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虚無なる「匣の中の匣」

竹本健治ファンの評論連載の場として自由にお使いください
ここではノンフィクションが扱われます
各自の責任でこれらの情報をご利用ください

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予告なく削除することがあります
ご了承下さい

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WINGBEAT COFFEE ROASTERS
それが愉しみで…… / はらだです。
『純正音律』、9月かなぁ?

フーリエの『愛の新世界』の刊行は、ずれ込み始めましたし、ドゥルーズ=ガタリの文庫版もまだ出る気配がないですし、今のところ、楽しみは『純正音律』ですね。
No.138 - 2006/08/03(Thu) 00:52:53
「箱の中の中」について / 杉澤鷹里
 メフィスト掲載の山口雅也さんの短編「箱の中の中」は、タイトルからして俄然興味を惹かれます。
 ここを意識しているのかもー、と思ってしまいます。

『匣の中の欠落』と『奇愚』の作者が同一で、恋敵が『荒涼の匣』を書いている、というのもまた興味深かったり。
No.134 - 2006/04/23(Sun) 16:54:05
マイコプラズマ肺炎 / 杉澤鷹里
 マイコプラズマ肺炎は、マイコプラズマという病原体によって引き起こされる感染症であり、飛沫感染し、若年者の肺炎の大きな部分を占め、寄宿舎などの施設での流行があります。
 つまり、うつる病気です。
No.133 - 2006/04/16(Sun) 19:59:13
後出しじゃんけん / はらだです
竹本健治のウロボロスシリーズと笠井潔の天啓シリーズの刊行実績を見ますと、
『ウロボロスの偽書』1991.8.6→『ウロボロスの基礎論』1995.10.10→『天啓の宴』1996.11.25→『天啓の器』1998.9.25となっています。
続いて『ウロボロスの純正音律』が出るわけですが、たぶんそれを読んで、笠井氏は『天啓の虚』に加筆をして後から出すだろうと予測しています。
ご承知のように、天啓シリーズは、ウロボロスシリーズの批判のために書かれています。
つまり、批評する材料がないと、天啓シリーズは完成しない、つまり、ウロボロスに依存した創作であるという考えを、私は持っています。
そして、『天啓の虚』でどのような手を使ってきても、それより高い次元で、理論的は粉砕するのが、私の仕事だと考えています。

そのために、日頃の鍛錬はおろそかにできません。
竹本健治の著作一覧
http://milleplateaux.fc2web.com/page013.html
笠井潔の著作一覧
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=3995735&comm_id=559888
No.132 - 2006/03/15(Wed) 16:46:15
〈将来の社会科学〉 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
〈将来の社会科学〉が語られなければならない。
No.102 - 2006/01/15(Sun) 22:46:07

自己言及/協同現象 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 社会科学の基礎論を形作っていくにあたって脳科学と情報学とが重要であり、グラフ理論と統計力学とによって貫かれることで応用の局面まで達することが可能となる、という見取り図のもとに種々の考え方を示してきたわけですが、その流れの中で重要でありながら、今回、触れることの出来なかった考え方に、自己言及と協同現象とがあります。
 機会があれば、これらのことのついて話を深めていきたいと思うし、そのための勉強をしていきたいと思ってもいます。
No.131 - 2006/03/14(Tue) 18:58:04

アンチ実体化 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 民族問題についての議論において、常々不満に思うのは、きわめて安易な実体化がなされ、扱われているものの存在性格について、それ以上の考察がなされないことです。民族Aと民族Bとが対立していると語られることによって、民族Aや民族Bが明確な境界を持った均質な、あたかも一つの人格のように立ち現れてくる。そのとき多くの解決不可能な事柄が生じてしまう。
 具体的な個別の事柄を考えていくと、意外と民族の全体が関わってくることというのは少ないもので、そういう小さなスケールでの問題解決は、はるかになされやすいものです。

 ここで盛んに用いてきたのは、統計力学とグラフ理論という言葉ですが、そのエッセンスは、全体と個別の関わりを考えるということ、個と個の関わりを考えるということ、なのでした。そういう配慮が、安易な実体化を避けることを可能にする手段なのだと私は考えます。
No.130 - 2006/03/12(Sun) 16:10:04

南北問題・民族問題 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 私は、とてもささやかなレベルではあるんですが、南北問題や民族問題ということに実践的に関わってきました。

 ここで扱われているのは、それらの問題に特に有効となるような種類の思考様式だと思っています。
 あまりに抽象性が高いことから、実践と乖離した繊細な空中楼閣のような印象を与えるかもしれませんが、そうではなく、経験に裏打ちされた実践的な構えのもとに、それらの問題にアプローチをしていくときの拠り所となるように、指向されているんです。
No.126 - 2006/02/22(Wed) 07:48:47

力点 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 わけが分からないと評判だった〈将来の社会科学〉に、ここまで、注釈を加えてきたわけですが、いかがだったでしょうか。
 うーん、やはり充分に分かりやすい説明ができた! とは言えないように思います。それは一つにはベースにしている学問をその体系に則して説明していないということ、そしてもう一つにはあまりに性急に一般化をしているということ、そのために、伝わる力が弱くなってしまっていることを懼れます。
 ただ、一見繋がりが読み取れないような多方面にわたる議論が、ごくごく少数の基本的な考え方によって貫かれたものであるということはご理解いただけたかと思います。
 ここで、力点をいれて語られていたのは、話題のそれぞれではなく、それをそう解釈する思考様式についてであり、それは私が不可避に用いてしまう装置であるわけでした。
No.125 - 2006/02/21(Tue) 19:05:55

視覚=計算 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 なぜ、xy平面に生きていると錯認するのか。それは視覚がすでにして強力な計算装置だからである。高度な瞬時の計算が、実体→射影という幻想を生む。グラフ理論的入力→(計算)→擬制された実体というのが理路である。

*注釈*
 廣松渉は、「主観/客観」図式を批判する主旨で、山は、あそこにあるじゃないか、あそこにある山からやってきた光りを目で受け取って、そしてもう一度べたっとあそこに山があるという情報を貼り付けているとでもいうのか、それは論見先取ではないか、というような議論をしています。
 あそこに山があるという情報を貼り付けている、そういう計算がなされているのは事実だ、と私は主張します。だけれど、それは本当にあそこに山があるから、山をあそこに貼り付けているわけではなく、そういうふうに配置してあることがほかのことと一番矛盾しないので、そうしているだけなんだと私は注釈します。
 諸入力・諸出力と一番矛盾しないような物事の配置を、ありありとした生の世界だ、と我々は感じている、というわけです。

