考察する。
 そしてそれは、自殺を企図して失敗し、その失敗が自殺企図の真剣さ、真実さを疑いたくなるほどに劇的である多くの場合に通じるのだと言う。自殺の失敗は狂言というものではなく、解離によるものなのだと言うのである。〈自己〉の中に取り込まれた体験が、憎しみ・おとしめのものであるとき、解離された部分にこそ人間らしい暖かみや触れ合いがあり、その部分が、自殺衝動から死にいたるのを防ぐのだと、考えるのである。
No.181 - 2007/05/09(Wed) 13:04:19

第一講 基本概念(1) / 杉澤鷹里
 精神医学について、その存在性格を、歴史を紐解きながら見ていく。そして「精神医学とは、二人以上の人間を包含し人と人との間において進行する過程を研究する学問である(p.20)」と、対人関係を重視する視点を提示する。
 精神医学の対象は、「観察者が観察される者とかかわりあってつくる場において観察者と観察される者との間に起る現象(p.21)」であるとし、それは、たとえば家庭において自分の妻子に見出すような〈その人だけにしかない個性〉を対象にするのではない、ことも言う。
〈満足〉と〈安全〉とを、対人的行為を分類するための基準として導入する。〈満足〉とは、人間の身体的機制に密接に結びついている最終状態のことである。つまり飲食物への欲望、睡眠への欲望、性欲などに基づく営み、これを、満足を追及する営みであると言う。一方、〈安全〉を求める行為とは、文化的な装備に密接な関連があるものである。運動、行動、言語活動、思考、夢想などは安全の追求のほうに属することが多い、とする。
 安全の追求は、文化による条件づけによってなされる。その条件づけの重要な材料としてあるのが、能力感・力の感覚であり、これは飢えや渇きによる衝動よりもはるかに大切だとする。
 幼児は、望ましい最終状態には達することができない無力な存在であることに気づき、失望を味わわされることによって、安全喪失感や孤立無援感を避けるために、どうすればよいかという計算を必要とし、その計算によって行動し、思考することを発達させる。それが文化への同化過程である。その過程において、自尊心が生まれ、自尊心が生まれると自分以外の人を尊敬する心も生まれる(己をさばくごとくヒトをもさばかん)(p.24)。
「急性の分裂病患者がみせる最も奇異な行動さえも、それはわれわれの誰しもが日常馴染みの対人的過程、あるいは過去の生活において馴染みであった対人的過程から成るものである」と主張し、「幼児の対人関係に目を向けるべきである」という(p.26)。幼児における対人関係の形成に、〈個性〉としてではなく、科学的一般性のある、精神病の原型を見出そうというのである。
 〈感情移入〉と〈自閉的〉というのが、幼児期を特徴づける。
 たとえば、母親が授乳に際して動揺したりすると、幼児もまた授乳障害を起こす。そうした、幼児と幼児にとっての重要人物との関係を支える一種特別の感情の絆を、感情移入と呼ぶ。これは、文化への同化過程において重要である。
 自閉的とは、社会化されず文化に同化されない一次的な状態にある象徴活動を指す。
 幼児が音声の詐術を採用し言語習慣の萌芽が出現した時点をもって、幼児期は終わり小児になったということにする。
 小児では〈自己組織〉すなわち〈自己態勢〉自己という力動的機制が現れるとともに、不安を装備に加える。幼児にとっての不快な体験は、痛みか恐れかであるが、それに小児になると不安な体験が加わるのである。
 文化への同化のため、大人は小児に対し、不承認や不満足の意思表示を頻繁に使用し、小児は感情移入の絆を媒介として、これを察知する。このときの不快の体験が、つまり不安である。
 不安は、だから、〈自己〉にとって好ましくない重大事件が起ると出現する。そして、「自分の営為を意識するにしても、自分以外の人間の営為を意識するにしても、それは実際に起っていることの全体から見れば、そのごく一部に限られる」(p.32)のであるが、その意識の境界線の外に足を踏み出そうとする度に、不安を味わうため、その意識の境界線は、長年の経過において変わらない。
No.180 - 2007/05/07(Mon) 23:55:42

概略 / 杉澤鷹里
 Harry Stack Sullivan(以下、サリヴァン)は1892年、アメリカにアイルランド系移民の子として生まれ、1949年、パリに滞在中に客死した、精神医学者である。
 1920−30年代に、統合失調症の患者に対して積極的な精神療法的な試みを行った臨床家であり、社会科学との交流、政治精神医学という新しい領域への活動を行った人物でもある。
『現代精神医学の概念』はサリヴァンの生前に刊行された唯一の著作であり、その名を広く知らしめた著作である。
No.178 - 2007/05/05(Sat) 18:34:43
〔寛容〕について / 杉澤鷹里
 外国人女性を連れて、広島の平和記念公園を訪れたときのこと。
「どうして? この原爆を落としたのは、アメリカでしょ? なんでそれなのに日本は、なんでも「アメリカ、アメリカ」(とアメリカに友好的)なの?」
 広島を訪れた外国人の多くが抱く驚きの声のように思われる。
 
 私もまた戦後日本が示してきたアメリカに対するこの奇妙な寛容に対して、衝撃を覚えた人間である。
 ここでは、「寛容」についての考察がなされる。
No.154 - 2007/03/24(Sat) 08:51:29

そうでない場合と比較して / 杉澤鷹里
 徹底的な寛容の反転としての非寛容、これは寛容ということに論理的に生じる、難問であると思われる。たとえば、それは多文化主義・原理主義をめぐる議論とも共通する問題であるだろう。
 それでも、私は以下のように考え、寛容であること、他文化を尊重することを、肯定する。
 寛容を要求することで生じる衝突は、自然な状態(各人が思いのまま振る舞う状態)における衝突に比べて、ずっと小さくかつ合理性のあるものになるのだ、と。憎しみの連鎖による混迷を避けることは、そうしない場合よりも効果的であるのだ、と。
 一時の激情によるものよりも、長期的で冷静な判断によるもののほうが望ましい状態を、より高い精度で求めることが出来る。それが人間の思考というものだと、私は「信仰」しているからである。
No.176 - 2007/05/03(Thu) 18:32:02

「破壊者の幻想譜」にて / 杉澤鷹里
「破壊者の幻想譜」管理人として、私が投稿者に示してきた態度は、寛容なものであり、寛容なものであるとして認識されていたと思う
(一時期まで、spam投稿まで許容していたのだが、これは寛容というよりむしろ、「おまいらの投稿なんて、spamと本質的な区分ができねーんだよ」という皮肉であったと受け取られなくもない)。
 その結果として、引き起こしたのは、一般的水準から逸脱したマナー違反と、それに対する関係者や傍観者からの苦情であった。
 そして奇妙なことに、それに対する対応として、マナー違反の投稿者を弁護する立場、〔被害者〕に「寛容」を求める態度を私は取ることが多くなった。
 そして現在、「破壊者の幻想譜」への投稿はほとんどなされなくなっている。徹底的に寛容であること・誰もを守ることが、かえって誰からも守ることを帰結し、非寛容であることへと反転してしまう可能性があることを、「破壊者の幻想譜」での体験は示しているのではないだろうか。
No.172 - 2007/04/22(Sun) 12:01:38

加害者の忘却  / 杉澤鷹里
 ここまでの考察について、それはことの片面しか見ていない、という批判が上がってくるだろう。日本人の忘却は加害者として初めから身を置くべき問題にも発揮されているのだから。韓国・朝鮮での植民地支配を知らない、大日本帝国の庶子たる北朝鮮を「なんかキモイ」と嫌悪する、などの事態がそれである。第二次世界大戦以前のことをまったく無責任に忘却している、との批判には確かに一理ある。
 その反論に対し、取りあえずは以下のように補足説明することで抗することができる。加害者の加害者意識について、私の考察は、及んでおらず、あくまで被害者意識を持つヒトに向けられたものである、と。
 しかし、それでも、被害者に泣き寝入りを迫るような類の意見ではないか、との疑義は残るだろう。私の原爆についての考えを敷衍させれば、韓国・朝鮮で植民地支配を受けたヒトに加害者意識を持て、日本人に対し寛容たれ、それが理想なのだ、という話になってしまう。
 それは結果として加害者の忘却を招き、過ちを繰り返すことに帰結しはしないかとの危惧も生じてくるだろう。
 ここで問題を日常の水準にスライドさせて、検討を重ねていこう。
No.157 - 2007/03/25(Sun) 11:12:38

