06014

虚無なる「匣の中の匣」

竹本健治ファンの評論連載の場として自由にお使いください
ここではノンフィクションが扱われます
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謹賀新年 / はらぴょん
明けまして、おめでとうございます。

本年がここを訪れる人にとって、いい年でありますように
お祈りいたしております。

というか

「環境問題」を例にとれば判るように、
すべてが連動しているのですから、
「ここを訪れる人」に限定してはダメで、
「すべての人」とせねばなりません。

また、「お祈りいたしております」などと、
一歩離れたところから他人事のように言うのではなく、
「ともに努力してゆきましょう」と、
あくまでも「いい年」にするのが、
われわれ自身であることを強調せねばなりません。

というわけで、

本年がすべての人にとって、いい年でありますように
ともに努力してゆきましょう。
No.356 - 2008/01/01(Tue) 10:06:09
要約・見解 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 ミクシィでの一連の遣り取りについての要約・見解を示していきます。
No.315 - 2007/06/08(Fri) 22:16:25

要約・見解(14) / 杉澤鷹里
>明日になれば、貴方がなさったことは、すくなくともlainさんや淳さんや乱蔓さんには、自ずと知れてしまいます。

>実際、ほとんど動きのない、閲覧者のほとんどない、はらぴょんさんの掲示板である「虚無なる『匣の中の匣』」で、杉澤さんが意見表明をするというだけでは、杉澤さんの意見表明として、不自然に不徹底なのではないでしょうか。

 これらの発言は、とても不思議なものです。
 一体、はらぴょんさんがアレクセイさんとのマイミク関係を解除した、という事実にとって、それをlainさんや淳さんや乱蔓さんが知ってしまう、ということがどれほどの意味を持つのでしょう。
 私がアレクセイさんを批判している個々の内容にとって、閲覧者のほとんどない掲示板でそれを行っている、ということがどれほどの意味があるのでしょう。
 私は、この二つの発言に、アレクセイさんのヒトに見られるということへの過剰な意識を見出します。アレクセイさんにとって大事なのは客観的な・普遍の事実ではなく、ヒトにどう捉えられるか、ヒトにどう見られるか、だ、ということをまざまざと感じます。
 もちろんヒトにどう見られるか、ということを考えることは非常に大事なことです。けれど、アレクセイさんのその意識は、適切な行為へと結びついていかない。
 先に指摘した、事実を歪曲して「一言半句ふれてはいない」と私を批判した事柄は、ヒトに見られる(ヒトにこのように理解されたいという)ことだけを考えて、事実から逸脱した発言を平然とやってのけてしまう、という、不適切な行為の典型のように思います。
No.354 - 2007/09/08(Sat) 17:47:02

要約・見解(13) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 議論の旗色が悪いと、相手を悪し様に罵ることに終始する。アレクセイさんのその傾向を一連の議論の中にも見出すことが出来ます。
 議論のはじめから終着点に至るまで、私は一貫して、私が明らかに誤りであると感じられる部分を指摘してきました。はじめから辛辣と言えば辛辣であり、(アレクセイさんの過度の批判から)はらぴょんさんを弁護する立場であると言えばはらぴょんさんを弁護する立場でもあるわけでした。
 それなのに、私に対するアレクセイさんの評価は、著しく変化していきます。

「 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
 まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。」という私の発言に対するアレクセイさんの評価は、

はじめは以下のようなものでした。

(以下引用 mixi(5)-4 )


『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

貴兄が、この「らしからぬ」コメントで何を狙ったかは、おおよそ想像ができます。
両者に対し、ここで「そんな議論をしても、お互いに益することはないんだから、お止めなさい」と言っても、少なくとも私の方は退かないだろうと正しく判断し、それならば両者引っ括めて『人格についての誹謗中傷の応報』扱いにし、『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせるだけだ、ということを強調することで、私のやる気を削ごうとお考えになったのでしょう。

そのために、わざわざご自分が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』に近い位置にあるかのような「演技」をし、「汚れ役」まで引き受けられたというわけです。『うっけっけっけ。』というのは、その「殊更さ」を証すものでしょう。

(以下mixi(5)-7)