 さて、これで、「匣の中の匣」に投稿した〈将来の社会科学〉の全文に注釈を加えました。もう少し、言葉を補う必要を感じます。
No.123 - 2006/02/10(Fri) 07:36:13

グラフ理論 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 我々はxy平面に生きている(地図にプロットされる存在)というふうに擬制する。しかし、我々はグラフ理論的世界(地点Aから地点Bに移動する)にしか生きていない。地図を書けない/ニューヨークへの生き方を知っている女子大生は従って、正常である。

*注釈*
 以前、「ここがヘンだよ、日本人」という番組があって、その番組の中で、女子大生の無知をあざ笑うみたいな企画で、女子大生が世界地図を知らないということを取り上げていました。アメリカ合衆国の位置がグリーンランドにあったり、イギリスがユーラシア大陸に含まれている、というような「とんでもない珍答」が続出するという流れでした。
 でも、彼女らは、しかるべき手続きによって、アメリカやイギリスを旅行することが出来ているわけです。そして彼女らはそれで困ることがない。なぜなら、我々の生活でなされているのは、たとえば飛行機での移動など、点と点とを線で結ぶ(都市Aと都市Bを飛行機で結ぶ)、グラフ理論的な行為だからです。
 世界地図というのは、とても危険なものです。大きな誤った考えを植えつける。明確に外と境界された均質な国家、という誤った考えをです。
 アフリカのあちこちに引かれた直線的な国境というものに生じているおかしさが、象徴的ですけど、あの国境は、ヒトとヒトとの直接の交流の中で生じた国境ではなく、はじめに地図に引いた国境であり、それから逆算してその国境を守るということがなされちゃってるわけです。
No.121 - 2006/02/09(Thu) 08:15:43

脳の因果律 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 ただA→<脳>→A’と語る。そのときそれは脳を必要としない。A→A’によって代償される。A→<脳>→A’かつB→<脳>→B’と語る。このときそれが脳科学である。なぜならA→<脳>→B’という代償されない関係が成立するからである。矢によって脳を貫かれるということ。そのときに世界が見える。そのときに脳科学が成立する。

*注釈*
 世の中に出回っている、脳科学によって心を説明する、っていう議論の中には紛い物も多く含まれているわけです。それはどういうものかというと、同義反復となる、脳科学を持ってこなくても説明できるものです。たとえば、最近子供がキレやすくなったのは、朝食を食べない子供が多いからである。朝食を食べないと脳の発達に影響を与え、その結果キレやすくなるのだ。という、脳科学者の意見が紹介されていたことがあります。これは「朝食を食べない」→「脳の発達が阻害」→「キレやすくなる」という話です。ですが、これ単独では脳科学ではないわけです。なぜなら、改善策としてしめされたのは、「朝食を食べること」であり、それならば「朝食を食べない」→「キレやすくなる」という話で充分だからです。
 これが脳科学の一端となるためには、脳の発達の阻害ということに関与する別の因果律の存在も指摘する必要があるわけです。たとえば、「杉澤鷹里の小説を読む」→「脳の発達が促進」→「もっと杉澤鷹里の小説を読みたくなる」という因果律が別にあった場合に(「脳の発達が促進/抑制」という)脳科学が意味を持ちます。
 そのときはじめて、「杉澤鷹里の小説を読む」→「脳の発達が促進」→「キレにくくなる」という、脳科学を用いなければ、想像もつかなかった現象・解決策に思いいたるからです。
 そういう意味での「矢」、本来の意味的連関からおよそ隔たったところにあり、脳においてのみ交通するような、存在。それは多くは薬物ということになるでしょう。

(あのう、念のために補足。杉澤鷹里の小説を読むと脳の発達が促進するというような証拠は一切ありませんので、キレやすいお子さんに無理に杉澤鷹里の小説を読ませても、その効果のほどは保証できかねます)
No.120 - 2006/02/08(Wed) 08:10:37

科学と哲学 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 科学の圧倒的な伸長と、哲学の圧倒的な貧弱。それは、世界のいたるところに刻まれた外部記憶の・外部思考の洗練に因る。ただ観察すること。観察の手法を向上させることによって我々は、さらに様々な外部記憶と関与する。思考を深める。

*注釈*
 これまでしてきた議論や、これまでに示してきた考え方が、全て絡まりあう、そういうオールスター総出演のような議論が、ここではなされています。
 観察と行為とに本質的な差異はなく、外部思考と内部思考とに本質的な区別はないのでした。
 それから言えば、顕微鏡をのぞいたときに見える細胞の一個一個に記された外部思考と科学者の内部思考との複合体は、哲学者同士の連関によって成り立つ哲学内内部思考と、立場上同等なわけです。そしてその二つのグループは(明確に切断できるわけではないですが)前者のほうが発展的な仕事となっている。
 もちろんニグループを切断する必要などなく、実際のところ、哲学というのは、物理学上の知見や分子生物学上の知見によってかろうじて栄養され、なにがしかの発展がなされているというところがあると思います。

 観察することと観察する技法の洗練との重要性を唱えた、というわけです。
No.119 - 2006/02/07(Tue) 18:15:02

存在 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 関与するかぎりにおいて、存在する。量子力学の指摘すること、分子生物学の実験手法の示唆することは、この点を同じくする。行為とは関与することである。観察することもまた、関与する限りにおいて、存在者を見出す。行為することと観察することとは不可分である。

*注釈*
 量子力学が、関与するかぎりにおいて存在者を見出すということ、測定という行為が対象に不可避に影響を与えてしまうということ、は一般に流布した話であるようです。
 同じような議論を分子生物学でも、できるよな、というのが分子生物学を学んでいてつくづく思ったことでした。
 分子生物学というのは、無茶苦茶暴力的に概要を示すと、或る蛋白質がそこに有るのか無いのか、有る場合と無い場合とで、どのような違いがあるのかを調べる学問です。
 そこに或る蛋白質が有る、ということを示すために実に様々な工夫がなされるんです。つまり蛋白質を「観察」する技法なわけです。
 よく用いられる方法として、蛍光抗体法というのがあります。抗体というのは、自分の持っている特定の形に、適合するものにペタっとくっつくものです。抗体が凹形をしていた場合、凸形のものがあったら、それにペタッとくっつくんです。
 そして、抗体は蛍光標識することで光るようにできるので、特定の蛋白質の形に適合する抗体を、調べたいものにふりかけてやれば、或る蛋白質があれば、それに抗体がくっつき、我々はくっついている抗体の光を確認することができ、それによって蛋白質の有無を調べることが可能となるわけです。
 蛋白質に抗体が関わり、抗体の放つ光が私たちの網膜と関わる、という関与の連関があって、はじめて、蛋白質の存在を観察することができる、ということです。
 そのような関与の連関に加わる、ということが存在者の存在にとって本質なわけです。存在しているから種々の影響を与えるのではないんです。
 もし、そのような関与の連関に加わらないのであれば──一切の影響を他に与えないのであれば──それは存在しない、ということと同義になります。
 内と外とを完全に隔てる、完全な密室があれば、その中で密室殺人があろうとなかろうと知ることはできないので、それはナンセンスだ。って議論と同じロジックです。
No.117 - 2006/02/06(Mon) 14:28:02

