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虚無なる「匣の中の匣」

竹本健治ファンの評論連載の場として自由にお使いください
ここではノンフィクションが扱われます
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ゲーム殺人事件 / T.Harada [ Home ]
竹本健治の「ゲーム殺人事件」三部作について考える。以下は、そのたたき台。

◆狂気の捉えかたについて
『囲碁殺人事件』……物的世界観的な狂気の捉えかた。
『将棋殺人事件』……理的世界観的な狂気の捉えかた。
『トランプ殺人事件』……事的世界観的な狂気の捉えかた。
物的世界観では、狂気はそれ自体として実体としてあるとされる。
事的世界観では、狂気は実体としてあるわけではなく、関係論的にあるかのごとく析出される。
理的世界観は、物的世界観から事的世界観への認識の深まりの過程としてある。

◆ミステリの形式について
この場合、形式は狂気を入れる器としてある。
『囲碁殺人事件』……ストイックな本格ミステリ
『将棋殺人事件』……極めつけの変格ミステリ
『トランプ殺人事件』……世界を反転させる反ミステリの序章
『囲碁』から『トランプ』へは、メタ化への生成過程がみてとれる。あたかも溢れ出る狂気を受け止めるためのように、器は複雑化の一途を辿る。
No.5 - 2004/10/30(Sat) 23:51:03
ポストモダン再考 / T.Harada [ Home ]
ポストモダニズムは、現在以下のような批判に晒されている。

(1)ポストモダニズムに含まれている科学の言説が、「当世流行馬鹿噺(ファッショナブル・ナンセンス)」であるという批判
アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞―― ポストモダン思想における科学の濫用 ―― 』(岩波書店)
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/6/0056780.html

しかしながら、ポストモダニズムにおける科学のディスクールは、主として哲学的なメタファー、たとえ話として用いられており、それはポストモダニズムに始まったことではなく、スピノザ、ライプニッツ、ベルクソンといった人々が既にそのようなことをしていたのである。例えば、ドゥルーズは哲学史の研究家でもあり、スピノザ、ライプニッツ、ベルクソンといった哲学者について独自の読み直しをしている。そういう哲学的文脈の中で発言しているのであるから、それを押さえずに、表面だけをなぞって皮相な見方になっても、浅はかとしか言いようがない。

(2)マインドは肉に埋め込まれており、分離はできないにもかかわらず、ポストモダニズムは、肉体の存在を忘れているという脳科学からなされた批判。
G・レイコフ、M・ジョンソン 著 計見一雄 訳『肉中の哲学――肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』(哲学書房)
http://www.tetsugakushobo.com/book/092.html