私は、人に操作されるのを、何より嫌う人間です。そして、そういう私は、相手が「書いていること」が、そのまま相手の「意図・狙い」だとも思いません。
例えば、「ぶっきらぼうな親切」というものもあれば「親切を装ったペテン」ということもあります。私が問題とするのは「見かけ(書かれたこと)」である「ぶっきらぼう」や「親切そう」ではなく、「意図(本性)」である「親切」や「ペテン」なんですね(洞察力のない、はらぴょんさんの場合には、おのずとその逆になります。つまり「見かけ」しか、問題にできない)。
だからこそ、私は杉澤さんの「失礼を装った書き方」に腹を立てなかったし、逆に、はらぴょんさんの「専門家のお節介を装った書き方」に秘められた「陰湿な嫌がらせ」に激怒したわけです。

(引用終わり)

私の言葉の汚さに対して、一定以上の高い評価をされていることと思います。ところが、私がアレクセイさんにとって不都合な事実を指摘し、議論の形勢が明らかにアレクセイさんにとって不利になりますと、議論の主題とはあまり関わりのないことまで含めた私への批判を、アレクセイさんは展開していきます。同じ発言についての見解が以下のような変化をします。

(以下引用 mixi(10)-4 )

> アレクセイさんのはらぴょん論において、明らかな逸脱を感じた箇所があります。それについて、語らせていただきます。
> 竹本さんに電話したくだり。
> これは、はらぴょんさんが「(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。」ということの証左として、「竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆い」たことがある、というエピソードがあり、さらにそのまた余談であるわけです。つまり、紹介する必要のないエピソードです。私はこれを読んだとき、顔が紅潮するのが分かりました。アレクセイさんが竹本さんに電話したのは、なぜか? 私はそこに友情を見出します。はらぴょんさんのことを心から心配した、情に厚いアレクセイさんの姿を見出します。そのエピソードは本来なら心温まる、エピソードです。はらぴょんさんに明かすことなく胸に秘めていたアレクセイさんの奥床しさもまた、好ましい。それなのに、そんな大事なエピソードをアレクセイさんは、はらぴょんさんを侮辱し、はらぴょんさんに対して精神的に優位に立ちたいがために(論理的には紹介する必要がないのに)、そのための道具として使ってしまった。はらぴょんさんを踏みにじり、二人の間にあった友情を踏みにじり、アレクセイさんが目指すのはただ、はらぴょんさんを傷つけること、自分の傷から目を背けること。私はとても悲しく思いました。

相変わらず「くっさい三文芝居」だなあー。これで読者が感涙してくれるとでも思っているんだったら、よっぽど杉澤さんは、読者を「舐めている」ということだ。アレクセイは友情を踏みにじる冷血漢で、ご自分は「優しい人間だ」と世間に向けてアピールするには、ちとお芝居が古すぎませんか?

> 2007年02月27日02:26 杉澤鷹里

> 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
> まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。

とか、

> 2007年03月09日00:34 杉澤鷹里

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。

などと書いていた人と、同一人物だとは思えません。

(引用終わり)
「ぶっきらぼうな親切」と評価されていたはずの言葉が、ここでは不真面目な発言をする、「優しい人間」とはかけ離れたものの発言であるという具合に、否定的に扱われています。

「アレクセイの花園」から私を立ち入り禁止にした前後の発言にも、過剰な批判を見出すことができます。

>>  はらぴょんさんが謝罪の後、態度を豹変させるまでの時間の経過はいかにも奇妙です。その辺りの経緯を本人が言明していない以上、類推するしかないのですが、それは、ハタと冷静になるのに必要な時間であったのかもしれません。
>> 私がはらぴょんさんに、これまでどおりアレクセイさんとマイミクの関係を続けていくのが良いと思うのだけれど、もし耐えられずマイミク関係を解消するのであれば、面倒を避けるためマイミクの関係を断つのと同時に書込制限するのがよい、と助言したことを明言しておきます。


>等と書き、お馴染みの「曖昧節」を弄しながら、杉澤さんがはらぴょんさんに『助言』して、私を「マイミク」から外させた事実を、自供している。

>しかし、ここで注目すべきは、私の質問が「私信の無断公開」という「明らかな不適切行為」についてのものであるにも関わらず、杉澤さんは、そのことに関しては、またも「一言半句ふれてはいない」という、歴然たる事実だ。