認識と社会 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 認識は存在である。社会はどこにあるのか? 脳にある。脳の示す特有の構造にその大半を負う。残りの特有の構造を負うもの、それが情報学である。それからなお逃れゆくものはどこにあるのか? それがなお社会と呼ばれる。

*注釈*
 ちょっとここは、適切な表現ができていないところです。
 主張自体は、スーパーサイヤ人のディシプリンで示したものの、繰り返しですよね。それを特有の構造をめぐる議論をしてきた過程をふまえて、その考え方で味付けをして言っているわけです。
 認識は存在である、というのは、社会的現象を特に念頭において言っているわけですが、たとえば「正義がある」というときそれは「正義がある」という「認識」があるわけであり、「水素原子がある」のとは、少し性格を異にすると、一般には考えられています。けれど性格を異にするのですが、それでもそういう認識があるということは、紛れもない「特有の構造」なのであり、その観点から言えば、水素原子と同様の「存在」なのだ、ということです。
 認識は、脳科学的な確固とした存在=特有の構造である、と言いたいわけです。
 そして、社会というのは、そうやって認識されていることによって成り立つものなのだということです。現象学的社会学が成立するゆえんは、そうした個々の認識の特徴が社会の性質にダイレクトに反映されているからなのだ、ということだろうと思います。
 ただし、個々人が認識しているものから、社会はズレていくことがある。それはどうしてかというと、個々の認識に必ずしも還元することのできない、全体としての性質があるからです。もう一回り大きな「客観的」な世界に規定されるものがあるからです。それをカバーするのが、情報学ということになります。

 さてこの注釈では、本文と異なり、「個々の認識と、個から生じる全体の性質、についての科学によって充分に社会は説明できる!」そう主張しておくことにします。
 そっちのほうが分かりがいいでしょう。

「それからなお逃れゆくものはどこにあるのか? それがなお社会と呼ばれる」というような蛇足を、分かりにくくなるにも関わらず、私はなぜつけたのか? それはまた機会があるとき説明してみたいと思います。。
No.116 - 2006/02/05(Sun) 18:02:02

脳科学 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
「主観/客観」図式に摺り合わせよう。主観に徹底することによって、客観を捉え直し「主観/客観」図式の破綻にまで帰結するのが、現象学であるのならば、脳科学は、その逆の道のりを経て、「主観/客観」図式を破綻させる。科学は客観的存在物について語っているのではない。特有の構造を語るのである。

*注釈*
 ことの順番が後先になってしまった感はありますが、ここで、再び総論めいたものを言ってます。

「主観/客観」図式、というのは、典型的には、カメラのモデルであらわされるようなもの。カメラの外に、カメラを向けようが向けまいが変わらず広がる風景がある。それが客観的な世界。そしてカメラの内側にはカメラを通して風景を見ている小人さんがいる。それが主観。そういう図式です。
 で、心の世界とモノの世界とか、それらは切断されて議論されることになるわけです。本来、切断しえないものなのに。
 廣松渉は、徹底的にこの「主観/客観」的な図式を批判するわけです。たとえば、こういう議論です。世界そのものも、モノサシもまったく同じように縮んでしまったとしたら、それを主観的に知りうることはできるだろうか? できない。であるなら、客観的な世界の独立自存を言うことはできない。
 私が思うのは、一方で脳科学も「主観/客観」図式を破綻させている、ということです。「脳科学はしょせんモノについて扱っている議論で、そんなのでは、心は分からない」という批判をよく見かけますが、それは根本的な勘違いをしています。今まで、言い続けてきたことを繰り返しますが、大事なのは「脳を形づくっている物質ではなく、脳の物質内部に出現しうるパターンこそ鍵なの」であって、脳科学で脳内科学物質に見出しているパターンは、坂道を転がる玉にあらわれるパターンとは異なるわけです。
 そして、そのように見出されていくパターンは、主観とされる心と客観とされるモノとを分かちがたく結びつけ、その両者を切断するということが、ナンセンスであることを示すものなわけです。

 さて、くどいようですが、繰り返し。今まで科学がやってきたことは、パターンを見出してきた、ということです。近代科学の出発点であり大親分であるのは、力学だと思いますが、力学の教科書を開いてみたら何が書いてあるかというと、そこには「F=ma」など、式です。うんざりするほどたくさんの式が書いてある。式とは関係をあらわすものに他なりません。力学の教科書はモノのモノ性について語っているのではなく、関係について、パターンについて書いているんです。
No.114 - 2006/02/04(Sat) 14:28:41

記憶と計算 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 常に弛むことなく計算されている。ところで計算と記憶とは同じ規則に従う。外部計算というものがある。外部記憶と内部記憶が区別されない、これは外部計算と内部計算とが区別されないということと相補的である。計算、記憶、想起その他情報学的営為すなわち思考。繰り返そう。外部思考と内部思考とは区別されない。

*注釈*
「常に弛むことなくなされている」、ということを言うとき、考えていたのは、セルオートマトンの遷移です。原初的な計算機からパソコンにいたるまで、そこでなされている計算というものの内実は、単純な規則に従った遷移であるわけです。外部計算というのは、計算機でなされる、そうした計算のこと。
 で、ここでちょっと飛躍があって、ニューラルネットワークについての議論についてスライドしちゃいます。つまり暫定的な内部計算のモデルです。これもまた、遷移規則に従った遷移といっていい。記憶についても、ニューラルネットワーク的に実現されるというモデルがあり、従って計算と同質なものと扱うことができる。
 だから、辞書についてした議論を、もう一度、繰り返し言えるわけです。暗算の達人と、「計算機−暗算苦手なヒト」複合体について。ほとんど同一の議論ですが、そこには微妙な発展があるんです。
「客観的な事実の認識」ということから「主観的な思考の実践」ということへの。その両者には本質的な区別はない、というのが、私の立場です。
 確認しますと、一般的で常識的な感覚では、それら二つは隔たってあるものであり、その隔たった二つについて同じことが言えるのだと、そう言ってる点で発展なわけです。
No.113 - 2006/02/03(Fri) 14:12:36