戦争を知らない / 杉澤鷹里
 戦後日本の示してきたアメリカに対する寛容は、一般的には好意的に評価されない。たとえば、現代の若者は第二次世界大戦で、日本がアメリカと戦ったことを知らない、とされる。軽佻浮薄にアメリカに追従する、カメレオンもびっくりの変節ぶり、というわけだ。
 被害者意識を克服し、対立図式を失効させる、ということは忘却するのと表裏の関係にあるのであり、現代の日本人の軽佻浮薄ぶりは、理想的な平和の体現だと私は考える。
No.156 - 2007/03/24(Sat) 10:12:46

「憎む」のではなく「恥じる」ということ / 杉澤鷹里
 原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と碑文が刻まれている。この碑文が加害者の立場として書かれていることは明らかである。そして積極的には死没者を被害者として位置づけてはいない。原爆被害者(である日本人)として原爆加害者(であるアメリカ)を憎むのではなく、原爆加害者(である全人類)として原爆投下という行為を恥じているのである。
 一般的に共同体は一つの身体として表象される。アメリカというときあたかも一個の人格を具えた何か、のように立ち現れてくる。そしてそのとき、その身体の境界線は明確に引かれているように思われている。地図に引かれた国境線がそうであるように。
 しかし、共同体の境界線は絶対的なものではないし、我々は無数の共同体の構成要素なのである。被害者ではなく加害者として、身を置くこと。憎むのではなく恥じるということ。それが〔寛容〕を可能にする。
No.155 - 2007/03/24(Sat) 09:29:55
お尻に違和感が。。 / 茂木 [東北] [ Home ]
ついに指入れられちゃったお。。
最初はちと照れたが、お金もらえるし我慢してみた。
息子に触られてもないのに、出ちゃうなんて超新感覚だったぞww
http://nodoame.wiiwi.net/CKCdG/
No.175 - 2007/05/03(Thu) 17:02:53
キララ論 / 杉澤鷹里
 ここでは、竹本健治『キララ、探偵す。』の「複数いる」「魂がない」という点について論じていく。
No.159 - 2007/04/03(Tue) 21:05:37

かけがえのない固有の複数 / 杉澤鷹里
 ゲームは何を表しているのか?
 東 浩紀さんは、評論家である大塚英志さんの意見として以下のようなものを挙げています。
「ゲームのなかで展開される物語は、それがゲームであるかぎりいくらでも「リセット」できる。したがって、そこではキャラクターもまた、いくらでも異なった物語を生き、いくらでも異なった死を経験することができる。これは、すなわち、そのキャラクターが「傷つく身体」「死にゆく身体」を獲得できないことを意味している。(p.120)」
 ドラゴンクエストやストリートファイターによる無数の死を、いくらでも再生しうるうが故に、我々はいつのまにか受容れてしまっている。東さんは否定するために取り上げているわけですが、強い説得力を持つ意見のように思います。
 そして、そのような世界観にどっぷりと浸かってしまうことの恐怖もまた覚えることと思います。そのいきつく先と捉えられるようなアンケートの結果、「小学生の7割、中学生の5割が『死んでもまた生き返る』と思っている」に、多くの方が驚愕し、ある種の恐怖を覚えたことと思うんです。
No.174 - 2007/05/02(Wed) 23:46:04

魂なき人形の魂(5) / 杉澤鷹里
 この掲示板に以前投稿した、〔将来の社会科学〕での「中国人の小部屋」についての議論を示します。以下引用。

「中国人の小部屋」というのは、正確な引用でないので、申し訳ないのですが、こういう哲学的な問いです。二つの小部屋がある。一つの小部屋には、中国人がいる。もう一つの小部屋には、イギリス人がいる。小部屋とは文字を介したやりとりしかできない。どちらの小部屋に対して、メッセージを送っても、まったく同じ返事がなされる。だけれど小部屋の中では、中国人は自分の頭で理解し、そして返事を書いているのに対して、イギリス人はあるルールに従って(部屋には巨大なルールブックがあるのでしょう)、漢字などという文字と文字の切れ目が分からないような絵画的な入力に対して、分からぬながら絵画的な出力をしている。このとき、この両者を区別できるだろうか。
 そういう問いです。まあ思想系の勉強会なんかだと、分かってても、分かってなくても、表面的にはまったく同じ発言ができたりすることもあるし、分かってないのになんかすごい発言をしたと受け取られることもあったりして、そういうズレがある以上、小部屋の中の中国人とイギリス人は、やはり違う、という感覚は自明のこととしてあるわけです。
 で、そのズレは明らかになるからズレなわけです。つまり、一回きりのやりとりなら、たまたま完全な一致をみるかもしれないけれど、蜿蜒とやりとりをしたときには、完全な一致というのは、なしえないだろう。それが、中国人とイギリス人との差であり、理解ということの差である、ということになろうと思います。
 だけれど、もし完全な一致をなしえたとき、私は以下のように考えたいと思うわけです。
 イギリス人それ自体は、中国語を理解していないかもしれないが、「イギリス人−ルールブック」という複合体は、中国語を理解していると言えるのだと。そしてそのとき、中国人の脳内で生じている何かしらのパターンと同一のものが、「イギリス人−ルールブック」複合体で生じているのだ、と。
 
引用終わり。

 自分なりの、「『この私』の魂」についての信仰告白です。
「キララ、」に即して言えば、一連の日常生活動作の中で破綻しないキララの認識、判断、言動からは、それがどこで実現されているかはともかく、通常の人間と同様のパターン(つまり魂)が生じているのだ、と考えられるわけです。
No.171 - 2007/04/22(Sun) 09:58:56

かけがえのない固有の複数(5) / 杉澤鷹里
 実際のところ、例えば萩尾望都さんの『銀の三角』に、ドラゴンクエストのようなロールプレイングゲームをプレイするのに似た感覚を覚えるのは、私だけではないはずです。マーリーは殺しに行き、殺される。そして再生される。ドラクエの勇者が、敵を殺しに行き、殺されて、教会で「おお、ゆうしゃよ、しんでしまうとは、なさけない」と言われて生き返らされる、のに相通じるものがあります。
 1980年から1982年に連載されたこの作品は、ファミリーコンピューター発売の1983年7月より時代的に先行しており、東さんがゲームの影響を読み解いている2000年代の作品のような、明瞭な対応はないけれど、ゲームにおいて最も先鋭化され、主題とされる何かを既に表現していた、のだと言えます。そして、ゲームにおいては、むしろ見失われてしまう、別の何かの重要性もまた、描かれているように思います。
 どういうことか、議論を続けていきましょう。
No.170 - 2007/04/21(Sat) 10:44:18

かけがえのない固有の複数(4) / 杉澤鷹里
 東さんが紹介する桜坂洋さんの『All You Need Is Kill』という作品では、主人公キリヤは、戦闘で死に、しかし戦闘の30時間前に戻り、再び死ぬ、ということを繰り返します。東さんは、これをゲームの隠喩であると読み解いています。つまり、戦闘で死ぬキャラクターとしての主人公と、同じ戦闘を何度も体験するプレイヤーとしての主人公とが重ね合わされているのだ、ということです。
 ストリートファイターなどのアクションゲームを嗜んだことのあるヒトなら、東さんの議論(たとえば、身体的な能力に変化がないのに、戦闘能力を高めていくことができるという現象についての考察など)がすんなりと理解できると思います。
 注目したいのは、東さんがゲーム的リアリズムの現れを読み取っているこの作品では、一方で、キャラクターとしてのキリヤは複数いる、死に続けている。そして一方で、プレイヤーとしてのキリヤが連続することによって、その死は隠蔽されている。
 かけがえのない単一の主人公が複数現れる、という現象の一つの典型を見ることができるわけです。そして、その世界観は、ゲームに馴染むものに容易に受容れられる。
No.169 - 2007/04/20(Fri) 21:20:53