杉澤鷹里という人(下)
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1525

これは、明らかに事実を歪曲した誹謗です。言論人としての良識、社会人としての常識から逸脱した行為です。

確認しましょう。私の発言の全体は、
「 はらぴょんさんが謝罪の後、態度を豹変させるまでの時間の経過はいかにも奇妙です。その辺りの経緯を本人が言明していない以上、類推するしかないのですが、それは、ハタと冷静になるのに必要な時間であったのかもしれません。
 私がはらぴょんさんに、これまでどおりアレクセイさんとマイミクの関係を続けていくのが良いと思うのだけれど、もし耐えられずマイミク関係を解消するのであれば、面倒を避けるためマイミクの関係を断つのと同時に書込制限するのがよい、と助言したことを明言しておきます。
 ミクシィというものが志向している方向性から考えて、面倒を起こす人間に対して書込制限することは決して、批判すべきことではないと考えます。
 残念ながらアレクセイさんははらぴょんさんからそのような人間であると認定されてしまったというわけです。そして、この遣り取りの実際を知るものとしては、その認定には、かなりの程度妥当性があると思っています。
 いずれにせよ、アレクセイさんが
>べつに私は、貴方のマイミクに戻りたいとは思いません。
とおっしゃっているのであれば、現実的な問題は特に無いように思います。
 メールの無断公開は、一般論としては、よろしくないことです。
 ですが、アレクセイさんも、はらぴょんさんとアレクセイさんとの関係も特殊であり、内容的なものを鑑みても今回の行為を「非常識で、仁義を欠き、手段を選ばない」とまでは言えないと思いますし、また、アレクセイさん自身が「べつに人に読まれて困るものではないから公開されても困りはしません」というのであれば、問題ないのではないでしょうか。
」ミクシィでの遣り取りの公開 http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1457

です。はっきりと「「私信の無断公開」という「明らかな不適切行為」」についての見解を述べています。「一言半句ふれてはいない」などと要約できることではない。全く事実に反しています。アレクセイさんは批判のために事実を歪曲し、その虚構にもとづいて私を批判しています。
 論争をするのもいい、相手を手厳しく非難するのもいい。だけれど、議論の形勢が自分に不利になったからといって、事実をねじ曲げて、相手を誹謗し、そして、反論の場を奪ってしまう。あまりの小卑怯さ、意気地のなさ、良識の欠如に、愕然とします。言論人としての信用を根本から奪い去ってしまう行為だと言えます。
No.349 - 2007/08/18(Sat) 23:44:15

要約・見解(12) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
藪木二郎さま、

 残念ながら、藪木さんの発言には、有意義で発展的な議論を進めていくことを困難にする、問題点がいくつかあるように思います。
 以下に、その点を示します。もし、私に対してメッセージを発することが今後もあるのであれば、その点の改善を望みます。

(1)批判の理由・根拠がクリアに示されていない点

>はらぴょん様は私のことを,一体どのように呼んでいるのでしょうか? ところで,「『オリエンタリズム』的」とボカした表現を用いたのは,一つには私自身は,誰かが西洋「と」東洋「に分け、」東「の側から」西「を批判する」といったような「イデオロギー批判」には,賛成できないからです)……。
>このような「考え」方を「面白い」などと言ってしまって、それで本当によろしいのでしょうか?

「はらぴょん様は私のことを,一体どのように呼んでいるのでしょうか?」という言葉の答えを私は、私が目にする範囲から容易には見出すことができません。次の文章とのつながりも明らかでなく、この疑問文によって何を藪木さんが示そうとしているのか、理解できません。
「一つには私自身は,誰かが西洋「と」東洋「に分け、」東「の側から」西「を批判する」といったような「イデオロギー批判」には,賛成できないからです」というのが藪木さんの立場というのは分かりましたが、「それはそうなのですか」としか言いようのない、ごく個人的な信条の表明です。例えば「ヒトを殺してはいけない」といったような、一般的妥当性を有する意見とは性質を異にします。
 ですから、「このような「考え」方を「面白い」などと言ってしまって、それで本当によろしいのでしょうか?」という発言については、額面通りの質問と受け取って、「はい、それでよろしいです」と、言うしかありません。
 けれど、ここには含意があるはずです。疑問ではなく、反語としての機能を書き手は意識している、と私は思います。「本当によろしいのでしょうか? いや、よくない」という批判だと理解します。しかし、それが適切な批判でないことは、先に示したとおりであり、藪木さんの主張したいところのものを私は受け取ることができません。批判的な言及をするのであれば、思わせぶりな印象批判をするのではなく、具体的で明確な批判をするべきであり、藪木さんの言葉にはその明確さが欠けていると考えます。

