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虚無なる「匣の中の匣」

竹本健治ファンの評論連載の場として自由にお使いください
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WINGBEAT COFFEE ROASTERS
わたしは花火師です いえ、爆破技師です / はらぴょん
ミシェル・フーコー著、中山元訳『わたしは花火師です〜フーコーは語る』(ちくま学芸文庫)とフランツ・カフカ著、平野嘉彦編、柴田翔訳『カフカ・セレクションII 運動/拘束』(ちくま文庫)を入手。
『わたしは花火師です』とは、妙なタイトルである。訳注をみると、アルティフィシェ(artificier)の訳だそうで、「爆破技師」にすべきか迷ったという。「爆破技師」であれば、フーコーの思想が見えてくる気がするが、「花火師」では比喩に終わってしまう気がする。というのはなぜかというと、例えばフーコーの大著『狂気の歴史』であるとか『監獄の誕生』を読み通したとして、それが、読む前の自分のままでいられる類いの毒にも薬にもならない書物あるとは思われないのであって、個人によって影響度は違うだろうが、必ずや思考の改変が行われるであろうことは間違いない。いわば、フーコーの大著自体が、現実を改変するニュータイプを生み出す危険書庫なのであって、フーコーの仕事がそれまでの常識的思考を吹き飛ばす「爆破技師」のそれであることに気づくのである。
フーコーとカフカ。実は、この二人は似通ったところがあると思っていて、『カフカ・セレクション』は掌編集なのだが、そうではなくて『審判』や『城』になると、カフカが権力装置という主題にとり憑かれていたことがわかるのである。そして、フーコー。『狂気の歴史』『監獄の誕生』『セクシュアリテの歴史』と並べると、やはり局外者の立場から見た権力装置を描いたものと映るのである。局外者?というといぶかしがる人もいるかもしれない。フーコーにおいて、この私の思考は、エビステーメーに規定されているのであって、権力装置をめぐる記述のなかには、主体は出てこない。しかしながら、精神病院の内と外、監獄の内と外、あるいはセクシュアリテにおける正常者と異常者の差異を析出させようという意図には、やはりある種の観点があると言わなければならない。
初期のフーコーは、自身の同性愛傾向に悩み、時には死の誘惑に駆られることもあったという。フーコーが勇気を持ったのは、ニューヨークで、ハードゲイに目覚めたから、らしい。そういう視点から、社会の正常と異常の境界線の虚構性を暴き出す仕事に手を染めるようになったのではないか。
『言葉と物』などを読むと、フーコーの書法が、博物学のそれであるということがわかる。膨大なデータを処理し、それらが集積されるとき、まるでマシーンのように、書物が読む人と一体化し機能し始めるのであり、そのマシーンはやがて読む人の意識を変え、さらには世界を見る視点を改変するのである。だから、フーコーの多くの著作が、人間の思考の歴史を扱っているのだが、客観的なスタイルを装おうとする通常の歴史学の本とは大いに傾向を異にしている。
もうひとつの傾向は、ニーチェとの共振性である。フーコーは、人間の思考の歴史を考える上で、通時性よりも、共時性を重視した。従来の歴史観(例えばマルクス主義史学のそれ)を、羊羹(ようかん)のようなものに喩えるとする。羊羹の端が過去で、もう一方の端は未来である。過去と未来は、一続きにつながっていて、唯物史観のような立場だと、生産力が伸びてきて、社会的諸関係がそぐわなくなると、それにふさわしい諸関係にシフトが起きるとする。しかし、ニーチェのような立場だと、歴史学者の考えるような連続した歴史などというものは、後付けの虚構に過ぎず、後から都合の良い出来事だけを取り上げ、連続しているかのようにつじつまあわせをしているに過ぎないということになる。そこで、フーコーになると、歴史は羊羹ではなくて、バームクーヘンのようなものになる。(ちなみに、羊羹とか、バームクーヘンと言っているのは、私であって、彼らが言っているわけでないので、間違えないように!)つまり、地層の積み重ねのように、過去から現在までの間に、ところどころに断層が入っているのである。横との繋がりは密接だが、時系列で見ると不連続線が入っているのである。
つじつまあわせに、不連続線。なんだか、別の話にずれてきたので、この辺で小休止。
No.382 - 2008/09/17(Wed) 00:26:13
事故米と農水省の責任 / はらぴょん
日本政府が、事故米を中国、米国、タイ、豪州、ベトナムから購入するのは、ウルグアイラウンドで、外国から米を輸入することが決まっており(年間総計77万トン)、そのなかの一部(2000トン)としてであるという。
そのなかで、中国産のもち米から、メタミドホスが検出されたことがあり、サンプル検査で基準値を上回ったこともあるという。
また、カビ毒の一種で、肝臓ガンを引き起こす発ガン性物質アフラトキシンが付着している事故米も出回っているという。
農水省は、事故米を工業用ののりなど、非食料用として使用すれば問題ないとして民間に売却していたというが、事故米かそうでないか、一目見て判るものでもなく、米袋や取引書類を偽装すれば、容易に普通の米として流通できるという危険性があることくらい、初めからわかっていたはずなのだ。
農水省の最大の責任は、(1)原産国も食べないような毒性のある米を輸入して、国内に流通させようとしたこと。まだ、事故米に付着したアフラトキシンやメタミドホスによる健康被害は報告されていないが、仮に報告されたとしても、疫学的検査が必要であるとかで、国はなかなか責任を認めないであろうが、これが食料品に紛れ込んだ場合、健康被害が出ることは未然にわかっており、いわば未必の故意の殺人(未遂)なのであるということ、(2)食品偽装による転売の懸念があった(事故米と普通米の価格差から、偽装が行われる動機があり、前述したように偽装方法も容易であったこと)にも関わらず、農水省は流通ルートに関して所轄官庁としての監督責任を怠ったことにあると思う。
一体、農水省は、日本国民の生命と健康を何だと考えているのだろう。国民の生命を危機に晒してでも、諸外国の利益(あるいは面子)を優先したかったのだろうか。
現在の日本の公務員のなかには、日本国民に関しての暗黙の二分法を持っている人がいるのではないか。ひとつは、知識と権限を独占的に持つ官僚であり、もうひとつはガンになろうと腹痛を起こそうと知ったことではない一般市民である。そういう見下した意識が、今回のことに露呈されているように思える。しかしながら、公務員は、日本国民全体の公僕であらねばならない。仮に、そのような一般市民に対する見下した意識を持つ公務員がいたとしたら、その人は公務員としての資質を欠いた人間であるということになる。
No.380 - 2008/09/15(Mon) 17:43:12