魂なき人形の魂(4) / 杉澤鷹里
 以上見てきた議論に立脚すれば、「キララに魂がない」という発言は、ナンセンスだということになります。魂があるように見える、ということが、つまり身体であるということであり、それは魂があるということ(仮構)の実際だからです。
 キララに魂がないのであれば、人間にもまた魂がないのだと言えます。
 ちょっとメタレベルに上昇して言えば、文字の集合によって表されている何かに過ぎない、キララも、益子博士も、存在論的に等価であるわけです。キララだけを切断して、キララだけには魂がないことになっている、ということを考察するのは、きわめて困難です。明らかにキララに魂がない、と感じられるようなことが描かれる、今後の「キララ、」の展開を待たねばなりません。
 さて、それでも。魂でなく身体がある、という立脚点に対し、以下のような、さらなる検討を求めることができるように思います。
「魂ではなく身体がある、という意見は分かった。では、いかなるものが身体であると言えるのだろうか? いかなるものに魂を見いだすのであろうか?」
「魂ではなく身体がある、という意見は分かった。しかし、他の身体に魂を見いだしてしまう『この私』の魂、これはいかなるものであろうか?」
 このことについて考察を続けていきたいと思います。
No.168 - 2007/04/19(Thu) 20:19:41

かけがえのない固有の複数(3) / 杉澤鷹里
 東 浩紀さんは、『ゲーム的リアリズムの誕生』において、ライトノベルの特徴を、キャラクター小説であることに見、まんが・アニメ的リアリズムとしての文体の半透明性と、ゲーム的リアリズムとしての構造のメタ物語性とを強調します。
 漫画表現が記号でありかつ身体性を帯びている両義的な存在であることから、その模倣であるところのキャラクター小説もまた、不透明で非現実的な表現でありながら現実に対して透明であろうとする矛盾を抱えた言語である、ということを、東さんは、文体の半透明性というふうに表現します。あたりまえの風景を描写していたとしてもつねにどこか嘘くさく、逆にまったくの幻想的な世界を描いたとしてもどこか「リアル」に感じられてしまう。キャラクター小説の文章をそのように評価します。
 また、キャラクターは、その故郷からいともたやすく離れ、派生的な物語に移り住む点に着目します。同人誌に見られるような、二次創作というやつを思い起こしてもらったら良いわけですけども、半ば必然的に、キャラが本来の物語から飛び出して、別の物語が書かれてしまう。
 それは、キャラクターがメタ物語的な結節点として与えられているがゆえに、あらゆる物語に対して別の物語への想像力が半ば自動的に開かれてしまう、というふうに言えます。
 それはきわめてゲーム的な特徴です。ゲームは偶然やプレイヤーとの相互作用によって多数の物語を紡ぎ出すことができる。物語が一直線でなく、あちらこちらに場面ごとに分岐する可能性を常に秘めている(ここで『風刃迷宮』の久保田康平を想起した方は、相当な竹本フリークです)。
 以上のような論旨を主軸に、東さんは作品論を展開していきます。
 ゲーム的な特徴を踏まえたライトノベルについての作品論。これを足がかりに、かけがえのない単一の主人公が複数現れる、という現象についての考察を続けていきたいと思います。
No.167 - 2007/04/18(Wed) 21:49:44

魂なき人形の魂(3) / 杉澤鷹里
 魂ではなく、身体があるのだ、ということが、どういうことか、いきなり「GHOST IN THE SHELL」論から入ったのでは、今ひとつわかりにくいのではないかと思い、補足をしておきます。
 たとえば、テレビでドラマを見ているとお考えください。「白い巨塔」が放送されている。病床にある財前教授が「無念だ」と言う。私たちは、その言葉を告げる財前教授の姿に、ありありとその無念さを感じる。
 だけれど、そこには二つの意味で魂がないと言えます。
 一つ目は、そこに財前教授はおらず俳優の唐沢寿明がいるという点。卓越した技術力と何が何でもという向上心とによって、教授まで上り詰めた財前医師は実在しておらず、ただ、財前医師を演じている唐沢寿明さんがいるのであって、唐沢寿明さんは、医学部の教授でもなければ、病を患っているわけでもない。従って、無念だ、と感じている魂がそこにあるわけではないはずです。演じられている、というふうに後で振り返れば認識しうる場合においても、私たちはドラマに見入っているその瞬間には、唐沢さんに、財前教授の無念さをありありと感じている。
 二つ目は、そこにヒトはおらず、ブラウン管(あるいはプラズマ、液晶)があるという点。
 今まさに目の前に存在するのは、光の点の集合であり、その中身を覗いてみても、電子部品が存在するだけです。その電子部品に財前教授の魂があるわけではない。
 それなのに、私たちは「そこ」に財前教授を見、その財前教授の無念さを感じている。
 様々な色に光っている点の集合に過ぎないモノに、俳優の唐沢寿明に過ぎないモノに、財前教授の無念さを不可避に見いだしてしまう。
 そういう事態から、魂ではなく身体がある、と言っているわけです。
No.166 - 2007/04/12(Thu) 20:05:18

魂なき人形の魂(2) / 杉澤鷹里
 魂があるのではなく、身体があるのだ、という関係主義的な立場に立って、議論を進めていきましょう。
 身体とは、そこに魂があると不可避に見いだしてしまうモノのことです(身体の身体性がもっとも強く表れる場所として、顔を挙げることができます)。魂(という実体)があるためにその魂が宿っているモノのことを身体というのではなく、あくまで魂は、身体の背後に仮構されるだけなのだ、というふうに考えていくわけです。
 魂ではなく身体がある、ということを非常に強く意識したクリエーターとして、押井守さんを挙げます。
 その監督作品である『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』を見ていきましょう。この作品は士郎正宗の短編連作の漫画の良いとこをつまみ食いして一つの作品にしているものです。脳以外の体のほとんどを義体とした(というふうにビデオの箱には書いてあったんですけど、私の理解の限りでは、脳の大部分をも改変している)少佐と呼ばれる女性、草薙素子が、自分自身のアイデンティティの喪失を抱えながら、人形使いと呼ばれるものとの戦いを繰り広げて行くという粗筋になっています。この作品ではたとえば、記憶の改変も容易になされ(独身者が娘がいると思いこんでいたりする)、自分とは何か? ということが根本的なところで問われることになります。
 そして、この映画では、原作とは異なる部分が多々見られるんですけど、なかでも徹底的に原作とは相容れない箇所があるんです。それは、以下のシーンです。人形使いとの戦いの結果、彼女は義体化された体のほとんどを失ってしまう。彼女を憎からず思っている相方のバトーが容れ物として別の義体を用意し、そして彼女(と見なされる義体)が起きあがる。そういうシーンです。ここで、原作では、その義体は若い男のものであり、草薙素子は、そのうちに自分と人形使いの子供ができるだろうと告げて去って行くんです。
 一方、映画では、子供の義体が起き上がり(この時点でバトーはその容れ物に草薙素子が収められているという確信を持ってはいません)彼女は「童のときは語ることも童のごとく思うことも童のごとくすることも童のごとくなりしが人と成りては童のことを棄てたり」「ここには人形使いと呼ばれたプログラムも少佐と呼ばれた女も存在しないわ」と言って去って行くんです。これは、少なくとも直前のシーン(人形使いが‘果実’の尊さを説くシーン)から必然的に出てくるせりふではない。唐突な感じです。したがってこのシーンにこそ最も押井守の主張が表れていると思うんです。
 この流れはあまりに複雑であるがために、多様な解釈が可能だと思うのですが、ここで私は、「私は童であり、少佐ではない」という事実の宣告を読み取ります。つまり本質は「義体」(人形・顔)(が構成する関係)にあり、その背景としての魂にあるのではないのだ、ということの表明です。アイデンティティについての問いは、義体の消失ということによって、断絶というかたちで、回答を与えられるわけです。
 しかし、このアイデンティティの断絶の表明は、実はアイデンティティの連続に支えられています。ここまで、書いてきませんでしたが、この映画では「声」によりアイデンティティを巧みに表現しているんです。草薙素子は、田中敦子さんの野太さと透明感とを併せ持った知的で魅力的な声が当てられているのですが、人形使いとの戦いの中では、草薙素子の口から、田中敦子さんの声ではなく、人形使いの声である男の声が漏れたりし、それによって草薙素子のアイデンティティの揺動を表現したりしているんです。
 そして問題のシーンでは、子供の義体は「子供らしい声」で第一声を発し、そして「童のときは……」以降のセリフに田中敦子さんの声が当てられることになります。つまり、おそらく登場人物であるバトーにとっては、一貫して子供の義体は子供らしい声で話をしているのであろうけれど、その子供は、草薙素子なのですよ、というメッセージを、声の変化によって監督は発しているのだなと、観客は受け取るわけです(ちなみに続編である「イノセンス」では、草薙素子のアイデンティティは田中敦子さんの声によってのみ支えられます)。
 声もまた、顔と並んで、そこに魂があると不可避に見いだしてしまうような何かです。「GHOST IN THE SHELL」は声の連続というアイデンティティの連続によって、義体の断絶というアイデンティティの断絶を表現する(もし、声が連続しなければ、ただ二つの異なる身体が登場するだけになってしまいます)、そういう作品です。
No.164 - 2007/04/07(Sat) 12:25:28