外部記憶と内部記憶 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 外部記憶(アルバム)と内部記憶(狭義の記憶)とは、中国人の小部屋とおなじく、どの水準において特有の構造となるかという観点から捉えられる。ある水準においては、外部記憶と内部記憶とは区別されない。

*注釈*
 中国人の小部屋で述べたことの繰り返しになります。ある単語を記憶しているということと、ある単語の意味が記された辞書を持っているということとは、単語を知っている一個人と、「個人−辞書」複合体を比較するのであれば、同じとなる、ということです。
No.112 - 2006/02/02(Thu) 15:56:14

中国人の小部屋 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 小部屋にいる人物が、中国語を理解しているかどうかは、どの水準において特有の構造となるか、という問題である。

*注釈*
 いきなり、ここで、各論に入っていっちゃうわけです。先に提示した「グラフ理論」的に、「統計力学」的に、「脳科学」「情報学」上の種々の問題を考察してみよう、という話です。
「中国人の小部屋」というのは、正確な引用でないので、申し訳ないのですが、こういう哲学的な問いです。二つの小部屋がある。一つの小部屋には、中国人がいる。もう一つの小部屋には、イギリス人がいる。小部屋とは文字を介したやりとりしかできない。どちらの小部屋に対して、メッセージを送っても、まったく同じ返事がなされる。だけれど小部屋の中では、中国人は自分の頭で理解し、そして返事を書いているのに対して、イギリス人はあるルールに従って(部屋には巨大なルールブックがあるのでしょう)、漢字などという文字と文字の切れ目が分からないような絵画的な入力に対して、分からぬながら絵画的な出力をしている。このとき、この両者を区別できるだろうか。
 そういう問いです。まあ思想系の勉強会なんかだと、分かってても、分かってなくても、表面的にはまったく同じ発言ができたりすることもあるし、分かってないのになんかすごい発言をしたと受け取られることもあったりして、そういうズレがある以上、小部屋の中の中国人とイギリス人は、やはり違う、という感覚は自明のこととしてあるわけです。
 で、そのズレは明らかになるからズレなわけです。つまり、一回きりのやりとりなら、たまたま完全な一致をみるかもしれないけれど、蜿蜒とやりとりをしたときには、完全な一致というのは、なしえないだろう。それが、中国人とイギリス人との差であり、理解ということの差である、ということになろうと思います。
 だけれど、もし完全な一致をなしえたとき、私は以下のように考えたいと思うわけです。
 イギリス人それ自体は、中国語を理解していないかもしれないが、「イギリス人−ルールブック」という複合体は、中国語を理解していると言えるのだと。そしてそのとき、中国人の脳内で生じている何かしらのパターンと同一のものが、「イギリス人−ルールブック」複合体で生じているのだ、と。

……たとえば、頭の中の知識が足りて無くても、辞書の利用や、ネット検索などによって「表面的」に正しい知識を持っているように振舞えること。それは辞書やネットにまで拡大した身体を一つのものとみなす限りにおいて、その身体が正しい知識を持っているということだと解釈していいのだ、そういう話です。
No.110 - 2006/02/01(Wed) 08:37:21

スーパーサイヤ人のディシプリン / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 社会科学の基礎理論つまり「脳科学」「情報学」。
<社会科学の基礎理論>の基礎理論「グラフ理論」「統計力学」「フラクタル」。
徹底的に基礎的な理論はかえって、応用の局面においても失われない。

*注釈* ディシプリンというのは専門領域のこと。規律とか訓練とかいう意味もあります。スーパーサイヤ人というのは、エリート意識を持った人のこと、エリート意識をもった人を揶揄した言い方です。まあ、要するに私のことです。
 私は、社会を深く理解するための重要な専門領域として「脳科学」と「情報学」とがあるだろうと思ってるんですね。単純な話です。社会というのはヒトとヒトとの間に成り立ってるわけです。ヒトの心という要素をモノとして科学的に見たら、それは「脳科学」になるでしょう。ヒトとヒトとの間でなされる交流を科学的に見たら、それは「情報学」になるでしょう。論理的には、その二つで社会を十分網羅できるはずなのです。
 ただし、「脳科学」として脳内化学物質を追っかけていっても、「情報学」としてIntelのホームページを見ていても、それでは社会を見ていることにはなりません。先に示したように、「脳を形づくっている物質ではなく、脳の物質内部に出現しうるパターンこそ鍵なのだ」から。
 脳科学や情報学に内在し、かつそれが同時に社会について言及していることになるような「パターン」。それを見出そうと考えたときに大事になるのが、「数学」。私は「グラフ理論」や「統計力学」などが重要な数学だろうと考えています。「グラフ理論」というのは点とそれを結ぶ線とについての数学です。つまりこれ以上ない純化された関係です。「統計力学」は単純な要素が沢山集まったときに成り立つ全体が、どのような性質を持つか、ということを考える物理学です。それって個人が沢山集まったときにできる社会について、考えるということと極めて近いことだと思いませんか?
 少なくとも私は「その通りだ」と思ったわけです。
No.108 - 2006/01/30(Mon) 16:06:01

数学 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 学問とは(人間の営為とは、といってもいいかもしれない)結局のところ、数学を創るということである。創始される数学とはつまり特有の構造のことである。

*注釈*
 廣松渉とのからみでいえば、数学や論理学には、やはり単純にヒトとヒトとの間、によってのみ説明することのできない、「客観性」があるように思う、というのが私の言ってることです。
 
 ちょうど、ホフスタッターが二十周年記念版の『ゲーデル・エッシャー・バッハ』で、私の考えに近いところのことを言っています。
「脳を形づくっている物質ではなく、脳の物質内部に出現しうるパターンこそ鍵なのだ」
 たとえば、セルオートマトン。ごく簡単なルールに従い、碁盤に置かれた石が、まわりとの位置関係によって、めまぐるしく生滅する。初期の置石の状態によっては、グライダーやイーターなど、きわめて興味深い変遷を辿る。そのとき注目すべきことは、これは碁石でなくパソコンの中で行われても、別の何かによって行われても、グライダーやイーターということの本質が損なわれるわけではないということです。それらは、関係・パターン・形式つまり特有の構造ということこそ重要なのだ、そういう主張です。
No.107 - 2006/01/28(Sat) 18:03:55