再び、事故米について / はらぴょん
先ほど、日本政府は事故米を、工業用の糊をつくるのに使えば支障がないと考え、輸入したようだということを書いたのだが、どうやら工業用の糊をつくる業界では、事故米を使う慣習はないようだ。いくら、食品に使わないとはいえ、安全性第一にモノをつくる観点から原材料を考慮するのは、当然のことである。
となると、日本政府はなにを想定して、事故米を輸入することにしたのだろうか。売却先の目星もつけないうちに、後先考えずに輸入したとでも言うのだろうか。
事故米をどう消費するかについて、安全なルートが確保されないままに、国民の税金を使って、大量に危険な米を輸入し、民間に売り払い、その後のルートに関して、所轄官庁として充分な管理を行ってこなかったことは、間違いなく重大な犯罪である。
なにが目的かはわからないが、農水省は日本人の生命を危機に陥れようとする行動をしてきたことになる。いつから農水省は、反日的な殺人集団になったのだろうか、これでは毒薬を上水道に流し込むような行為ではないか、と皮肉を言いたくなる。(竹新製菓は、1年半前からノノガキ穀販から事故米と知らずに仕入れていたという。竹新製菓の製品は、私の住む地域では、相当ポビュラーに流通している。1年半前からずっと竹新製菓のあられを食べずに来たかどうか、実に自信がない。私が不審死を遂げたとすれば、農水省が犯人だと思って欲しい。)
もうひとつ、最近のニュースで見えたきたことがある。事故米を食用に転売した三笠フーズの社長らは、農林水産省近畿農政局大阪農政事務所の消費流通課長(当時)を、大阪市内の飲食店で接待していたことがわかった。この接待の目的とはなにか。この中身について、確かなことは調査がさらに進むのを待つしかないが、三笠フーズにしてみれば、通常の食用米と事故米の価格差を利用して、偽装による転売で莫大な利益を得ようと、確実に事故米が調達でき、かつ農政事務所による検査によって、偽装転売が阻止されないことを期待して行動したであろうことは、想像できる。しかし、この仮説を裏付けるためには、警察による本格的捜査が必要になるだろう。
No.381 - 2008/09/16(Tue) 00:13:24
太陽無黒点現象とさまざまな仮説 / はらぴょん
太陽黒点が、100年ぶりにゼロになっている。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080904_sunspot/
日々の状況は、以下のサイトで確認できるのだが、依然、無黒点が続いている。
http://swnews.nict.go.jp/
以下のサイトでは、最新の太陽黒点写真が確認できる。
http://sunspots.sakura.ne.jp/
太陽黒点の説明は、以下のWikiを参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E9%BB%92%E7%82%B9

ところで、太陽黒点は、地球上の気温と関係している。太陽黒点が多いほど、気温は上昇する。太陽黒点自体は、太陽のなかで温度が低いところであるが、これは太陽表面で磁力線がねじれて起こる。なぜ、ねじれるかというと、太陽の差動回転のためである。つまり、太陽黒点は太陽の活動が活発な時に起きる。
http://env01.cool.ne.jp/open/open01/co2_01.htm
太陽黒点がゼロになるということは、太陽の活動が弱まっていることを示す。