かけがえのない固有の複数(2) / 杉澤鷹里
 竹本作品に見られる、かけがえのない単一の主人公が複数現れる、という現象を私たちは、竹本健治に強い影響を与えた漫画家、萩尾望都にも見いだすことができます。
 たとえば、「A-A'」において、『銀の三角』において、『Marginal』において、萩尾望都はクローンについての物語を描いています。その描き方にはある共通点があり、(手塚治虫の『火の鳥 生命編』と異なり)クローンにより、ある人格の連続性を保とうとする試みは承認され実行され肯定されているという社会背景を設定しています。そういう背景において、個別のかけがえのなさが描かれるわけですが、しかし時として、もしクローンによる再登場がなければ、そうはしないであろうような、あっけのない残酷な「死」が個別の登場人物には与えられてもいるんです。萩尾望都さんの描く、そのようなクローン像は、竹本作品におけるそれときわめて近いものであると言えます。
(ここで注釈を加えておきます。私は、萩尾望都の「A-A'」を読み、竹本健治がその直接の影響下において「キララ、」を書いたのだ、という主張をしているわけではありません。「A-A'」や『銀の三角』などの作品を次々と書いていく萩尾さんの持っているある種の傾向、考え方を、竹本さんも持っているのだ、ということを言っているだけです。ただし、ある特定の作品による影響ではなくて、複数の作品を通して、背景にある考え方を、竹本さんが吸収し自家薬籠中のものとした、という解釈は十分できると思います)
 確認しておけば、萩尾作品では、クローンが社会的に肯定され、それは時として主人公をばっさりと死なせてしまう結果にもつながるものでした。この考えについて、東 浩紀さんの議論を援用しつつ、考察を進めていきたいと思います。
No.163 - 2007/04/05(Thu) 21:04:05

魂なき人形の魂(1) / 杉澤鷹里
『キララ、』において最大の謎は「魂がない」というのは、どういうことか? ということだと思います。
 益子博士は「キララに魂はない」「キララに人間と同じような理性や感情があるわけではなく、あくまで <同じように見える> だけ」と言います。ここで多くの読者はつまづくはずです。
 ここでは、あたかも素朴な魂の実体主義的な立場を作者がとっているかのような印象を受けるからです。つまり、「人間には魂がある」ということを無根拠に前提にしているように思えるからです。
『匣の中の失楽』五章 「5逆転された密室」における根戸、布瀬、影山の遣り取りを知る者なら、この安易な言葉に、戸惑いを隠しきれないでしょう。
「魂がある」ということはどういうことか、答えるに答えきることのできない難問です。
 だから、きっと、「キララ、」では、キララに魂がない、ということがどういうことかクリアに示すことを通じて、魂があるとはどういうことか、なにがしかの考察をするよすがが与えられるのではないか、と思っています。
No.162 - 2007/04/04(Wed) 20:44:45

かけがえのない固有の複数(1) / 杉澤鷹里
『キララ、』について、自分が竹本さんらしさを指摘するならば、初手からキララ(と同等の身体)が複数いることが前提にされている点を、まずは挙げます。
 これは、あの作品や、その作品で主人公クラスの人間の「複製」が登場する(そしてあの作品では、作品世界を破壊させるものとさえ言えるほどの(ネガティブな)インパクトを持つ)のと方向性を同じくしています。
 通常の了解において、複製がネガティブな意味を持つのは、かけがえのない固有の何か、ということを否定するからです。「君だけを愛してる」という言葉が意味を持つのは、その言葉が一人のヒトに向けられている(と了解されている)からであって、出会うヒト、出会うヒトすべてに「君だけを愛してる」と言っている現実が露呈したら、頬に平手打ちを食らうこととなります。
 だから、『火の鳥 生命編』では、複製がネガティブな意味を持つことを主題として取り上げ、その上で、複製であっても、それ自体としてかけがえのない固有の何か、なのだと主張し、それだからこそ、その主張に見るべき意味があるわけです。
 ところが、『キララ、』の場合はそうではない。(いろんな状況からして)商業的要請に従った売れ線狙いの作品である可能性が高いわけなのですが、そんな要請で書かれているのにも関わらず、その主人公であるところのキララが複数いる。かけがえのない固有の何かであることを、最初から否定されてしまっている。普通に考えれば、キャラの魅力を多いに損なう暴挙なわけです。
 そういう暴挙だからこそ、竹本作品に通底する、ある傾向・ある思想を読み取るための鍵が提示されているように思うのです。
No.161 - 2007/04/03(Tue) 21:10:18
野良猫の去勢・地雷の効果 / 杉澤鷹里
 野良猫の数のコントロールにとって重要なのは、増えすぎた野良猫を殺すことではなく、野良猫を去勢することなのだそうである。殺しても殺しても猫の総数はさして変化しない。しかし子を産まない猫の混在は、野良猫の総数に影響を与えるのである。
 地雷が敵対するものに好んで使われるのは、安価であるとともに、それが対象(主に子供である)を殺さず、傷害だけを負わせるからだそうである。子供を殺すことは、子供が多く死ぬ社会には、さして影響しない。しかし、生き続ける障害者は、敵対する集団に対して不利となるような影響を与える。
 この二つは、数理生物学的には、同じ現象だと思われる。
 
 我々は、個別の具体的な苦しみ悲しみ、つまり意味の世界にいながら、同時に数学的な「構造」としてもある。そして、「構造」としてあることから決して自由とはなりえない。
No.173 - 2007/04/26(Thu) 19:22:40
批評におけるパラダイムの混合 / はらだです
 一体、何がいいたいのか、私にはわからない。
 なぜ、文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられるのか、私にはさっぱりわからない。
 どっちかが上位の価値基準で、もう片一方が下位の価値基準ならばわかる。しかし、並列に、対等の立場で並んでいるのだ。これをどう解せばいいのか。
 どっちかがオールマイティーに、全般的に通用し、片一方が部分的に、ある条件下でのみ適用されるというのならばわかる。しかし、そうではない。互いに両立しない理論を唱える論者の名前が、まったく対等に並んでいる。
 批評文を読んでいると、往々にしてこのような事態に直面する。何を言っているのかと、これはこうなのだと言いたい気持ちと、言っても無駄なことだ、現代は教養自体が崩壊しているのだ、ドストエフスキーの名前を知っているだけでも評価しておくべきだという気持ちが入り混じる。