(2)論理的な飛躍がある点

>>「<A>は、自足的な自己同一性のゆえに<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な<A>とされるのである」という考えに即したものと考えます。[……]

> などといった「考え」方は、露骨に「オリエンタリズム」的ですよね?
> つまり、

>>「西洋は、自足的な自己同一性のゆえに東洋から区別されるのではなく、東洋と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な西洋とされるのである」、

> って訳ですから

ここには、論理的な誤りがあります。抽象的な構造を共有する別の具体的なことを、ある具体的なことを言っているときに、言っている、というのは誤っています。
 以下の例え話で論旨がわかり易くなると思います。「こちらの商品78円になります、100円お預かりしましたので、22円お返しします」と店員が言った。ここには100−78=22という引き算の構造があります。その引き算の構造を共有する別の具体的なものとして「こちらの商品78万円になります、100万円お預かりしましたので、22万円お返しします」と店員が言った、というものがあります。藪木さんの意見は、22円返そうとしている店員に対して、「22万円返すと言った」と言っているのと同じ事です。
 オリエンタリズムについては、私は何も言っていません。
 論理的な奇妙さ、というか考察のポイントのズレというかを他にもいくつか指摘できます。

>それなのになぜ「行為」が出て来たり「代数学」が出て来たりするのでしょうか?

「行為の代数学」という一つの著作名、固有名詞を、分割して討究しても意味を持ちません。

> あなた様の前回の投稿によって、ある文の中の言葉を「<A>」とか「<非A>」といったような記号に置き換えて検討することが、承認されたように思われます
 
承認されたも何も、論理学的な問題点をお尋ねになられたのは藪木さんです。論理というのは、記号に置き換えても損なわれることのない何かのことであり、論理学的な問題点は、記号に置き換えて検討する類のものです。

 もちろん、言葉というのはメタファーや含意によって通じる部分もありますから、藪木さんの言葉を全面的に否定する気はありませんが、あまりに論理的な逸脱が大きく、議論を行ううえで支障を来すものと判断します。

 以上、問題点を挙げました。
 
 最後に。以下の意見は、議論を重ねるに足るもののように思います。そのためコメントを加えておきます。

>するとやはり、はらぴょん様の主張はおかしいように思われます。なぜならば、「<非A>」は「<C>」かもしれないですし、「<D>」かもしれないではありませんか。

CもあるかもしれないしDもあるかもしれない、けれど、その中で、反実存主義が実存主義を形なすうえで主要な「対他−異立」的なものである、というのが、はらぴょんさんの主張と理解します。そこに、初歩的な論理学的誤りはない、というのが私の考えです。「いやCこそが実存主義を形なすうえで主要な物なのだ」というのは、論理学的な誤りに対する批判ではなく、事実認識の水準での批判です。
No.346 - 2007/08/11(Sat) 23:07:12

思考機械様からの投稿があったので保険をかけときますが… / 藪木二郎
>ところで、「観念論哲学」と「唯物論哲学」という観点から、「反唯物論哲学」の範疇に入るものは他にないか。

 そういえば私は、「唯心論」という言葉を聴いたことがあります(また,「実在論」という言葉も聴いたことがあります……)……。
 とはいえ、その「唯心論」などといった言葉は、恐らくはらぴょん様の「観点」によって「排除・隔離・隠蔽」されてしまうのでしょうね……。

 また、はらぴょん様は他の場所で以下のようなことも書いていますが、「面白い意見だと思います。」

>ベルイマン神父は、宗教学に詳しかったようだが、宗教学には大きく分けて二つあり、ひとつは自身の宗教の教義についての護教的な学であり、もうひとつはあらゆる宗教を平等に扱う比較宗教学もしくは宗教人類学である。[……]ところが、ベルイマン神父はキリスト教以外の宗教にも詳しかったということは、前者だけでなく、比較宗教学(ミルチャ・エリアーデ等)の著作にも親しんでいたということになる。[……]