太陽黒点は、経済の動きと連動しているという説がある。
栗本慎一郎の『幻想としての経済』では、カール・ポランニーの経済人類学に、ショルジュ・バタイユの普遍経済学の原理が導入される。太陽エネルギーの過剰が、人間の奇妙な行動を左右するというものだ。
バタイユの盟友に、岡本太郎がいる。岡本の考えは、バタイユに近い。岡本は「芸術は爆発だ」と言ったが、バタイユは太陽エネルギーの過剰を、人間は爆発させ、広義の経済活動(交易のみならず、戦争や祝祭も含む)を作り出すとする。
さらに、『パンツを捨てるサル』になると、経済のみならず、生物の進化にも関係しているとされる。
太陽黒点が増え、太陽活動が活発化すると、人間の身体に影響を及ぼし、経済活動も活発する。
逆に、黒点が減ると、経済活動も低迷するから、不景気に陥りやすい。
太陽の活動という自然現象から、人間の身体を介在しての間接的影響なので、ダイレクトに影響を及ぼすとは思われないが、まったく影響がないとも言い切れない。
進化に関してだが、栗本説では、ウィルス進化論をとっているため、太陽活動が活発化すると、未知のウィルスが一気に活発化して増殖し、感染によって広がり、それがRNAウィルス(レトロウィルス)の場合、種のDNA自体書き換えられてしまうこともあるとされる。