1.現象学・実存主義のパラダイム
2.構造主義のパラダイム
3.文化記号論のパラダイム
4.ポスト構造主義のパラダイム

 同じパラダイムであっても、個々の思想家の思想の差異も、当然ある。
 だが、パラダイムが異なると、まず間違いなく、それ以上の思想の開きが出来る。
 これらパラダイムの異なる思想をどう整理をつけるか。
 例えば、私の場合、これらのパラダイムを、以下のように整理している。
 ポスト構造主義のパラダイムに属するドゥルーズ=ガタリの理論は、資本主義の動的な仕組みをも射程に収める理論を提出している。ドゥルーズ=ガタリは、社会モデルの理念型を提示し、コード化・超コード化・脱コード化ということを言っている。ところで、コード化社会、すなわち動的な変化の少ない未開社会に対しては、構造主義のパラダイムに属するレヴィ=ストロースの構造人類学でカバーできる。レヴィ=ストロースは熱力学の比喩を使って、未開社会を冷たい社会と名づけ、構造分析を展開した。だが、超コード化社会、すなわち専制君主社会の分析に、構造分析が役立つかといえば、無理がある。専制君主社会での王殺しや祝祭に関しては、文化記号論のパラダイムに属する山口昌男の「中心−周縁」理論の方が適している。が、これもまた万能ではなく、システムの解体をシステム化した資本主義の分析には、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ・アナリーズの方が適している。つまり、下位のパラダイム(上の1〜4では、数字の小さいもの)に属する学問的成果は、ある限定条件のもとでは有効であるが、上位のパラダイムのようには適用できる範囲が広くないと考えるのである。
 だが、パラダイム違いの思想家を並置して書く批評家は、こうしたどちらのパラダイムを優先させるかとか、適用範囲の限定を行うかといった事柄には、まったく関心を持たないのだろう。そういう批評家の読んできた評論自体が、パラダイムの混線現象が起きていることが多い。二流の思想家のテクストばかり読むと、三流の思想家が生まれることになる。
 
 問題は、言っていることが、まったくわけのわからないものになることである。
 文化記号論では、内部/外部といった二項対立を基に、理論展開をすることが多い。これに対し、ポスト構造主義のパラダイムでは、内部/外部といった二項対立の外部に出ることを教える。つまり、外部/(内部/外部)ということになる。ポスト構造主義では、外部/(内部/外部)の最初の外部の方に力点が置かれている。
 ところが、パラダイムを混線させる論者は、ポスト構造主義の外部/(内部/外部)を、単純な内部/外部に置き換えてしまう。このほうが、物語として判り易いからである。
 こうして、山口昌男とジャック・デリダ、あるいは柄谷行人が並置されるといった喜悲劇が起きる。(別に山口昌男が悪いという意味ではなく、適材適所があるといっているだけである。)
 
 さらにテクスト全体を読まず、一部分だけを抽出して、著者の言いたいことを捕捉することに成功したとして、それを基に論ずる批評家も存在する。
 この手法でも、最初から最後まで一貫して、同じ事を言い続けるテクストの場合、何の支障も起きないかも知れない。
 だが、例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
 これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、

>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
 上記は、まだ些細な事柄であるが、ただでさえ、小難しい現代思想の世界において、さらにわかったようなわからないようなことを言う魍魎が跋扈するという状況は宜しくない。また、文学を隠れ蓑に、曖昧なイメージ思考に終始するものもある。素人の私にもわかるようなクリアな議論をしている批評を読みたいのだが、なかなかそうはいかないようである。
No.144 - 2007/02/17(Sat) 06:57:37

ある転落の記録 / はらだです
(1)砂上の楼閣
[事実確認1]
アレクセイ氏との意見対立は、「討論・笠井潔について」
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html の頃からありました。
「虚無なる「匣の中の匣」」という掲示板には、2004/10/29に書かれた「討論・笠井潔について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章があり、そこには当時感じた意見のズレが書き残されています。
併せて、その下にある「思想の適用範囲について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章を読んでいただければ、今回書いた「批評におけるパラダイムの混合」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648 という文章が、内容面で重複しているところが多々あるということがわかります。
「討論・笠井潔について」http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html をやっていた当時、「思想の適用範囲について」で書いたような枠組みに流し込めば、笠井潔の思想を克服することができると考えていました。
「虚無なる「匣の中の匣」」に書いたこのふたつの文章が、今回、表面化した。「虚無なる「匣の中の匣」」は、誰でも見れる場所なので、その段階で表面化させたといえますが、見る人が少なかったのだと思います。

[現在の観点からの批判]
「思想の適用範囲について」や「批評におけるパラダイムの混合」の枠組みに流し込んだとしても、同じ現代思想の言語ゲームを共有している人ならば兎も角、共有していない人には全く無効で、説得力がなく、ただ思想家の名前やテクニカル・タームを振りかざすだけで、(それがいかに反権力の側に立つ文化的ヒーローであっても)権威主義的な印象を与え、反感を買うだけであるということが判りました。
現代思想は、まったくローカルな、同じ関心を共有する人だけに通じる符牒で出来ており、こんなもので誰でも斬れると考えていた私が愚かであり、傲慢であったと思います。

[事実確認2]
 ミクシィにおいて、私のマイ・ミクシィは、ありえない組み合わせであることが、すぐさまわかります。
 私とアレクセイ氏の間で、共通点もあれば、相違点もあることは上述の確認でわかります。
 さらに、アレクセイ氏は「笠井潔葬送派」で、反探偵小説研究会の立場であり、小森健太朗氏は探偵小説研究会に属している。アレクセイ氏が、清涼院流水氏の小説をあまり評価していないということも知っていました。
 また、他にも「合理主義VS精神世界」などの対立軸を見出すことができます。
 同じタイプの人間ばかりであれば対立は起きにくいといえます。それに対し、私の周りは何が起きても不思議ではない人間関係といえます。
 うまく機能すれば、本当の意味でのコミュニケーション=意見交換の場が出来たかも知れませんが、それを実現するだけの器が私にはなかったといえます。
 ちなみに、小森コミュをつくるにあたって、まず小森健太朗氏をミクシィに招くということを行いましたが、このとき自分でしなかったのは、小森氏と直接マイ・ミクシィになることで、複雑な人間関係になるので、自分からは遠慮したいという気持ちがあったのは事実です。ちなみに、現在、マイ・ミクシィとなっているのは、小森氏からの申し出によるもので、ミクシィに入会されてから時間を経てからでしたから、すべてを承知されているものとして快諾することにいたしました。