不在と無意味 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 徹底して基底的な層というものを想定しよう。それはセルオートマトンのようなものとして想起されるだろう。すべては合法則的に進行するとされる。そのときそれは無意味である。無意味である以上不在である。「不在と無意味」とは端的に科学である。
「不在と無意味」から思考しようとしない態度、「不在と無意味」を志向しようとしない態度は、戒められねばならない。科学者はしかし、十分に飛翔せず、存在と意味から考える。存在と意味を考える。

*注釈* いきなり一番厄介な話です。自分自身よく見定められていない話。また詳細はあとで立ち返ってやるとして、ざっと概観を触れておきます。「不在と無意味」は、廣松渉の『存在と意味』を意識したもの。『存在と意味』は、世界の共同主観的な存立を主張するものです。客観的な事実とされるものも、主観的な感情とされるものも、すべてヒトとヒトとの間に生じるものだ、大ざっぱにいうと、そういう話です。客観的な存在、論理的な正しさなど、ない。とらえ方によっては、そういう話でもあるわけです。
 ものすごい重要な指摘です。

 科学的な事実というのは、客観的で、立場によらない、と考えられています。ですが、そういうふうに語られるものも、実はどっぷりと間主観的な「価値」に浸っている。でも、それでは客観性がないからといって、徹底的にそういう偏った価値を排していったとして、徹底的に排したとすると、何にも残らない。ある特定の価値に即してしか、世界は立ち現れてこないからです。

 一方でこれ以上ない客観的な事実と思うものも特定の価値に基づいたものだということ、一方でしかし特定の価値に基づいてしか事実というのは現れてこないということ、その二つを意識しておくことは、とても大事だということを、一つの核として、ここでは言っています。

 もう一つの核があります。思いっきり廣松渉に反する、考え。
 その、もう一つの相矛盾することも言おうとしているがために、ここのところは分かりにくくなっていると思うのですが。
 私は、そういう認識するものと認識されるものの相応する間主観的なメカニズムをひっくるめて、もう一回り大きな「客観的世界」がある可能性を排除できないように思っています。その「客観的世界」の表象にもっとも近いのが、ライフゲームに代表されるようなセルオートマトン。
 以下に続く議論は、セルオートマトンを念頭におきながら、なされていきます。
No.106 - 2006/01/22(Sun) 17:59:51

〈将来の社会科学〉 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
〈将来の社会科学〉が語られなければならない。それは〈社会科学の将来〉を語るということではない
(類比的に説明しよう。日本人の将来というとき、それは現在において日本人と指し示されるものの将来ということであり、将来の日本人というとき、それは現在必ずしも、日本人とはされないもの、例えば日本文化に傾倒するアメリカ人青年・フィリピン人のホステスについて、ということである)

*注釈* 人間関係論や国際関係論というような学問に先立って、一般関係論というようなものがあるだろうと考えています。後に触れるように、一般関係論は、グラフ理論と呼ばれる数学や、統計物理学と呼ばれる物理学、脳科学などの学問と非常に密接なかかわりを持つものです。それらは現段階では、社会科学とみなされていない固有の学問であり、社会科学研究をしようという集まりで、そういう学問の知識を披露すると反発され疎外されること請け合いです。
 ここでは、社会について考えるときに、まずは数学やるのが当然っていうのが将来的な状況になるだろう、という予言というか、そうしてやる、っていう宣言をしているというか、ともあれ、そういうことを言っているわけです。
No.105 - 2006/01/21(Sat) 19:44:13

語る意志 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 今ここで、何らかのかたちで語る意志を示さなければ、もうこれ以降、〈将来の社会科学〉が語られることはないだろうから。
 だから、私は、ここに記す。

 以前、「匣の中の匣」に投稿した〈将来の社会科学〉に、可能な限り注釈をつけることで、私が何を志してきたか、その目的や方向性だけでもなるべく分かりやすく話したいと思う。
No.103 - 2006/01/15(Sun) 22:52:48
連絡 / 管理人
少年回廊BBS(竹本健治ファン交流掲示板)のアドレスが変わりました。
新アドレスは、以下の通りです。
http://haruka.rash.jp/TKMT/light.cgi

※ホームページ内のリンクについては、次回更新時に変更いたします。
まずは、掲示板にて先に連絡させていただきました。
No.129 - 2006/03/02(Thu) 23:14:22
THE THAKALIを読む / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 Michael Vinding著“THE THAKALI”を読んでいこう。
 これは副題に A HIMALAYAN ETHNOGRAPHYとあるとおり、ネパール山岳地帯での二十年を越える文化人類学調査の成果をまとめた民族誌である。
No.74 - 2005/03/13(Sun) 21:23:05

1.Thak kholaについて(6) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 Thak Kholaの古い居住地は、そそり立つ崖の上にあり、もともとは壁に守られていた。貿易と農業とがより重要になるにつれ、新しい居住地は、崖の下へと移っていくようになった。
 家の大きさは様々であるが、ネパールの他地域に比べ概して大きく造りも良い。中庭を囲むように造られるのが特徴で、風に守られた中庭で、料理、子供の世話、人との交流、昼寝などをして、Thakaliはほとんどの時間を過す。台所を中心に、内装がよく整えられているのも、もう一つの特徴である。(p.13)
 
 1983年にMharsyangkyu(Chokopani)に水力発電所が設けられ、谷の北部に電力を供給するようになった。
No.128 - 2006/02/26(Sun) 13:30:44

1.Thak kholaについて(5) / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 居住について。
 居住の観点からThak Kholaは大きく二つに分けることが出来る。Thakと呼ばれる南部とYhulnghaと呼ばれる北部とである。あるいはNepal語でThaksatsae(タック七百の意)とPacgau(五つの村の意)の方が通りがいいかもしれない。
 行政上、谷は6つのVDC(村落開発委員会)に分けられる。Jomsom, Marpha, Tukce, Kobang, Lete, Kunjo である。この行政区は実際の村の区分に対応していない。たとえばPacgauの一つ、Syang村の大部分は折り合いの悪い隣村のMarpha村と伴にMarphaVDCに属する一方で、村のものが所有する土地の一部はJomsomVDCに属する。