>[……]このように、現在のキリスト教には納得しないが、それはあるべきキリスト教ではないからだと考えた人は、たくさんいる。[……]

 例えば、「『ポスト構造主義』」「の著作」「だけでなく、」「『反ポスト構造主義』」「の著作にも親しんでい」る人がいたとして、その人は果たして、「『ポスト構造主義者』」なのでしょうか? それとも「『反ポスト構造主義者』」なのでしょうか?
 例えば、「現在の」「『ポスト構造主義』」「には納得しないが、それはあるべき」「『ポスト構造主義』」「ではないからだと考え」る人がいたとして、その人は果たして、「『ポスト構造主義者』」なのでしょうか? それとも「『反ポスト構造主義者』」なのでしょうか?

 この「論考」は本当に「面白い」「論考」ですので、もう少しだけそこからの引用を続けてみましょう。

>ベルイマン神父は、異端者である。異端者を殺せ!

>殺せ!殺せ!ベルイマンを焼き殺せ!

>殺せるさ、殺せるはずさ。黒服に呪いの焦点を合わせるだけなのだから。
No.345 - 2007/08/10(Fri) 10:20:28

思考機械は考える / 思考機械
実存主義は、「実存は本質に先立つ」(サルトル)と考える。
反実存主義は、「実存は本質に先立つ」とは考えない。
本質主義は、「本質は実存に先立つ」と考える。これは、「実存は本質に先立つ」とは考えないのであるから、反実存主義の範疇に入る。
ここまでは、先行する哲学者たちが考えたことだ。

ところで、実存と本質という観点から、反実存主義の範疇に入るものは他にないか。
どちらかが先ではなく、「実存と本質は同時である」というのはどうか。
というか、実存主義も本質主義も、実存と本質に関係があるということを前提に、どちらが先立つのかを云っているので、この前提を取り払い「実存と本質は関係がない」というのはどうだろう。
あるいは、「あるのは無であり、実存も本質もなにもない」としたらどうなのか。
No.344 - 2007/08/07(Tue) 07:20:49

お話の途中に恐縮なのですが私への応答があったようなので… / 藪木二郎
○杉澤鷹里様

 あなた様の前回の投稿によって、ある文の中の言葉を「<A>」とか「<非A>」といったような記号に置き換えて検討することが、承認されたように思われます。
 であるならば、私が引用したはらぴょん様の文、

>「実存主義者」は、「反実存主義者、つまり本質主義者」に反対する主張をする人である。

 を、

>「<A>」は、「<非A>、つまり<B>」に反対する主張をする人である。

 と置き換えて表記し、その上で検討してみても、問題はないように思われます。
 するとやはり、はらぴょん様の主張はおかしいように思われます。なぜならば、「<非A>」は「<C>」かもしれないですし、「<D>」かもしれないではありませんか。

 杉澤様、私はあなた様に、

>[……]
>「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいても、おかしいような気がするのですが……。

 と問いかけ、あなた様も私に、

>[……]少なくともはらぴょんさんの意見が「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいておかしい、ということはないと思います。

 と応じたのではありませんか? それなのになぜ「行為」が出て来たり「代数学」が出て来たりするのでしょうか? しかもあなた様はこの「行為の代数学」なるものを「簡単に要約はできない」とし、そしてそれ以上の説明はしてはいない訳ですから、私はこの「行為の代数学」なるものを「クワス関数のようなもの」と見なします(当然その限りでは正しいとしてもいい,と言っている訳ですが…….なお,「クワス関数」に関してはソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス──規則・私的言語・他人の心』黒崎宏訳,産業図書,1983年を御参照下さい,……などと書く必要はないでしょうね? はらぴょん様もアレクセイ様もしばしば引用しておられる柄谷行人先生の本でも触れられています)。

 それにしても、

>「<A>は、自足的な自己同一性のゆえに<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な<A>とされるのである」という考えに即したものと考えます。[……]

 などといった「考え」方は、露骨に「オリエンタリズム」的ですよね?
 つまり、

>「西洋は、自足的な自己同一性のゆえに東洋から区別されるのではなく、東洋と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な西洋とされるのである」、