(2)出来事の経緯
 笠井潔著『魔』(文春文庫)の解説を、小森氏が書いたということで、アレクセイ氏が私の日記に、否定的な批評を書きました。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648 この批評は、アレクセイ氏の立場からすると、当然のものであったといえます。
 この書き込みに対し、配慮が働いたのは事実です。争いは起こしたくないが、されど議論は無視はできない。両者の間をうまくくぐりぬけられないか、と。
 その後、私はアレクセイ氏の批評に関してコメントをし(アレクセイ氏の立場からは中途半端ととられるかもしれませんが)、一応はくぐりぬけたつもりだったので、『魔』の件で、立場的に追い詰められたから、その後の暴発的な書き込みを行ったかというと、その理由は弱いというのが事実です。
 ちなみに、この機会ですから、私が小森文学についてどう考えているか、少しだけコメントしておきましょう。『グルジェフの残影』の文庫版が出たときに、巻末の対談でニーチェとか、コリン・ウィルソンとかを題材にした場合、ミステリを喰ってしまうので、そういうテーマを避けるという主旨のことを小森氏が語っており、その直後、小森氏自身に自分としては、ニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、小森さんが本当に書きたいものを書いてほしいし、そういう内発的な理由で膨れ上がって、ミステリという形式が壊れるときに、むしろ問題作が生まれるんじゃないでしょうか、という主旨のことを言ったことがあります。小森氏の評論をみますと、必ずといっていいほど笠井説への言及がありますが、このまま行くと笠井説を補完するだけになってしまいますから、もっと独自性を出してもらいたい、とすればニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、本当に小森氏の好きなものを題材にして、多少優等生の枠をはみ出てもよいというような気概で書くのがいいのではないか、と思っています。(これは勝手な希望なので、小森氏がどう考えられるかはわかりませんが。)
 話を元に戻します。『魔』のことを書く前から、ふたつの事柄に悩まされていました。
 ひとつは、清涼院流水氏と西尾維新氏との対談 http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html/ref=amb_link_22568806_2/249-2495434-4041908?ie=UTF8&docId=1000029266 の末尾の方に出てくる「笠井潔」という名前が、ふたりの間でどう位置づけられるかという問題。(これをどう考えるかは、未だによく判断がつきません。)
 もうひとつは、「BBS アレクセイの花園」での私の文章の一部引用。引用については、最初の引用の際に、アレクセイ氏から許可を求めるメッセージがあり、文章は読まれてなんぼの世界なので、その文章は引用してもいいですよ、という回答をしたつもりだったのですが、その後も引用が続き、全文引用とは違い、一部引用だと印象が違うなぁ、これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ、でも仕方ないかと思っていました。
 暴発の引き金となったのは、
「アレクセイの花園」2月11日(日)01時01分22秒に書かれた

>Keenさまやはらぴょんさまが指摘なさっているような、「意識とは何か」「生命とは何か」「恋愛とは何か(可能か)」といった哲学的な問題提示を別にしても、本書には『匣の中の失楽』以来、連綿と続いている、竹本健治ならではの「過剰性」「逸脱性」が見て取れます。
例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

という文章で、2007年02月01日 00:16に私が書いた『キララ、探偵す。』のレビューを、アレクセイ氏は見ているにも関わらず、それをないかのように故意に事実を隠蔽したのだと思ったのです。
 私はアレクセイ氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを先に見ていますから、アレクセイ氏が『キララ、探偵す。』を読めば、「メタ・フィクション」的手法に気づくことは確信していましたが、自分の名誉を引き立てるために、私のレビューはないことにしようと図ったと思ったのです。(無論、私のレビューは、アレクセイ氏や他の人によるこれまでの竹本作品の書評を読んでのことですから、オリジナリティは無に等しいと思っていました。)
 そのため、この部分に日記で触れたのですが、アレクセイ氏は、この件について私を黙らせようとする雰囲気が見られましたので、ますます疑惑を深めてしまったのです。
 さしたる準備も詳細な事実確認もないままに、旧来の自論に、その場のトピックス(『構造と力』の件)を散りばめて、アレクセイ氏批判を開始したのは、それが第一原因でした。
 しかしながら、旧来の現代思想を適用した自論は、現代思想の心棒者にしか効かず、『構造と力』の件も、その場の会話では文章が話者の意見の表象代理として機能しており、『構造と力』の著者が言いたかったこととは別に流れていることが判明した現在、この暴発の第一原因についても、認識の修正を図らねばなりません。
 アレクセイ氏が私を黙らせようとしたのは、事実の隠蔽のためでも、権威主義傾向でもなくて、私の主張がまったく見当ハズレで、迷惑だったからであると。そして、2月11日(日)01時01分22秒より前に、2007年02月01日 00:16に私が書いたレビューを見たというのは、大きな誤解であったのだと。そうでなかったら、あんなに自信をもった私への反論ができないはずです。
 かつて、アレクセイ氏は「はらぴょんさんは確かにおたくだけれども、ともだちだと思っているよ。」という主旨のことを書かれたのを覚えています。それなのに、私は早とちりを連発して、アレクセイ氏を疑い、アレクセイ氏を傷つけてしまいました。今はただ、平謝りに陳謝するしかありません。
 なぜ、アレクセイ氏を信じることができなかったのか。今の私には、それが恥しくてなりません。
No.153 - 2007/03/12(Mon) 06:56:19

補足 / はらだです
 なお、『構造と力』の引用部分は、浅田彰の自説ではなく、メルロ=ポンティの説の浅田彰による要約であり、「アレクセイの花園」におけるホランド氏の浅田彰氏の批判は的外れという批判を先日いたしましたが、ホランド氏とkamui氏の対話という元の文脈では、kamui氏が自説をうまくいい現したものとして、『構造と力』を引用しており、ホランド氏は、kamui氏の自説を批判するために、この部分を攻撃しているということがわかりました。したがって、的外れなのは、元の文脈に即して考えなかった私のほうであり、ホランド氏の方ではありません。
 大変な錯誤があったことに深く陳謝いたします。
No.152 - 2007/03/10(Sat) 00:38:14

後続の走者 II / はらだです
アレクセイさま

 おっしゃる通り、私はアレクセイさまの書かれた竹本健治著『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを、『キララ、探偵す。』刊行前に読んでおります。
 アレクセイさまの書かれた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューには、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のメタ・フィクション的傾向を示す部分の指摘があり、これを読むことにより、読まないよりも、同じ著者の別の作品についてのメタ・フィクション的傾向についても、気づくようになると思います。
 また、竹本健治氏のメタ・フィクション的傾向を指摘した評論は、アレクセイさまのレビュー以前にも、前述の笠井氏・日下氏などがあり、これらを読むことにより、やはりメタ・フィクション的傾向に敏感になります。
 私の場合、笠井氏・日下氏・アレクセイ氏らの評論を読んでいますから、新作の『キララ、探偵す。』を読んで、そのメタ・フィクション的傾向に気づいたとしても、当たり前のことで、決して凄い事ではありません。
 ことさら、過剰に騒ぎ立てるような事をいたしまして、誠に申し訳なく思っております。

 ただ、依然として釈然としない事があります。
 確かに、アレクセイさまの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを読むと、竹本作品のメタ・フィクション性に敏感になりますが、レビューが書かれた時点で未刊行であった『キララ、探偵す。』のことは、当然書かれていません。
 従って、『キララ、探偵す。』について同様のことを言うためには、やはりそれなりの作業をせねばなりません。確かに、まったく土台のないところから行うよりは、遥かに安易であり、先行者の業績と比較すると、その価値は遥かに劣るわけですが、それでも零ではないというのが私の考えです。
 心証の悪い私については、価値は零ということでかまいませんが、私のことで前例を作ったがために、その後、私以外の人が今後刊行される竹本作品のメタ・フィクション性の指摘をして、「『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを見ましたね」という非難を受けたとしたら、あまりにも理不尽と思われます。
 「お前の危惧は妄想で、そんなことはない。失礼な言いがかりだ。」と言われれば、私はこの件に関して安心して退場することができます。  
No.151 - 2007/03/10(Sat) 00:16:22