太陽黒点は、11年のサイクルで増減を繰り返す。この極小期に向かうところで、強力な磁気嵐が発生している。
この磁気嵐が、地球のマグマの活動に影響を及ぼし、巨大地震が発生するという説がある。
http://www.menokami.jp/jishin.html
No.379 - 2008/09/07(Sun) 23:04:54
マニュアル化できないエッセンスについて / はらぴょん
最近、ツルティム・ケサン+正木晃著『実践講座4 チベット密教 図説マンダラ瞑想法』(ビイング・ネット・プレス、星雲社発売http://www22.big.or.jp/~bnp/jissenkouza.html)という本を見ているのですが(図や写真ばかりの本なのでね)、まずこの本の特徴を挙げておくと、チベット密教ゲルク派とカギュ派の観想法を(それも普通は秘密にされているような最上級の高度な部分を)、豊富な図版を用いて、完全マニュアル化してしまった本であるということだ。
テレビなとで、チベット密教の砂マンダラなどを見たことがある人があると思うが、チベット密教のマンダラは極彩色で、ヴィジュアル的にも美しいものである。
『実践講座4 チベット密教 図説マンダラ瞑想法』によると、このマンダラは、本当は立体的だといい、マンダラを見た人ならわかると思うが、どこにどんな仏様がいて、どこに門があるかといったことが、色彩も含めて、詳細に決められているという。
チベット僧は、まずたちどころにこの立体マンダラが立ち上がり、自身を包み込むように観想できないとだめだという。そして、マンダラの内側を聖なるものとして、外部からの魔物を跳ね除けるように、心霊的な自己防衛をしないといけないという。
ふーん、ふーん、要するに、これって、西欧の儀礼魔術と原理は同じじゃん、と思うのだ。アレンスタ・クロウリーの『魔術』でもなんでもいいが、ヨーガとかも取り入れている点でクロウリーのやり方は結構近いものがあるだろう。西欧魔術師は、極彩色の魔法法具を用い、マンダラではなく、魔方陣をヴィジュアライズして具現化し、心霊的自己防衛を行う。
宗教学者ミルチャ・エリアーデの聖俗理論を適用するならば、マンダラ、あるいは魔方陣の内/外が、聖/俗の関係となり、前者はコスモスとして成立し、後者はカオスが渦巻く場となり、両者の境には、聖なるものと俗なるものとの時空上の質的差異が生ずることになる。
このような心霊的自己防衛の場をつくった上で、自己を聖なるものとして浄化したり、身体内部のエネルギーを利用して、内的拡大を図り、俗なる地平を超えた高い領域へと踏み込もうとする。
観想するもの、文化的コンテキストがまったく違うが、利用している人間の能力は同じであり、同じ原理を用いていると思う。
ここで提案だが、『図説マンダラ瞑想法』や、クロウリーの『魔術』、イスラエル・リガルディーの『黄金の暁会百科全書』をプログラムと見做し、人間にインストゥールする。この基本プログラムには、オプションとして、追加プログラムがあり、西欧の魔に対する心霊的自己防衛をも身に着けたいというひとにはダイアン・フォーチュンの『心霊的自己防衛』をも付加する。こうして、あとはプログラムの立ち上げであり、自己判断に応じて、マンダラや魔方陣を選ぶことにより、あなたの頭のなかのデスクトッブにそれらが立ち上がるというわけだ。
とはいえ、特に道の探求においては、マニュアル化できることは、つまらないし、面白くない。マニュアル化できるものは、その精神を除外した、形式だけの残骸に過ぎないからである。マニュアルは、あくまで初めの一歩であり、それを使いこなし、心あるものにするのは、本人にかかっている。
道によっては、マニュアル化できる部分を捨ててゆくものもあるし、マニュアル化を拒絶するものもある。私の場合、マニュアル化できるものは捨ててゆくほうに惹かれている。
No.378 - 2008/08/29(Fri) 21:12:07
環境決定論 VS 自己責任論 / はらぴょん
小林多喜二の『蟹工船』(単行本、金曜日)の解説を書いている雨宮処凛が、今度は角川文庫の『蟹工船』の解説を書いた。要するに、角川文庫は、雨宮による解説という付加価値をつけ、他社の『蟹工船』(新潮文庫など)に対する差別化をつけたわけだ。『蟹工船』は、プロレタリア文学、要するにマルクス主義文学である。角川書店は、マルクス主義文学をも、商品として大量流通させ、資本増殖を図っているということになり、他方、雨宮はそれを逆利用して、自身が編集委員として関わっている金曜日の単行本にとっては、商売がたきともいえる角川文庫というレーベルをも応援することによって、体制が嫌がるであろう『蟹工船』ブームのさらなる高揚を図ろうとしているわけだ。
 私は、これまで雨宮の文体を褒めちぎってきたのだが、それは生きている実感(実存感覚)を表現することができる文体だからであった。そして、雨宮の特性としては、なにか凝り固まった理論を信奉というのではなくて、その時々の状況下において、とことんまで自分を突き詰め、自分を表現したい、そしてそのことによって、生きているというリアルな感触を確かめ、生きづらさが圧倒的に支配している今現在において、自分を回復したいというものだった。