 って訳ですから(そして「西洋」人はネイティヴ・アメリカンのことを,「インド人」などと呼んだのですよね? はらぴょん様は私のことを,一体どのように呼んでいるのでしょうか? ところで,「『オリエンタリズム』的」とボカした表現を用いたのは,一つには私自身は,誰かが西洋「と」東洋「に分け、」東「の側から」西「を批判する」といったような「イデオロギー批判」には,賛成できないからです)……。
 このような「考え」方を「面白い」などと言ってしまって、それで本当によろしいのでしょうか?
No.343 - 2007/08/06(Mon) 00:16:59

コメント / はらだです。
以下のことを前提に、コメントします。
◆アラン・ソーカルについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(1)アラン・ソーカルは、論文中に不正確な数学・科学用語を乱用した知の意匠を用いるポストモダニズムの哲学者を批判している。
(E=mc2 は性的等号というリュス・イリガライ(フェミニズム理論家)とか、勃起器官は、√-1 に等しいというラカン(精神分析学者)とかの発言を見ると、この批判は妥当であるということがわかる。比喩にせよ、適切とは思われない。)
哲学の議論が、明瞭・明晰になることは良いことであり、ソーカルの議論によって、不適切な数式や科学用語の使用にブレーキがかかることは歓迎すべきことだと考える。
(2)ソーカルの批判は、物理学者の立場からなされたものであり、現代思想の書物に、不適切な数式や科学知識がちりばめられていることに対してなされている。ソーカル自身も認めているように、この批判はポストモダンの哲学自体に対してなされたものではない。
ソーカルの批判によって、現代思想の書物を読む意義がなくなったと考えるのは早計である。この批判は、ポストモダンの難解ぶった書き方に対するものであって、その本質に対してではないのである。
(3)科学の擁護という観点からすると、アルチュセールのイデオロギー批判は、ますます重要性を帯びてくる。アルチュセールは、観念論哲学と唯物論哲学に分け、唯物論の側から観念論を批判する。この際、権力によるイデオロギーの利用という視点から、国家のイデオロギー装置ということを問題にする。さらには、科学者の自然発生的な哲学をも、新たな観念論の始まりとして批判する。例えば、ニューサイエンスと呼ばれるものは、科学者の自然発生的哲学の最たるものである。
(4)私は中沢新一氏の著作から多くのものを得ているが、同時に理論的整合性の観点からすると、浅田彰氏の方が整合性があると考えている。浅田彰氏の理論の根底には、アルチュセールのイデオロギー批判があり、観念論批判で貫かれている。そのため、整合性があり、ソーカルとブリックモンの批判も、彼には当たらないとみる。(ソーカルとブリックモンの論法で、山形浩生は、浅田彰のクラインの壺を批判しようとしたが、これは山形の理解力不足であると私は考える。理由は、資本主義というシステムが、外部からの侵犯をなし崩しにするということを、クラインの壺が言い表しているということが、よく理解されていないからである。)これに対して、最近中沢新一氏が提唱している三位一体モデルは、物事の説明には役立っても、新たに湧き出た観念論哲学のように思われて、私には釈然としない部分がある。
No.341 - 2007/08/05(Sun) 09:36:47

要約・見解(11) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 藪木二郎さま、

 議論の進みが遅く、申し訳ありません。

 私はポストモダニズムに与するものではありませんし、そうした思想的な内実において、はらぴょんさんと考えを同じにするものではないであろうということをお断りしたうえで、話を進めさせていただきます。
 ソーカル事件、については、つまり、ポストモダニズムの自然科学用語のいいかげんな使い方に対する否定的見解については、私も考えを同じくします。例えば、中沢新一さんの「雪辺曲線論」などを読みますと、あまりに感覚的に科学用語を使用しており、眉をひそめてしまうところがあります。
 
 とはいえ、私も、例えば青都探での諸論文において、異なる様々な体系の用語をかなり自由な解釈で使用しており、ポストモダニズムの自然科学用語の用い方と、どれだけ差異があるのか、クリアに説明するのは容易ではありません。
 体系に依拠して学ぶことと、体系を越え出て新しい知見へと到達していくこと、その兼ね合いは難しいものです。
 だけれど、この一連の遣り取りの中でのアレクセイさんの発言における誤りと、誤りを隠蔽しようとした行為は、そうした議論とは本質的に異なる水準のものであると思います。

>更にはらぴょん様の、「『実存主義者』は、『反実存主義者、つまり本質主義者』に反対する主張をする人である」といったような主張は、論理学的にいってどうなのでしょうか?