後続の走者 / はらだです
 某国立大の理系の院生から、指導教官のもとで論文を書いて、いい出来であると、指導教官が自分の名前に書き換えて、学会に論文を提出してしまうという話を聞いた事がある。指導教官の研究成果を踏まえ、指導教官のメソッドを使って、研究を推し進めたというわけである。
 ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述が含まれている件が、先般からアレクセイ氏との間のトラブルの火種のひとつになっているが、この件に関して、私はアレクセイ氏による2月11日(日)01時01分22秒の「BBSアレクセイの花園」での同様の指摘よりも、時間が早いという事実確認が行ったが、特に第一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。
 この種のメタ・フィクション性の指摘は、アレクセイ氏によって書かれた竹本健治氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューで(これが掲載されたのは、私の『キララ、探偵す。』のレビューに先立っている)すでに為されており、ここで竹本作品においては、『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品以外でも、メタ・フィクション性が認められることもあるという<一般解>が確立された。したがって、その後の『キララ、探偵す。』でメタ・フィクション性が認められることもあるという私の指摘は、前述した<一般解>に含まれる<特殊解>に過ぎず、すでに前作『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏によって予見されていた、ということでよい。そもそも、このような発見の類いは、文芸評論家であるアレクセイ氏にとっては意味があることだが、公正な判断も出来ず、偏向した放言に終始している一介の市民に過ぎない私には、何の意味もないことである。
 とはいえ、竹本健治氏のコアな読者は、「少年回廊」だけでなく、「アレクセイの花園」もチェックする可能性は高く、そういった中から、私とは違って文芸評論家を目指す高い志のある人が出てくるかも知れない。そういった人が、竹本作品の新作を読んで、この箇所は作者のメタ・フィクション性を示すものだと指摘することもあるかも知れない。その場合も、すでに『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏が<一般解>として示したものであり、アレクセイ氏の予見の後に登場した二番煎じであるということになるのだろうか。
 『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品というと、どこまでを指すのか、境界線が私には判らない。ミステリは、メタ化傾向の強いジャンルであり、ことに竹本作品では顕著であるといえる。だから、『トランプ殺人事件』の文庫解説で、笠井潔氏がメタ・ミステリ談義をしているし、確か日下三蔵氏も『兇殺のミッシング・リンク』でのメタ・フィクション的遊戯について指摘したことがあるはずである。
 思うに、ミステリとミステリ評論は、その愛好家によって、精神のリレーを引き継ぐように書き綴られてきた趣味的なジャンルである。果たして、アレクセイ氏による『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの後で、後続の走者はいるのだろうか。
No.150 - 2007/03/10(Sat) 00:15:25

『テロルの現象学』について / はらだです
アレクセイこと田中幸一氏との論戦は、次のような経過から始まった。

(1)ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述を行った。
これに対し、アレクセイこと田中幸一氏は、自身の運営する「BBSアレクセイの花園」にて、2月11日(日)01時01分22秒に、同様のことを指摘する記述を行った。
このことを、私はミクシィでの私の日記(2007年02月11日08:52)に書いたところ、アレクセイこと田中幸一氏の反感を買った。
時間の流れからすれば、私が書いたのが先であり、これに関してとやかく言われる筋合いはない。
また、「かくかくしかじか」は、読めば誰でも気づくところであり、私の指摘もたいしたことはない。人によっては「スボラ流省略の極意」という人もあれば、「メタ・フィクション」傾向を見出す人もいるだけだと思う。また、アレクセイ氏の指摘が遅れたのも、単に『キララ、探偵す。』の表紙のメイドの絵に、羞恥を覚えて購入が遅れただけだと思う。
アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。
それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。

(2)前述の『キララ、探偵す。』を巡って起きた不協和音は、私が「批評におけるパラダイムの混在」という文章を、2007年02月15日01:48、ミクシィにアップしたことから激化して、今日に至るまでの議論となった。
「批評におけるパラダイムの混在」には、次のような記述がある。

※以下は、引用です。

>例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
>これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、
>>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。
>というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィで探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。

ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。
『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義的テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義の弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。

アレクセイ氏の件に話を戻そう。『構造と力』の解釈に関する私の疑問に、すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返しているアレクセイ氏とは、一体何者なのか。本当に「文芸評論家」と呼べるに値するのか。あるいは、本当に笠井潔氏の思想を充分理解した上で、笠井潔氏批判をしているのだろうか。(ちなみに、このような議論をミクシィで始めてから、私のページに笠井潔氏の足あとが数回あった。だから、笠井氏はアレクセイ氏が議論のきっかけとなった『構造と力』に言及しないという不可思議な行動を認識した可能性がある。)『構造と力』は、一昔前とはいえ、ブームとなった本であり、批評の上でベーシックな本である。批判するにせよ、肯定するにせよ、仮にも評論家を名乗る以上、一応は押さえておくべき本であると思う。しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。
No.148 - 2007/02/27(Tue) 17:11:59

齟齬の根底にあるもの / はらだです
 アレクセイさんには、いままで恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。
 ただ、アレクセイさんの私に対する理解には、相当な誤解があるように思います。
 私はアレクセイさんの反権力的で、一匹狼的なスタイルが好もしいものに思えましたので、アレクセイさんのスタイルを模倣しようとしました。
 それと同時に、アレクセイさんの単なる追随者、あるいは家来になりたくなかったので、アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視するようになりました。真にアレクセイさんのようになるためには、アレクセイさんに従うようではだめで、アレクセイさんを超えなければならないと考えました。
 アレクセイさんには、想像もできないでしょうが、そういう人間もいるのだということをご理解いただきたいと思います。そうであるがゆえに、私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。
 アレクセイさんの標榜する「笠井潔葬送派」については、その反権力性、一匹狼性において、共感するものがありました。
 ひとつ、質問をしたいのですが、アレクセイさんは論考を書かれた際に、さまざまな場所でそれを紹介し、「ご笑読」くださいということを書かれるのですが、アレクセイさんは、本当にご自身の書かれたものが、笑って読めるものだとお考えなのでしょうか。
 正直、プラックユーモアを解さないためか、私はアレクセイさんの論考を笑って読めたことは、これまで一度もありませんでした。
 アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。
 アレクセイさんの書かれたものを大笑いして読める人が、アレクセイさんにとって、いい読者であるのならば、私は過去に遡っても、いい読者であったことはなかったといえます。
 思うに、アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれているのではないかと思います。この憎しみは、愛情の反転したものであると思いますが、スタート地点が憎悪であるがゆえに、その結論が冷笑であり、侮蔑であるということになるのだと思います。
 しかしながら、憎しみの感情は、その対象にピンを突き刺す代わりに、その対象によって自身のこころを不自由に拘束するのではないかと思います。私は、このような不自由さが嫌なのです。
 大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえていました。このような私を、アレクセイさんは論理の不徹底だと笑うのでしょうか、それとも偽善の上塗りだと断定するのでしょうか。
 アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
 はっきり言いましょう。アレクセイさんの批評のスタンツは、反権力的である限りにおいて、大筋において賛同しますが、その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法をとっていらっしゃいます。
 アレクセイさんがこれまで私にいろいろとよくしてくださったことには感謝しますが、私はアレクセイさんのこういう手法にはついていけないものを感じます。今回の齟齬の根底に、こういった考えの食い違いがあるのだと考えます。残念ながら、私はアレクセイ派ではありません。納得いかない部分があるということです。
No.147 - 2007/02/24(Sat) 00:52:39