 しかしながら、『蟹工船』の持ち上げ方を見ていると、作家にとって、あまりにも真面目すぎるというのは、致命的かも知れないと思うようになった。非正規雇用が増大し、そのことで生きることに関して不安定な階級が生まれ、その数が膨大なものになってきた。そのこと自体に、異議を唱えるのは当然のことだ。しかしながら、『蟹工船』を持ち上げることは、この体制とは別な既成政治勢力に加担することであり、その政治勢力に、権力体質があることは、歴史が明らかにしていることである。さらにいえば、その既成政治勢力の権力性を批判するそれより後から出てきた党派もまた、終始裏切り者のリストアップと粛清に余念のない権力体質があることが判っている。問題なのは、真面目に一点集中であることに専念すると、それに連携した問題点が見えなくなるということである。
 ところで、『蟹工船』ブームに絡んで、中日新聞が共産党議員と自民党議員に意見を聞くという企画を、8/24の朝刊の紙面で行った。自民党議員は、義家なにがしというヤンキー上がりの人間である。
 中日新聞を読んでいない人のために、記事内容を紹介したブログを紹介しておこう。
http://d.hatena.ne.jp/kei999/20080824/1219576863
 まず、現状認識の問題である。「蟹工船の場合、命がかかっている。今は食うには困らない。」本当にそうなのか。この義家なにがし(ヤンキーからの転向者などの名前は、いちいち覚えていられない。ヤンキーだったら、最後までヤンキーを貫き通すべきではないだろうか。)は、この国の膨大な自殺者数に想いをはせたことはないのだろうか。自殺理由は、鬱とか、いろいろあるだろうが、そこで経済的な因子とまったく関係のないケースは、何割くらいだろうか。近年になって、戦死者の数のように膨れ上がっている自殺者のことを、どう考えるのだろう。
 状況の解釈と、処方箋はどうか。「事件のたびに格差社会が背景にあるといわれるが、非常に違和感を覚える。……すべて格差社会の罪と断じてしまうのは、非常に危険な風潮だ」なるほど。なるほど。
 「冷戦終結後、弱い人を切り捨てている新自由主義が席巻し、頑張っても、はい上がりにくい社会になったのでは?」という記者の問いわけには、「そんなことは全くない。……抜本的に改革すべきは環境よりも本人の意思。その上で、モノやカネの支援ではなく、どんな資格を取ればいいのか、どんな生き方をすればいいのかを示す、教育的支援が必要だ」「雇用の機会よりも、いつでも学び直せるという教育の機会を与えたい。」
 要するに、義家なにがしが展開しているのは、極端な自己責任論なのである。環境決定論に違和感を覚えることに関しては、納得できる。秋葉原の通り魔事件などが起きるたびに、格差社会が云々される。しかしながら、同じような経済状況下におかれた人間でも、犯罪に走る人間と、そうでない人間とがいる。そこには、各人がどう判断し、行動するかということが関係してくる。しかしながら、義家は、改革することは環境ではないとし、雇用の機会を増やすといった改革には関心を持たず、ただ若者が資格をとったり、技能を身につけたり、実社会で継続して生活できる能力を身につけさせることだけに主眼が置かれている。教育者としては、それでもよいだろう。学校を卒業して、実社会に出てゆく生徒には、即効性のある処方箋が必要だし、教育だけに関わっていてる人は、直接、社会を変革する立場にはない。しかしながら、義家は政治家になったのであり、直接、社会を変革できる立場にあるのであり、社会に良くないところがあれば改善するのが、彼の職務のはずである。学生に自己責任を問う一方で、議員としての自己責任は問わないのか。
 真実は、環境決定論と自己責任論の中間にある。環境決定論が100%を占めるとき、無責任がまかり通り、自己責任論が100%を占めるとき、社会が問題に直面してもフィードバックによる修正がなされなくなる。
 経済的なことには関わらない、経済界の決めたことには、抵触しない言動を取る、こういう議員が増えると、どうなるのか。経済界は、目先の利益を考える。非正規雇用で、安く働かせれば、それは資本の側にとって得なのは、当たり前だ。しかし、本当にそうなのか。ロングスパンで考えるならば、日本の若者のほとんどが、ニートとか、フリーターになり、その日暮らしとなり、身体を壊せば解雇され、下手をすると自殺まで追い詰められる。こういう層が異常に膨れ上がった社会とは、一体なんだろう。不安定な生活を強いられ、収入が安定しないということは、資本にとって、良き購買層が減るということになる。これが健全な社会なのか。長期的展望をもって、一部の利益ではなく、この国全体にとっての幸福を考え、利害の調整を図れるような政治家は、どこに消えたのだろう。
No.377 - 2008/08/26(Tue) 07:04:17
『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』 / はらぴょん
東 傍観する立場です。官僚でも政治家でもないですから。
大塚 うーん……それでも、批評家っていう仕事は成り立つの?
東 成り立たないかもしれませんね。
大塚 じゃあ、なんで批評家やってるの?
(大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか』講談社現代新書、206ページ)