「<A>は、自足的な自己同一性のゆえに<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な<A>とされるのである」という考えに即したものと考えます。面白い意見だと思います。
 論理学的には、たとえば大澤真幸さんの『行為の代数学』において、考察が深められていて、それをちょっと簡単に要約はできないのですけれど、少なくともはらぴょんさんの意見が「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいておかしい、ということはないと思います。
No.340 - 2007/08/04(Sat) 22:50:44

まだお話の途中なのでしょうが投稿が休止しているようなので… / 藪木二郎
>「100+100=200」という算数の体系に与して、学んでこそ、「100+100=300」である、と突っぱねてしまっては到達できないような領域、「eのiπ乗は−1になる」というような領域に達することができるのだと思います。

ポストモダニズムに与する人がこういうことを書くのであれば、その前に、当然の手続きとして、ソーカル事件について何らかの見解を示しておくべきなのでは? と思っていたのですが、アレクセイ様がどこかで、同様の指摘をなさっているようですね? とはいえこの掲示板でも、上の事件を無視したままではマズいのではないでしょうか?

特にはらぴょん様は、「ジャック・デリダの脱構築(ディコンストラクション)の考え方とその政治的実践版であるドゥルーズ=ガタリのノマドロジー的戦争機械」などとサラッと書かれてらっしゃいますので、アレクセイ様も行ったと思われる Wikipedia に見られる以下の記述、

>ソーカルに批判されたのは、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジュリア・クリステヴァ、ミッシェル・セール、ポール・ヴィリリオ、ジャン=フランソワ・リオタールなど多くがフランス人の思想家だった。
>なお、ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダやミシェル・フーコーは、自然科学用語は殆ど使用していないので、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない。

という記述とも併せて、この事件についての見解を伺いたいと思います。

更にはらぴょん様の、「『実存主義者』は、『反実存主義者、つまり本質主義者』に反対する主張をする人である」といったような主張は、論理学的にいってどうなのでしょうか? 「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいても、おかしいような気がするのですが……。
No.338 - 2007/08/03(Fri) 09:21:04

要約・見解(10) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 ここまで、アレクセイさんがミクシィでした、「はらぴょん論」の内容に則し、それが妥当性を欠く批判であることを、(1)発言の内容そのものへの批判、(2)発言をするに至る経緯に対する批判、(3)そういう発言をしてしまう人格・物の考え方に対する批判、という三つの水準において確認してきました。
 そして問題は「はらぴょん論」の内容だけでなく、「はらぴょん論」を展開する、という行為にも、あると言えます。遣り取りの中で、私が述べた通りです。
(以下mixi(10)-3より引用)
 アレクセイさんのしているはらぴょん論は、「ホランドさんは浅田批判などしていない」という発言と同じく、自分の誤りを認めたくないがための欺瞞的隠蔽の一つに過ぎません。はらぴょんは卑小だ、はらぴょんは汚いと語ることによって、自分の不名誉から目を背けているわけです。
(引用おわり)

 そして、アレクセイの花園への転載においても、同様の問題があったと思います。はらぴょんさんからマイミク関係を解除された、ということを契機に、はらぴょんさんをあしざまにののしる文章を、アレクセイさんは自身の管理する掲示板に転載した。
 そのとき、アレクセイさんは己の不誠実さのゆえに、はらぴょんさんから拒絶された、という事実から目を背けようとして、はらぴょんさん批判を再び繰り返した、のだと言えます。
 その混乱ぶり、逆上ぶりは、
>私をマイミクに戻し、閲覧拒否を解除し、すべてを元の状態に戻すこと
>私は、貴方のマイミクに戻りたいとは思いません
http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/20070428

>ご承知のとおり、私は「来る者を拒まず、去る者を追わず」という人間でございますから
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1463

などと互いに相矛盾するような言葉が並ぶところに読み取ることができます。

きわめつけは、

>明日になれば、貴方がなさったことは、すくなくともlainさんや淳さんや乱蔓さんには、自ずと知れてしまいます。

という発言です。この発言は全く奇異に思われます。後に、この発言の問題点を、先頃、青都探においてアレクセイさんが私にした奇妙な要求の、その奇妙なロジックと、関連づけて検討することとします。