Re: / はらだです
アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648 でのコメント参照)を読みました。この文章は、私にとって痛い文章ですが、そうであるがゆえに、深い厚情を感じずにはいられない文章です。ひょっとして、私は幸せ者かもしれません。 
 ここで書かれた私の性格に関する分析、例えば、
>(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている
>権威主義
>本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在(しない)
>(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。
は、まったく的確な指摘だと思います。 
 強いて言えば、アレクセイ氏のはらぴょん批判は、まだまだ寛容すぎ、評価が高すぎるように思われます。
 「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」ですと、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに追い詰められて、「BBSアレクセイの花園」で、あら探しをしたように取れますが、実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。だから、今以上に評価を落とさないと、真実とは言えないと思われます。
 また、(1)の有名人好きということに関して、アレクセイ氏が、おそらくは見落としているであろう点があります。私にとって、アレクセイ氏自身もまた、有名人であり、その評価もまた恣意的かつ感情的評価になりがちであるということです。
 例えば、アレクセイ氏の書かれた「さかしまのオマージュ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746)では、
『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)の箇所が、西尾維新の笠井潔の探偵小説観との乖離を示す論拠として示されるわけですが、果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。ですから、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに対して、(1)の有名人好きの傾向がある私は、小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになったということを告白せねばなりません。
 『キララ、探偵す。』の「かくかくしかじか」の件と、『構造と力』P134の件を書いた件について、アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648)では、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯であり(ですから、これに関する言及は一度限りでひっこめました。)、後者に関しては『テロルの現象学』で批判の対象となった対極的な本であり、笠井潔の専門家であるアレクセイ氏ならば専門領域であると考え、再三にわたり、言及した次第です。「はらぴょん論・序説」を読むまでは、アレクセイ氏は神聖にして侵すべからずの無誤謬主義ではないかと義憤に駆られていましたが(これなども、感情的な判断しかできない証拠といえます。)、冷静になって自分の文章を改めて読み直してみると、悪意を持った中傷と受け止められて、批判を受けるのは当然の、つたない表現だと気づきました。
 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。
No.146 - 2007/02/22(Thu) 01:11:01

見解 / はらだです
 私の理解することころでは、アレクセイ氏は、「批評におけるパラダイムの混在」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648で私が提示した分類、すなわち

1.現象学・実存主義のパラダイム

2.構造主義のパラダイム

3.文化記号論のパラダイム

4.ポスト構造主義のパラダイム

でいえば、地に足のついた"1あるいは合理主義"に沿って発言する人であって、2〜4に属する思想家について発言するときも、"1あるいは合理主義"から納得のいく領域だけを限定的に評価して利用しているおり、自分の納得のいかないことには言及しないことが、アレクセイ氏の強みであると考えてきました。

 ですから、「批評におけるパラダイムの混在」に関して云えば、アレクセイ氏に「批評におけるパラダイムの混在」が起こりようがなく、文中指摘した『構造と力』に関するどうみてもミスリーディングの箇所を、同居人(なのかな。まぁ、そこのところはよくわかりませんが。)のホランド氏に伝えて、問題のテキストを確認された上で、部分的に軌道修正すればいいだけの話であって、こんなところで怒ると「あれれ、どこかで批評におけるパラダイムの混在をやっている自覚があるんだろうか。」と邪推してしまいます。

 (ちなみに、この箇所の指摘は、「批評におけるパラダイムの混在」より前の日記ですでに書いていますが、見事に無視されましたので、だんだんくどく指摘しております。原文を読めば納得いただける箇所だと思いますので、ご検証をお願いします。なお、この箇所に見られるような適切でない批判は、今回、ホランド氏が原文全体を読んでいなかったためだと考えますので、訂正するのはホランド氏の方であり、私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。)

 「批評におけるパラダイムの混在」を読んだら、「そうそう、バタイユ主義者の笠井潔氏は、<栗本慎一郎は○で、山口昌男は×>の原則だったのに、なぜか『空の境界』の巻末解説では、山口評価をしてますからねぇ」といったようなコメントが返ってくると思ったのですが、的中しませんでした。

 それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。

 ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。
No.145 - 2007/02/20(Tue) 00:37:18
『ウロボロスの純正音律』 / はらだです
 『ウロボロスの純正音律』は、『ウロボロスの偽書』『ウロボロスの基礎論』に続くウロボロス・シリーズの掉尾を飾る作品であり、前2作と比較して、より本格ミステリ的構築性・求心性の高い作品となっている。
 物語の進行とともに、謎が増殖してゆくが、これはたったひとつの事実が見えていないがために起きた現象なのである。物語の舞台である玲瓏館はマシーンであり、最後の電子プロックを埋め込むと、低周波を発生させ、謎が氷解するようになっている。この欠けたピースが何かということは、数々の謎から論理的に導き出せるようになっている。読者は物語の最後までに、この最後のピースを探し当てればよい。物語の終焉までに探り当てれば、貴方の勝ち。探り当てることが出来なければ、作者の勝ち。
 このように、『ウロボロスの純正音律』は、「謎−解明」から成る本格ミステリのコードに沿った作品である。しかしながら、これを普通のミステリと受け取ればいいかというと、早計である。
 ポイントは、3点である。
(1)本書には、尋常ではない過剰な知(本格ミステリ・音楽学・囲碁・天文学と暦・図像学など)が投入されており、複雑系ミステリとしての特色があること。このことは、本書を繰り返し読むことに値するものにしている。(注1)
(2)玲瓏館で起きる連続殺人に対してミステリ作家・評論家らが探偵役として対峙し、複数のパースペクティヴに立った重層的な解釈を行っていること。
(3)『ウロボロスの純正音律』自体が、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に対するオマージュとして書かれていて、玲瓏館で起きる殺人も、古典ミステリの見立て殺人であり、先行する諸ミステリに対するメタ性を持たされていること。
 このように『ウロボロスの純正音律』は、一冊でありながら、数冊分のミステリに匹敵することをやっているのである。
 『ウロボロスの偽書』は、3つのパートから成る作品で、物語の進行とともに、それらが相互貫入し、現実と虚構の境界線が崩壊する作品であり、『ウロボロスの基礎論』もまた、2つのパートから成る作品てあったことを考えれば、『ウロボロスの純正音律』は一貫してひとつの事件を追いかけており、ストレートな本格であるかのように見えるが、先行するウロボロス・シリーズがそうであるように、『ウロボロスの純正音律』もまた書くことと読むことの謎が、主題としてあり、あたかも普通の本格ミステリであるかのように偽装されたミステロイド(擬似ミステリ)、すなわち一層手の込んだミステロイドと看做すべきではないかと考える(注2)。

(注1)『ウロボロスの純正音律』は、このような過剰な知の集積から成り立っており、その象徴が知のアルシーヴとしての玲瓏館の図書室である。このような知の集積が何をもたらすかといえば、ホログラムのように多種多様な読み取りを可能にする場を具現化させることに繋がり、ひいては流動的な知が息づくことを可能にする。このような流動的な知は、非対称的世界の分析的理性によってトゥリー型の知の体系のなかに捕捉しようとしても捉え切ることができない。
 『ウロボロスの純正音律』のホラー的部分は、われわれの住む非対称的世界から見ると、おぞましくも美しい対称的世界=純正音律が具現化された理想世界が、非対称の現実原則に直面して崩壊する悲劇にあり、このような主題を表現するためには混沌とした情報の渦巻く無意識のプールを描き、あらかじめ読者の世界観をこじ開けておく必要があったのである。

(注2)反リアリズム的観念小説を書いてきた倉橋由美子に、『城の中の城』という作品があり、この物語は、あたかもリアリズム(写実主義)に沿ったもののように見えるが、物語の初めと終わりにaとbという章があり、実はリアリズムであるかのように偽装した、一層手の込んだ反リアリズム作品であることが判る。竹本健治の今回の作品が、あたかも本格ミステリであるかのように偽装したミステロイドではないかという解釈は、『城の中の城』が念頭にあったことを白状しよう。
なお、『ウロボロスの純正音律』は、第一の被害者が出たあたりまでは、倉橋の『アマノン国往還記』を想起させた。アマノン国を玲瓏館に置き換え、オッス革命を企てるモノカミ教の宣教師Pを、ミステリ作家たちに置き換える。倉橋自身はアマノン国に否定的なようだが、それと同時にPをも相対化して、俯瞰的な視点からPの冒険をどたばた喜劇に仕立てる。『ウロボロスの純正音律』では、第一の被害者が出た後、モノカミ教ならぬミステリ・マニア特有の思考傾向を持つミステリ作家たちが、第一の被害者に誰々を選ぶとはそれだけで事件の格が落ちるなどと言いながら、嬉々として推理に興じるのである。これは、お笑い風どたばた喜劇の描き方である。
No.139 - 2006/10/05(Thu) 23:52:58
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