この会話は、日本という国家のパブリックなものを立て直すのは無理である、それゆえ富の再分配をどうするか、あるいはどうやって人々の不満のガス抜きをするかが問題なのである、という東の議論を受けて、大塚が、ではそのときに東のポジションはどこにあるのか、ある特定の人々が国家を運営し、残りの人々は国家のことなど考える必要もない(ゲーム的リアリズムの世界で、遊んでいればいい)として、考えない立場の側にいるのか、それとも国家運営の洗練されたやり方をデザインする側にいるのか、それともそれらをただ傍観する立場にいるのか、と問うたときのやり取りである。
東浩紀は、出版物やメルマガや同人誌やホームページなどで、不特定多数の人々に、メッセージという名の郵便を投函する。東は、このメッセージが、自分の考えたイメージどおりに正しく伝わるという根拠のない信仰を持っていない。醒めた眼で、郵便には誤配や遅配がつきものだと考えるのである。
投函するからには、投函の効果を期待しているかに見える。が、この対話のなかで、投函は友人や知人を増やすのが目的と語るが、投函物が届くことによって、世界を変えたり、相手のこころに波紋を投げかけたりすることには期待を持っていないようなのである。
東は、世代の違う人や趣味が違う人に、郵便を送っても、届かないと考えているようだ。両者の間には、ベルリンの壁のようなものがあり、郵便配達が存在しない。郵便の大量発送により、万に一つ届く可能性や、根気強い投函によって、相手の意識を変え、ベルリンの壁を崩壊させる、なんてことは、東は考えないようだ。
東は、大塚との会話をしつつも、大塚との間にベルリンの壁を妄想し始める。また、会話のなかに出てきた国家や社会との間にも、ベルリンの壁を妄想し始める。
ジャック・デリダの場合、脱構築をするために、脱構築の対象物を必要とする。つまり、脱構築のために、構築を必要とする。こうして、構築物からの脱出を目指すポーズを取りながら、実は構築物に依存し、構築物から逃れることができない。
ジャック・デリダの縮小再生産としての東浩紀になると、デリダにあった政治や宗教といった広いフィールドは失われ、美少女ゲームなどの世界が活動の場となり、批評家と自称する。批評家ということで、時には社会問題や経済問題が問われることもあるが、それらに対する立場を明確にすることなく、傍観者として振る舞い続ける。
批評家として活動しているため、東の発言は常に注目され続ける。そういう立場の人が、傍観者であると言ってしまうということは、なにを意味するのか。この世界において、人は選択するということから逃れることはできない。傍観者であるということは、すでにひとつの選択であり、目の前で不条理で納得のいかないことが展開されようと、眼をそむけることであり、要するに現状追認のイデオロギーにしかなりえない。東が望もうと望むまいと、この世界(ご承知のように、この世界は矛盾に満ち、経済格差から環境問題まで、さまざまな難問が山積している)の現在を、追認してしまっているものとして機能してしまうのである。
完全な傍観者など、ありえないのである。
No.376 - 2008/08/22(Fri) 00:31:22
『青銅の悲劇 瀕死の王』 / はらぴょん
 矢吹駆シリーズ日本編第一作である。
 矢吹駆シリーズは、時系列順に並べると、前日譚となる『熾天使の夏(夏の凶器)』、フランス篇全10巻(『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』、『薔薇の女』、『哲学者の密室』、『オイディプス症候群』、『吸血鬼の精神分析(現時点で未単行本化)』、『煉獄の時(現時点で未完)』、他3冊)、日本篇全3巻(本書、他2冊)からなる本格ミステリである。本書のなかで、ナディア・モガールは、10件の事件に出会ったことを言っており、フランス篇の後に、日本篇が来ると考えられる。
 また、日本篇は、矢吹駆の隠された過去(『熾天使の夏』と『バイバイ、エンジェル』の間)を、遡行的に埋めるという狙いもあるようだ。『熾天使の夏』に登場する風視のことが、本書のなかでも語られるのである。
 本書の話者は、作家の宗像冬樹。笠井潔の『黄昏の館』や天啓シリーズ全3巻(『天啓の宴』、『天啓の器』、『天啓の虚(現時点で未単行本化)』)に出てくる人物で、作者の分身とおぼしき人物である。宗像の代表作は、『昏い天使』、『鬼道伝』であり、これらは笠井潔の『バイバイ、エンジェル』、『ヴァンパイヤー戦争』に対応すると考えられるが、『黄昏の館』から判断すると『昏い天使』の内容は、『バイバイ、エンジェル』と巧妙にズラされているし、本書における宗像冬樹の設定も独身で子供もいないことになり、作者とは別人物に設定されているようだ。
 『青銅の悲劇 瀕死の王』の時代は、昭和が終焉を迎えようとする時期にあたる。舞台となる鷹見澤家は、(1)「竹内文書」「九鬼文書」「宮下文書」「上記」「秀真伝」「三笠紀」「東日流外三郡誌」とは異なる偽史を基にした宗教観念を持った人物、(2)その子供の世代にあたる蓮實重彦の系統のポストモダニスト、(3)学生運動にのめり込み、最近まで獄中生活を送ってきた男、(4)孫の世代にあたるジャパニメーションに関心を持つが、ひきこもり傾向のある子供、その他からなる大家族である。
 これらはいずれも笠井潔の関心領域であり、(1)についてはコムレ・サーガと呼ばれる伝奇SF(『巨人伝説』、『ヴァンパイヤー戦争』、『サイキック戦争』)の実作を通じて繰り返し取り上げてきた「縄文民族解放闘争」と関わりがあり、本書では昭和の終焉と伝奇小説ブームの終焉との相関性が語られ、(2)のポストモダニズムは、『<戯れ>という制度』などで笠井は批判的に取り上げてきたし、(3)については『テロルの現象学』や『バイバイ、エンジェル』で左翼テロリズム批判としてやってきたし、(4)については著者の論じてきた限界小説やジャンルXと隣接する領域である。しかしながら、今回に関してはこれらはサブテーマとして取り上げられるに過ぎない。
 では、本書のメイン・テーマとはなにか。それは、本書の772ページにも及ぶ長大さとも、深く関わるテーマといえる。物語の登場人物たちは、ビリヤードの玉のように、他の玉にぶつかり、複雑な動きを見せる。警察や探偵がどう推理するかを未然に読んで動くとか、身内が犯人ではないかと考えて動くとか、である。これに、どう解釈すべきか、多様な意味解釈が可能なものが登場したらどうなるのだろうか。さらに事態は紛糾し、複雑系の一途を辿るに違いない。本格ミステリにおける探偵は、物語の中にどっぷりと漬かっており、メタ・レベルから俯瞰して見るといったことは出来ない。したがって、複雑系と化した事象のなかから真実を言い当てることには、決定不能性の危機が付き纏う。この問題(後期クイーン問題)を真正面から取り組んだ本書は、なかなか決定的な解釈に辿りつくことができず、700ページを超えてしまう事態に陥る。厳密な推理を求めるがゆえに、仮説は次々と提出されるのだが、反証が加えられ、次々と退けられてゆく。そうしたなかで、事件はますます思わぬ方向に進んでゆく。論理性を不徹底にすることなく、作者はいかに物語を終息させることができるか、これが本書最大の醍醐味である。これほど、徹底した論理性が追求された本格ミステリは、かつてあっただろうか。ある意味、本書は、過剰なほどのパラノ的情熱が、生んだ知の大伽藍ともいえるだろう。
No.373 - 2008/08/04(Mon) 01:03:53