 Jomsomに空港が出来たことは決定的な意味を持つ。それまでただの荒野であった空港周辺の土地が、今では谷の中心地となり、宿泊施設や商店、役所が建ち並ぶ。
No.90 - 2005/03/27(Sun) 22:50:22

1.Thak kholaについて(4) / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 交通手段について見ておく。
 Thak Kholaは、南のBeniにある最も近い車の通ることの出来る道から、約70km隔たっている。これは徒歩で3日に相当する。
 歴史的にチベットとネパールとの通商の主要路であった(ヒトや馬、驢馬、騾馬、山羊、ヤクなどの通る)道が、谷底を走っている。
 大河Kali Gandakiが東西にこの地域を別けているため、橋はとても重要である。
 地域の共同体が架けた完全な木製の橋のほか、政府が架けたワイヤを用いた吊り橋が河に架けられている。また雨季(夏)と乾季(冬)とで河の水量が異なっているため、乾季にだけ架けられ、その時期だけ渡ることのできる橋もある。

 1959年チベットからの難民の大量の流入に伴い、1962年に不足する物資の輸送を目的にJomsomに空港が建設された。1972-73年に定期便がはじまる。ネパールで二番目に大きい都市Pokharaまで30分で行くことができる。
No.87 - 2005/03/24(Thu) 15:17:48

1.Thak kholaについて(3) / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 蛇足めいたものを記しておこう。本書では記されていないが、さらにその上には何があるのだろうか? 
 その上には植物はない。ただ草木生えぬ、万年雪に覆われたヒマールがあるのである。

 植物に続き、動物についても確認しておこう。
 この地域に生息する動物には以下のようなものがいる。
 ジャッカル(syal)、野ウサギ(rhopang)、ヒョウ(mhang)、キツネ(phyau)、ジャコウジカ(lho)、ラングール(ヤセザル:bandar)、シカ(pho)、クマ(tokong)、ヤギ、レイヨウ(ghoral)、コウモリ(phopang:Thakaliはこれを鳥と分類する)
 またいろいろな種類の鳥(nemyang)も見られる。
 ヤマウズラ(tangco)、キジ(nathang)、ハゲワシ(jya)、ワシ(tikya)、タカ(khya)、スズメ(khya nemyang)、フクロウ(hukku)、ハト(dokung)、カラス(daprang)、ワタリガラス(pui kong)などである。(p.12)
 
 Thak kholaを特徴づけるものの一つに風がある。昼から夕方にかけて、南より北へつまり低きより高きへと風(nambar)が吹きつけるのである。風速は時に45knot(23m/s)にも達する。(p.11)
No.80 - 2005/03/22(Tue) 16:26:20

1.Thak kholaについて(2) / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 その多様な植生について模式的な図を示しておこう。
 まず谷を南北に沿って見よう。
 Thak khola南部は亜熱帯性の気候であり森が村に近く落葉樹が見られる。谷に沿い北に進むとKalopaniを境として落葉樹は見られなくなり、それより北では青松など針葉樹の森となる。
 続いて谷の北部において、(谷底から山へと)東西の方向に直交して見ていこう。
 谷底、つまり村の周辺には潅木がまばらに見られ、種々のベリーが生えている。木々はほとんどなく、わずかに白楊(syopla)、柳(cyami)が見られるのみである。群雀(ムレスズメ)、蓬(ヨモギ)のなす茂みが村の周辺から高度4100mに達するまで続いている。
 Cypressus torulosa(cang syiki)による桧の森(dong)は、2900mから3500mの範囲に見られる。
 ビャクシンと松(thang dung)の森(ngha)がその上、3500mから3900mに位置する。
 モミ(ki dung)とカバノキ(khyal dung)がさらにその上、3900mから4100mを占める。またこの高度ではツツジ(par dung)が一部で見られる。
 これより上ではセイヨウネズ(pa dung)が見られ、さらに上ではCaragana brevispinaの草地(pang)となる。
No.79 - 2005/03/21(Mon) 11:55:37

1.Thak kholaについて(1) / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 THAK KHOLAは壁立するヒマラヤを南北に縫うように走る谷の一つである。ネパール王国の首都カトマンドゥから北西約300kmのところに位置し、南はGhasaより発し北はJomsomに終わる全長30kmの谷である。その東西にあって谷の壁をなすのは、DhaulagiriI、AnnapurnaIなどの世界の屋根ともいえる8000m級の山々であり、谷との高低差は最大6000m。世界で最も深い谷と言える。(p.9)
 谷に沿ってKali Gandaki河(Thakali語ではOmdo kyu)が流れている。この河はチベットとの国境にある山々より発し、川幅は数百メートルに達する大河である。(p.10)
 高低差に富んだ地形のために谷の気候はきわめて多様であり、たとえば年間降水量一つとってもわずか20kmしか隔たっていないKalopaniとJomsomのそれは1041mmと248mmであり、大きく異なっている。
 植物や動物などもそれに応じて(あるいはそれに加え、傾斜の度合いや土壌の質や日のあたり具合に応じて)実に多種多様に変化する。(p.11)
No.78 - 2005/03/20(Sun) 10:05:09

Chapter I THE THAK KHOLA VALLEY / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 Chapter IではThak kholaについて概説している。
 その位置、自然環境、居住者、移動手段などについて、である。
No.77 - 2005/03/20(Sun) 10:03:52