<肉>という言葉から、メルロ=ポンティの晩年の思想を思い出してしまった。それにしても、精神が肉体から分離はできないというのは本当か?どうも疑わしい。
No.4 - 2004/10/30(Sat) 22:19:13
「討論・笠井潔について」 / T.Harada [ Home ]
「討論・笠井潔について」
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html
についてであるが、アレクセイ氏も、私も「笠井潔葬送派」を自称しているからといって、その立場は同一ではない。
私の立場は、主として笠井潔の思想の適用可能な範囲を限定し、乗り越えられるべき思想の一段階とすることにある。
一方、アレクセイ氏の場合、本格ミステリ作家クラブや探偵小説研究会結成の中心的存在であった笠井潔の党派的な振る舞いを批判し、現在の笠井潔は、『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』の頃の笠井潔の立場を裏切っているとするものである。
つまり、アレクセイ氏は、現在の笠井潔への葬送を唱えているのであって、文壇デビュー当時の笠井潔は、現在も高く評価しているのに対し、私の立場は、過去も含めて笠井潔は乗り越えるべきハードルと考えているわけで、同一の立場ではまったくないのである。
アレクセイ氏は、まず見えるところから攻めるタイプのようで、笠井潔は自分の立場の延命のために、思想でもなんでもなりふりかまわず変節すると見なしている。
一方、私は見えないところから攻めるタイプであり、笠井潔の思想には、覇権への欲望があり、それが現在の行動に現れてきていると見なしているわけである。
アレクセイ氏の批評は、政治的で、論争的なところに特徴があり、それゆえ現在の笠井潔の行動と抵触するところがあると考えられる。
アレクセイ氏は、チョムスキーやチェ・ゲバラといった反体制的な人々に関心を示しており、その意味では好感が持てるが、厳密に言えばチョムスキーはデカルト派言語学者であり、話し、書き、行動する主体=コギトを重視する立場である。果たして、ソシュール以降の構造言語学と、コギトがなにゆえに両立するのか、私にはさっぱり理解できない。チョムスキーは、アメリカをテロ国家といっているが、テロルの語源は恐怖政治であり、帝国に対する反逆者からの行為には使用されるが、帝国の側からの強権行為には通常は使用される言葉ではないと思う。結論は、反米だから許すとしても、そのこいたるまでの思考過程に納得いかないところの多い学者である。
アレクセイ氏は、最近宮台真司に肯定的なようだが、このシステム社会学者はサイファを認める立場である。サイファとはゼロ記号であり、システムを支えるポイントのことを示す。西欧においてはこのポイントは、ロゴスであるが、宮台真司の場合、天皇制である。ちなみに、私が拠って立つポスト構造主義は、ゼロ記号批判であり、こんなものは認めない立場である。
(最近、考えはじめていることは、ゼロ記号肯定論がアビダルマ仏教、ポスト構造主義が大乗仏教に似ているということであるが、まだ考えが熟していないので、コメントは差し控える。)
アレクセイ氏は、統一された主体の確立の必要性を説く立場であり、デカルト派や、ゼロ記号必要派となじむのであろう。
ちなみに、私はポジティヴに発言し、行動することは重要であるが、主体を単一のものとして纏め上げることには無理があり、出来たとしても欺瞞が発生すると考える。
「統一された主体の確立の必要性を説く立場」は、過去の自分の立場であり、それを突き崩したものはアルチュセールの『国家と国家のイデオロギー装置』であった。主体を思考のはじまりとするそれまでの私に、アルチュセールはイデオロギー装置の効果(結果)としての主体という考えを突きつけ、それ以来ナイーヴに主体を信じることができなくなってしまったのである。
No.3 - 2004/10/29(Fri) 11:45:55
思想の適用範囲について / T.Harada [ Home ]
(1)フロイトは、人間の心理について、超自我/自我/無意識という層を考えたが、世の中の思想には無意識の層に届いていない(あるいは無意識の存在を認めない)ものがある。超自我とは、法や道徳に関わるレベルであり、無意識は欲動に関わるレベルである。
(2)ドゥルーズ=ガタリは、社会システムについてコード化/超コード化/制限された脱コード化/制限なき脱コード化という分類を行った。コード化とは、原始土地機械、未開の共同体のことであり、超コード化とは野蛮なる専制君主機械、専制君主制社会のことであり、制限された脱コード化とは文明資本主義機械、資本制社会のことであり、制限なき脱コード化とは未だ実現されていない多種多様な方向への生成を認めるリゾーム(根茎)状の社会的ネットワークのことである。

例えば、サルトルの『弁証法的理性批判』のような実存主義的(主体主義的)な歴史観はどうか。サルトルは無意識の層は認めない。サルトルが拠って立つ現象学が、無意識というものを許容しないのである。そして、歴史の変動の説明としては、フランス革命以降の文明社会に対しては、この各人のプラクシス(実践作用)を重んじる立場からの説明は成り立つが、コード化社会や超コード化社会の説明には無理がある。また、主体が解体されつつあるポストモダンという事態も、想定していない理論である。

レヴィ=ストロースは『野生の思考』において、「冷たい社会」、すなわち歴史の変動のない未開の共同体について、ソシュールの言語学を応用した構造分析を行った。彼の理論は、コード化社会には適用できる。また、無意識の層も射程に納めている。しかし、超コード化社会や、脱コード化社会には、そのままのかたちでは適用できない理論である。

ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』は、マルセル・モースの研究などを考慮しながら、ポトラッチなどの蕩尽に注目し、消費を軸とした普遍的な経済学を構築した著作である。この著作は、あらゆる社会システムの根底を照射するとともに、超コード化社会の説明に有効な理論を提供した。無論、無意識の層も想定した理論である。ただし、超コード化社会の説明のためには、この理論の変奏が必要である。

『アンチ・オイディプス』と『ミル・プラトー』は、精神分析医にして活動家というフェリックス・ガタリと、哲学者・哲学史家のジル・ドゥルーズとの共同著作であり、無意識の層も含め、資本制社会に分析を加え、そこからのより開かれた場への逃走線を引かんとする試みであった。彼らの理論は、資本主義社会、すなわち制限された脱コード化社会の分析に有効な視点を提供するのみならず、権力からより遠い地点に向かおうとするベクトルに貫かれている。

サルトルやレヴィ=ストロース、バタイユなどの思想家の理論(ここで挙げたのは例にすぎない)を全否定するのではなく、ある一定範囲の中では優れた視点を提供してくれるものとして、より大きな理論の中に組み込んで考えてはどうか、というのが私の提案である。
逆に、彼らの思想、あるいはその支持者が一切を説明するとして、不向きな領域にまで侵食し、強権を発動させるときは、「敵」として斬らねばならない。
No.2 - 2004/10/29(Fri) 10:42:34
虚無なる「匣の中の匣」のために / T.Harada [近畿] [ Home ]
竹本系評論専用掲示板"虚無なる「匣の中の匣」"を、本日より開始する。

竹本系とは、竹本健治系のファン・サイトのひとつであることを示す。
現在も更新が行われている主だった竹本系のファン・サイトとしては、以下のサイトがあげられる。

(1)公式ファンサイト少年回廊BBS
http://haruka.fool.jp/cgi/bbs2/light.cgi
竹本ファンの方は、まずここをチェックする必要がある。
竹本健治公式HPパラレル玲瓏館
http://www013.upp.so-net.ne.jp/reiroukan/re/
から、リンクされていることからも、ここの重要性がわかるであろう。
ただし、残念なことに本体のサイトの方は、現在休止中である。

(2)竹本健治Wiki
http://fiction.jp/~uroboro/
かつての裏(?)ファンサイトであった「電脳ウロボロ線」が、利用者が書き込み、情報を共有するタイプのサイトに変貌した。
ここも、竹本健治公式HPパラレル玲瓏館からリンクされている。

(3)竹本健治ファン倶楽部<軟体動物同盟>
http://milleplateaux.fc2web.com/
このサイトの管理人は私であるが、ファン倶楽部とはいえ数名の加入者がいるだけであり、非公式なものである。
公式ファンサイトが休止中であるが、やはり竹本健治のデータを集積する場所は欲しいというわけでつくった暫定的なものである。

(4)破壊者の幻想譜
http://www4.rocketbbs.com/141/ouro.html
竹本健治ファンの中の小説を書きたい人が投稿する創作専用掲示板である。

(5)虚無なる「匣の中の匣」(ここのことである)
http://www5.rocketbbs.com/151/yurufra2.html
竹本健治ファンの中の評論を書きたい人が投稿する評論専用掲示板である。

(6)LIBRAアレクセイの星座
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/
絶えざる論争のフィールド「BBSアレクセイの花園」
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs
は、この中にある。

(7)烏鷺堀酒造売店
http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/page027.html
「薔薇十字制作室」のサイト内サイト。
楽古堂こと大内史夫の竹本健治に関する評論・エッセイが紹介されている。

それぞれのサイトに個性があるが、”虚無なる「匣の中の匣」”では、まず自由にものが書ける場を提供することに主眼を置きたいと思う。
テーマは自由。長さも自由。書くスタイルも自由。
そういうことでいくことにする。
各人が自由論客。
単独者の<交通>の場として、”虚無なる「匣の中の匣」”が機能してくれることを切に願う。
No.1 - 2004/10/28(Thu) 21:39:46
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