矢吹駆シリーズの今後の展開を予測する / はらぴょん
矢吹駆シリーズには、毎回、思想家をモデルとする人物が現れ、矢吹駆と議論をかわすのが、魅力のひとつとなっている。

<対戦相手が明らかになっているもの>
『熾天使の夏』……特になし
『バイバイ、エンジェル』……VS永田洋子(orマルクス)
『サマー・アポカリプス』……VSシモーヌ・ヴェイユ
『薔薇の女』……VSジョルジュ・バタイユ
『哲学者の密室』……VSマルティン・ハイデッガー+エマニュエル・レヴィナス
『オイディプス症候群』……VSミッシェル・フーコー
『吸血鬼の精神分析』……VSジャック・ラカン+ジュリア・クリステヴァ
『青銅の悲劇 〜瀕死の王』……特になし

<対戦相手が不明のもの>
『煉獄の時』……VSソルジェニーツィン+ヌーヴォー・フィロゾフか? (タイトルからして、『煉獄のなかで』の著者が出てくるのでは、と。笠井的には収容所問題は、どこかで取り上げておきたいのでは。)
『?(フランス編第8作め)』……(期待をこめて)VS(晩年の)ジャン・ジュネ(同性愛とパレスチナ問題を絡めれば、それ相応の内容にはなるだろう。このシリーズ、徐々にストイックになりつつあるので、人気のテコ入れのために耽美に走るのも一興かと。)
『?(フランス編第9作め)』……(期待をこめて)VSコリン・ウィルソン(フランス人ではないが、ドイツ人が対戦相手となった前例があるから、こじつければできるだろう。オカルト幻想小説風にすれば、この小説の活性化につながるのではないか。)
『?(フランス編第10作め)』……VSジャック・デリダ+宿敵イリイチとの対決(作者は東浩紀を意識しているようなので、どこかでデリダを取り上げるとは思うのですが、デリダはあまり盛り上がりに欠けるテーマなので、宿敵との直接対決とカップリングすべし。)
『?(日本編第2作め)』……VS天啓教によるテロリズム(この小説のなかでのオウム真理教のこと。時代設定から、カルトによるテロの問題は避けて通れないのではないか。日本篇第1作めを、1988年から始めたので、三島由紀夫の自決事件をこの物語に取り入れるのは困難だろう。)
『?(日本編第3作め)』……VS吉本隆明+大江健三郎
(吉本は、笠井に最も影響を与えた人物であるから、どこで取り上げる必要があるのではないか。大江については、『球体と亀裂』という笠井の評論があり、作者が関心をもっている作家のひとりである。なお、大江は、吉本が『「反核」異論』で批判した進歩的知識人であり、両者は対立関係にある。)


危惧される点。
『青銅の悲劇 〜瀕死の王』で扱ったような決定不能性の問題が浮上する場合、「これこそ真理だ」という決定打を出せずに、延々と長くなる可能性がある。
(私としては、変格の要素もたっぷり取り入れて、上質のエンターテイメントを仕上げてくれることを期待しているのですが、作者は本格にこだわるのではないか。)
そうすると、定年制を自身に課そうとしている笠井氏の場合、このシリーズは、ちょうど『死霊』のように未完成で終わる危険性がある。
日本篇まで大風呂敷を広げたのが、吉と出るか、凶と出るか。
No.375 - 2008/08/05(Tue) 13:53:53

補足 / はらぴょん
 とはいえ、本書は日本篇のプロローグに過ぎず、未だ日本に姿を見せない矢吹駆に仕掛けられたイリイチの罠は発動しない。しかしながら、その伏線は張られていて、本書には次巻に持ち越される謎があるし、かつてフランスでモガールと接触したという前衛芸術家にして警察署署長(この人物の名前は大江健三郎の『万延元年のフットボール』の蜜三郎を、私に喚起させる)という複雑な設定も、これだけで終わるタマとは思われないのである。
No.374 - 2008/08/04(Mon) 07:10:56
見取り図を整理してみる / はらぴょん
サププライム問題に端を発する金融危機によって、投資筋は原油の先物に流れ込んだ。
原油価格の決定権は、もともとは産油国が握っていたが、先物という仕組みにより原油が金融商品に変貌することにより、原油価格の決定権はアメリカに移ってている。
ここで、物事をわかりやすくするために、実物経済とヴァーチャル経済という用語を提案したい。ヴァーチャル経済が世界を覆いつくすことによって、実物経済の上では供給が足りているはずなのに、価格高騰が起きると考えると良い。
最初の玉突きが存在する。その玉突きに連動して、インターネットによって連動した全世界が、原油先物に手を出せば儲かると考えるようになった。
原油先物に投資した人々は、中国やインドの発展によって、今後原油の消費が増えるのは当然だし、ことに中国では五輪があるために備蓄に走っているのは間違いないとみた。よって、この価格高騰は終わらないと。
なぜ、このようなヴァーチャルな商取引に高率の税金をかけ、富の再分配をしないのか。それを考えるとき、最初に玉突きをした勢力が浮かび上がってくる。アメリカの政権が癒着している勢力ということになる。
最初の玉突きは、ロックフェラーである。
ロックフェラーには、思惑がある。ガソリンはもう終わりであり、代換燃料として原子力にシフトしなければ、選ばれた少数の人しかガソリンを買えなくしてやるという思惑が。
環境問題において、地球温暖化の原因としては太陽黒点の変化も科学的に問題にすべきなのに、それをせず、二酸化炭素だけの話題をメディアを使って流通させているのはなぜなのか。また、エコシステムのなかで循環しないものをつくること、プラスティックのように分解しないし、燃焼させれば有害物質を出すとか、複数の化学汚染の同時発生による複合汚染と、生態系における生体濃縮とかが問題であり、なかでも放射能汚染がそのなかでも最たるものなのに、よりによってG8の席で原子力へのシフトの提案がなされるのはなぜなのか。
それを考えるとき、ヴァーチャルの上で、問題の重点を変えたり、本当に懸念されることを隠蔽するなどのメディア操作がなされている可能性すらあるのかも知れない。