0.ネパール王国 / 杉澤鷹里 [ Home ] [ Mail ]
 基本的なことを確認しておこう。
 
 THAK KHOLA(国境の谷、の意)というのが、この民族誌の舞台になる。そのTHAK KHOLAがあるネパール王国についてまずは見ておこう。

 ネパール王国は、東経80度から88度(東西の距離約850キロメートル)北緯36度から北緯30度(平均して南北に約180キロメートル)のところに位置し、北では中国と接し、残りの三方向をインドに囲まれた内陸国である。東京からネパールの首都カトマンドゥまでは、約5000キロメートル離れている。
 ネパール王国の地理的特色は、長いヒマラヤ山脈の中央部を占める国だということ。
 チベット高原からインドの平野に向かって傾斜している大斜面がまずあり、そこにヒマラヤ山脈が衝立のように聳えたっている、という状況を想像していただきたい。全体的には北から南に傾斜しているため、ネパール王国は、南北に流れる河川によって、国土が分断されている。そして海抜100メートルから8000メートルまでという高低差の激しい変化がある。そのために、高度に応じて自然風土も激しく変わっている。
 そんな地形状の特異性をふまえ山岳、丘陵、タライ(と呼ばれる平野)の三地域に区分するとネパール王国の地理的な全体像がつかみやすくなる。この区分は、自然条件、文化や民族、生活習慣などを把握する上で重要なものとなるのだ。
 ごく簡単にその三地域の特徴を述べておく。
(1)山岳地帯 標高3000から4000メートル以上を言う。北部の中国に近い地域である。チベット系の民族が居住し、チベットとの交流がある。気候は亜寒帯、寒帯に属する。耕地に乏しく寒冷地であるため農業にはあまり適していない。牧畜を中心とし、灌漑を利用して夏作に大麦や雑穀が作られている。
(3)丘陵地帯 標高1000メートルから3〜4000メートルの地域。温帯に属する。冬作に大麦、小麦。夏には、ソバ、ヒエ、トウモロコシが生産され、盆地では水田稲作も行われる。カトマンドゥ盆地もこの地域に属するが、カトマンドゥ盆地は古くから政治の中心地であったことやその他さまざまな点で、ほかの丘陵地帯と性質を異にする。。
(3)タライ 標高数十メートルから1200メートルくらいまでの平野。亜熱帯に属し、インドとの国境がオープン・ボーダーになっており、インドとの結びつきが強い。水稲や商品作物の生産が盛んで、二毛作、三毛作も可能である。
 この民族誌が焦点をあてているThak Kholaは、この区分では、(1)山岳地帯と(2)丘陵地帯(の高部)にあたる。
No.75 - 2005/03/13(Sun) 21:24:24
援助について / 杉澤鷹里
 贈り物をおくるということは暴力的な行為であり、贈り物をおくるものは、それゆえに相手に憎まれる可能性がある、ということを深く認識すべきなのです。

 このことは直感的には理解し難いかもしれません。
 でも、こういう場面を考えれば、理解できるでしょう。

 ある男女が別れることになり、女は男にプレゼントされた指輪を叩き返した。

 よくある光景のように見えます。
 なぜ、女は男に指輪を返すのか?
 それは、贈り物というのが、本来的には、受け取り手に負債感を抱かせるようなものだからです。それは、送り手に対する受け取り手の従属感と言ってもいい(借金取りと借り手の関係)。両者の関係が良好な時は、その従属的な関係は恋愛関係というような言葉で言い換えられ、その否定的な意味合いは隠蔽される。だけれど、両者の関係が破綻したとき、隠蔽されていた否定的な側面が露呈してしまう。
 そのため、プレゼントの指輪は拭いきれない負債感を女に与えるものとして、存在してしまう。そういうことではないでしょうか。

 そして、それが贈り物というもの一般の、基底にあるものだと思うのです。
No.96 - 2005/07/24(Sun) 23:52:25

負債感について / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 環境問題、フェミニズム、南北問題、北朝鮮問題などに対して、過剰な反発を覚えるヒトというのが確かにいて、そのヒトたちにはある種の傾向があるように思います。まじめで、ちょっと理想が高くて、そして優しい。そういうヒトが、ヒステリックなまでに反発する。
 それは、彼らが不可避に抱いてしまう、負債感のゆえの反発なのだと考えます。つまり反発者は、環境保護運動家が、あるいはフェミニストが主張するその主張について十分に納得しその論旨の妥当性を認めている。認めるがために、それはぬぐいがたい罪悪感を心に植えつける。その罪悪感を払拭せんとするために、アラサガシをして過剰な反発をし、相手のことを否定する。
 本当に相手が間違ったことを言っているのなら、それはどうでもいいことなわけです。反発するのは、ほとんど共感してしまっているから。まじめで理想が高く優しいからこそ、環境問題について女性の差別について朝鮮半島の植民地支配について、負債感を抱いてしまう。

 私は自分にも、そういうまじめさ理想の高さ優しさがあることを認めます。だからこそ抱いてしまう負債感のゆえに適切な態度が取れない瞬間があることを認めます。
No.104 - 2006/01/17(Tue) 13:42:09

援助交際について / 杉澤鷹里
 当然この議論は、援助交際における「援助」にも、適応されるものと考える。

 経済力において優位にあるものが相手を性的に従属させる。援助の暴力性がこれ以上露呈しているものがあるだろうか。

……と、考えたくなるのだが。

 援助されているはずの当の本人たちの言動をみると、「等価交換(サービスとそれに対応した代価という、負債感や優越感を抱く必要のない関係)」だと思ってやってんだろうな、と思わされる。あきれるくらい、そこには精神的な意味合いがないのだ。……などと分かったようなこと言ってみたけど、実はよく知らない。所詮はテレビからの情報に過ぎないからね。

 あるいは、「略奪」という考え方だってできる。「贈与」は与えたものが優位に立つのだが、「略奪」ではむしろ与えたもののほうが従属するのだ。
 援助交際で従属しているのは、援助しているはずの中年男だというわけだ。女性の女性性にある種の男は、あわれなほど無力である。
No.97 - 2005/07/31(Sun) 12:09:21
ふたつの『ジョーカー』 / T.Harada
清涼院流水の『ジョーカー 旧約探偵神話』(講談社ノベルス、1997)には、次のような記述がある。
「幻影城という暗黒の死の館における、虚無的な事件の記憶ー幻魔作用(ドクラ・マグラ)の数々を真空パックした……、禁断の魔書(ネクロノミコン)。[中略]これはもう、本ではない。……その正体は魍魎を飼う檻?それとも、ウロボロスの匣?[中略]天啓の宴に続くのは、溜水の中のDARK SHOW。」(764頁〜765頁より)
勿論、この文章の中には、江戸川乱歩の『幻影城』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、中井英夫の『虚無への供物』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、ラヴクラフトのクトゥルー神話に出てくる『ネクロノミコン』、京極夏彦の『魍魎の匣』と『鉄鼠の檻』、竹本健治の『ウロボロスの偽書(あるいはウロボロスの基礎論)』と『匣の中の失楽』、笠井潔の『天啓の宴』が埋め込まれており、先行するこれらの作品を、清涼院が理想としてきたことが伺われる。
しかしながら、『ジョーカー 涼』(講談社文庫、2000)では、推敲の結果「幻影城という暗黒の死の館における、虚無的な事件の記憶ー幻魔作用(ドクラ・マグラ)の数々を真空パックした……、禁断の魔書(ネクロノミコン)。」(487頁より)という表現だけが残され、その他の部分がカットされている。
削られた部分の共通項は、現存する作家の作品に関わる箇所である。
これらの事実から、
(1)先行する作家から清涼院への影響関係が推測される。
(2)推敲による削除が、単に無駄な記述を削るというだけではなく、これらの現存する作家の中での清涼院の位置が関係している気がする。
私がかつて注目したのは、1985年当時のニューアカデミズムと、2000年の新本格のムーブメンツの相関関係である。
以下は、文壇(もしくは論壇)デビュー時期や作品のオリジナリティーの有無を一旦かっこで括り、その作品の方向性だけから判断した見立てである。