穀物の話に移る。
とうもろこしなどの穀物は、天災による収穫高減に加えて、バイオエタノールへの転用によって、人間の食料としての流通量が減っている。オレンジ畑を、バイオエタノールの取れるとうもろこし畑に変えてしまう農家も出てきた。
さらには、中国などでの消費量の変化があげられる。中国人の嗜好が、烏龍茶からコーヒーにシフトする。それまで、胡椒をつくってきた国が、コーヒーの木を畑に植え始める。これにより、胡椒の値段も上がる。小麦のみならず胡椒も高騰し、日本のラーメンの値段が上がる。
事態は、実物経済だけではない。ヴァーチャルな先物経済の上で、この供給に対する需要の過多が強化される。妄想が妄想を生み、価格はますますつり上がる。
日本の食料自給率は、極端に低い。供給に対する需要の過多によって、食料の輸出国が輸出しなくなるとき、日本は危機に陥る。しかも、日本は消費の過程で、食料をどんどん無駄にしている。曲がったきゅうりは捨て、その日に売れなかった弁当はコンビニやスーパーで捨てという具合に。
一方で、年がら年中、休みなしで、奴隷のように働きながらも、飢餓に苦しむ国が存在する。アフリカのコーヒー農家やアジアのバナナ農家など。

富と原油と食料の再分配機能が、今の政治にはない。ほとんど停止している。
No.372 - 2008/07/21(Mon) 13:54:29
カッコウの教え / はらぴょん
例えば、ナムカイ・ノルブ・リンポチェは、『虹と水晶』(永沢哲訳、法蔵館刊、29ページ)で、次のように書いている。
「ゾクチェン自体はどこか特定の民族の文化に属しているとはいえない。たとえば、"トラ・タルギュル・ツァウェイ・ギュ"というゾクチェンのタントラには、ゾクチェンの教えは、われわれの住む太陽系以外の十三の太陽系に存在している。だから、ゾクチェンの教えは、この地球に属していると言うことさえ、本当はできない。」といっている。
悟りを得た仏陀=覚者の前では、すべての生きとし生けるものは平等である。しかしながら、生きとし生けるものの多くは、こころは最初から完全な完成を遂げているという原初の境地から切り離され、二元論に囚われてしまっている。輪廻の苦しみを断つために、覚者はすべての生きとし生けるものに、平等に語りかけ、解脱へと導く。
すべての生きとし生けるものは平等であるとしたときから、人間中心の思い上がりから、すでに脱却している。現代の実存哲学は、四諦のうちの苦諦を、哲学のフィールドでやり直す試みだった。そのことの意味は大きかったけれども、現代の実存哲学は、人間中心主義の枠内にあって、さらに実体主義であったため、集諦に到達することすらできなかった。この世の苦から逃れるためには、実体主義から関係主義へのパラダイム・シフトを必要としたのである。中沢新一において、レヴィ=ストロースの構造人類学に対する評価が高く、仏教的であるとした理由は、構造主義が脱人間中心主義で、関係論的アプローチをするからである。
中沢新一は、波多野一郎の『イカの哲学』を評価して、「イカの実存」といったのにはわけがある。それは、仏の前では、生きとし生けるものは、救済されるべきものとして平等であり、ヒトにヒトの実存があるのなら、イカにはイカの実存の実存があるべきだ、ということなのである。
今度の『鳥のダルマ』のまえがきで、中沢新一は「鳥の実存」ということを打ち出している。仏陀の前で、すべての生きとし生けるものは平等であるならば、仏陀はそれを救うために、さまざまな言語で語りかけるだろう。ヒトにはヒトの言語を使うだろうし、鳥を救うためならば、自身がカッコウになり、カッコウのさえずりによって、鳥の救済に向かうであろう。
『鳥のダルマ』において、カッコウに生成変化を遂げた仏陀が、仏教のなかでも最高の教え、ゾクチェンとチャクチェン(マハームドラー)に基づいて、苦しみに満ちた世界からの解脱の道を説くのである。その教えは、限りない優しさに満ちている。それは、地球人としてのわたしたちが、現在最も必要としている分け隔てのない慈愛に満ちた教えなのである。
No.371 - 2008/07/06(Sun) 15:04:44
鳥の実存 / はらぴょん
『semus 第8号』(ゾクチェン研究所発行、所長=中沢新一)が届いた。
サイズは、『Cirque TZARA 第3号』と同じ。
両方とも、前の号と比べると、サイズが小さくなった。
ノート大から、教科書サイズになったといえば伝わるか。

『semus 第8号』には、「鳥のダルマ」の翻訳とチベット語の原典が載っている。
ブッダは、単にヒトだけではなく、生きとし生けるものすべてに向けて、輪廻からの解脱の道を説いた。
そうであるからして、鳥に対しては、鳥になって、鳥の言語で、解脱の説法をせねばならぬ。
この「鳥のダルマ」は、その前提に立って、ブッダがカッコウになってありがたい教えをさえずるのである。
カッコウのさえずりは、仏法のなかでも、(この作者の考える最高の教えである)ゾクチェンとチャクチェン(マハームドラー)に沿って行われる。

『イカの哲学』が、イカの実存の立場から語っていたように、「鳥のダルマ」では、鳥の実存の立場から、いかに生きるべきかが語られる。
ここでは、人間中心の思い上がりは排され、すべての生きとし生けるものの、仏の前での平等が説かれる。
このことは、対称性人類学とも、環境倫理学とも関わってくる。
No.370 - 2008/07/06(Sun) 01:30:38
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