1985年の思想業界→→→2000年のミステリ業界
浅田彰→→スキゾ・前衛性・速度への愛→→清涼院流水
中沢新一→→スキゾ・神秘的なものへの関心→→竹本健治
笠井潔→→パラノ・反ニューアカ→→笠井潔
小松和彦→→民俗学的・妖怪学的関心→→京極夏彦
柄谷行人→→ゲーデル的問題→後期クイーン的問題→法月綸太郎

以下の清涼院の手紙で、「1985年と2000年の文化状況の対比」と言っているのは、この見立てのことを指している。
http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/img401.jpg

この見立てが正しければ、笠井潔の眼には、竹本健治や清涼院流水にかつて自分を苦しめたニューアカの影をオーバーラップして見てしまう現象が起きる。(実際、笠井潔は『探偵小説と二〇世紀精神』で、竹本健治を中沢新一に見立てる東浩紀の見解に反応している。)
といったことを考慮すると、ひとつの文章の中に、これら複数の現役作家の作品を共存させておくことは、あまりにもナイーヴということになる。
ちょうど2000年の『ジョーカー』の文庫化の頃、これらの対立図式を、清涼院が意識し始めたのではないか、と私は考える。
No.101 - 2006/01/01(Sun) 01:21:18
『探偵小説と二十世紀精神』 / T.Harada
笠井潔にとって、連合赤軍事件、またそれを引き起こした永田洋子は、<最悪>を意味する。連合赤軍事件のようだ、とか、永田洋子のようだ、と彼が言うとき、それ以上の<悪>はないというレベルの<悪>であることを意味する。
その笠井潔が、新刊『探偵小説と二十世紀精神』のなかで「赤軍派の活動家の感覚には『匣の中の失楽』で竹本健治が描いたところの、濃霧の底に閉じ込められて鬱屈し、不連続線を超える可能性を夢見る不幸な青年と共通するところがある。」(165頁)と書いている。さらに続けて笠井は、戦後の政治青年は北朝鮮やパレスチナに向かったが、そこに「冒険」や「越境」を夢見ることができなくなった後の世代に竹本健治がおり、竹本はリンチ殺人の代わりに「抽象的な殺人をめぐる物語を書くことになる。」(166ページ)と書く。
こうして、世代こそ違えども、笠井潔は竹本健治を非政治的な永田洋子に、『匣の中の失楽』を紙の上の連合赤軍事件に重ね合わせ、読者に悪い印象を植え付けようと努力する。
笠井潔は、竹本健治に起因する「タコ足型の「自己消費型」」(『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか』「26 『大量生産』と『自己消費』の二重構造」)のミステリを、新本格派ブームに先立つところの浅田彰らのニューアカデミズム(日本のポストモダニズム)のブームと重ね合わせていたから、結局、論点をまとめると以下のようになる。

善玉(笠井潔)
悪玉(永田洋子<マルクス主義>、浅田彰<ポストモダニズム>、竹本健治<脱格系ミステリ>)

年を追うごとに、笠井潔の善悪二元論は極端になってきており、ついに『探偵小説と二十世紀精神』では、ミステリ作家を捕まえてきて、殺人テロリストと同一の範疇にぶち込むという手荒な論評をするようになったというわけである。
笠井潔は、日本のヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)というべき存在だが、ヌーヴォー・フィロゾフについてドゥルーズは哲学的にはまったく無価値であり、なぜかというと彼らは知のマーケティングを行うだけで、思想的には善と悪の二項対立を持ち出すだけだからという趣旨の発言をしたことがある。
笠井潔も、ドゥルーズの言った批判がぴったり当てはまるようになってきたといえる。笠井潔は、知のマーケティングの結果、TYPE-MOONの人気を利用して自分の売り上げを伸ばそうとし、自分の趣味に合わないものは、ことごとく「連合赤軍みたいだ」という。これは思想でも、批評でもない。単なる名誉毀損の言説を吐いているだけなのだ。
とはいえ、『探偵小説と二十世紀精神』は、そういう馬鹿馬鹿しさに笑いをこらえて読むには最適の本だ。自分の趣味(主義ではない)で、善悪にバッサバッサ分けて、自分が実にスターリン主義的な振る舞いをしていることに気づかないのだろうか。誰か笠井潔に鏡を見せてやれ!

[補足]
吉本隆明と笠井潔・川村湊・竹田青嗣の対談集『不断革命の時代』(河出書房新社)のなかで、吉本隆明は笠井潔に「笠井さんのいまの話(補足:笠井はその直前でスターリン主義批判を倣岸・卑屈・無知といった水準で批判するのではなく、党は観念の弁証法の批判まで徹底する必要があることを力説している。)を聞いていて、『テロルの現象学』を読んだときもそうでしたが、埴谷さんとおなじで、笠井さんの観点は、知という観点のような気がしてしょうがないんですね。と僕がそういう言い方を、たびたび繰り返してきたんですが、大衆の原像を繰り込めない知は結局は、党派として無限に閉じられてゆくことをさけることは出来ないのではないでしょうか。」(43ページ)と言っています。
この吉本による批判(笠井路線は党派として無限に閉じられる方向に進む危険性があるということ)は的中し、現在自分のつくり上げた理論体系の外にある人に対し、笠井派への転向か、それとも「永田洋子」とともに葬送されたいのか、という二者択一の踏み絵を迫るまでになってしまっているという印象を受けます。
笠井潔が二十世紀精神という言葉を書くとき、そこには強力な体系への意志を感じます。大量死と大量生の観点からの史観を打ち立てた笠井潔は、実存主義のテクニカル・タームを散りばめているにもかかわらず、ヘーゲル的な壮大な体系を打ち立てたという自負がありありと伺えます。
ところで、体系への意志は、誠実さを欠くということを指摘したのは、ニーチェでした。単独者の観点と、壮大な史観ほどそぐわないものはありません。笠井潔は、壮大な史観を手に入れるために、自身の出発点に大きな裏切りをしているように思われます。
No.100 - 2005/12/01(Thu) 00:37:25
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