 はらぴょんさんがアレクセイさんとのマイミク関係を解除したことについて、少し触れておきます。
 はらぴょんさんは、時間の経過の中で、自分の意志で、アレクセイさんを拒絶するに至ったんです。少なくとも、その経過に私は関与していません。私がしたのは、はらぴょんさんからアレクセイさんをマイミクから外そうと思うのだけれど、どう思う? という相談をされたときに、返事をしたことだけです。
 はらぴょんさんがアレクセイさんを憎むに至った経緯は、私の与り知らぬものです。経緯は分からぬけれど、アレクセイさんのはらぴょん論に充ち満ちた欺瞞に、時が経ち冷静さを取り戻した人間が気づき、怒りや憎しみ、許せないという気持ちを抱くのは当然のことのように思います。
 そうした欺瞞を、それと感じさせず、圧倒的な圧力で相手を屈服させてしまう力量に驚きを隠せないけれど、結局のところそうして勝ち取った「勝利」がアレクセイさんにもたらす利益は何もないこと、そうした欺瞞的な論争能力はアレクセイさんの最大の欠点だということ、これらのことを深く認識してほしいと思います。
No.337 - 2007/07/16(Mon) 17:59:00

要約・見解(9) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんは非常に引用を多用されます。それは、多くの場合巧みで適切だと思います。しかし、時として、その引用が己の脆弱性を隠蔽する鎧のようなものとして機能していると感じられることがあります。
 例えば、私とのアレクセイの花園での遣り取りの中で、「読解とは、どういうことなのか(上)」http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1516 というタイトルの投稿において、東 浩紀さんの文章を引用しているのですが、結局この引用によって、何を言っているのかというと、杉澤鷹里の発言の言葉尻を捉えて批判することがなかなかできないので、想像上の杉澤鷹里を批判するようになった、ということの言い訳なんです。
 東 浩紀という権威を持ち出して、とんでもない意見の鎧にしているわけです。
 ミクシィでの遣り取りでも、そうした権威による脆弱な自己の鎧とする行為の典型を見ることができます。
「浅田彰批判をしていない」ということが欺瞞だとする私の指摘を受けたアレクセイさんは、柄谷行人さんの文章

『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』

を都合3回も引用しています。「浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』」という主張に、自信があるのなら、何も柄谷行人という権威を3度も引用する必要はないはずです。アレクセイさんはそれなのに、そうしてしまう。それは、アレクセイさんが表面的な強がりとはうらはらに、自分に自信がなく権威に縋る傾向があることを如実に示している事柄だとは言えないでしょうか。
 アレクセイさんは確かに権威を批判します。だけれど、それは、

>浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ。その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。

という発言に現れている通り、「権威だから」批判する、「権威だから」批判することに価値を見出す、倒錯した権威主義であると言えます。
No.335 - 2007/07/14(Sat) 17:00:32

要約・見解(8) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんのアンチ権威主義が、権威というものを意に介さない、権威を超越し、権威が失効したような状態としてあるのではなく、むしろ逆にほとんど権威主義に寄り添うものとしてあること、権威に恋い焦がれ、求めて求めてやめず、それなのに到達できないがゆえに、反転した感情として生じたものであること、それを確認していきます。
No.334 - 2007/07/07(Sat) 17:02:27

要約・見解(7) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんが一連の議論の中で、幾度か繰り返した奇妙な論法があります。それは以下のようなものです。

(以下引用)

知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。

(引用終わり)

 これは、はらぴょんさんの日記「批評におけるパラダイムの混在」で、ホランドさんの発言が間違った解釈に基づくものだとして「ただでさえ、小難しい現代思想の世界において、さらにわかったようなわからないようなことを言う魍魎が跋扈するという状況は宜しくない。」と、評したことに対する、反論です。
 まず、はらぴょんさんの発言に対する応答としての問題点があります。はらぴょんさんは「知識がなければ語るな」ということを言っているわけでないにも関わらず、そしてもっと繊細な議論をしているのにかかわらず、それを「知識がなければ語るな」という大雑把な意見として(アレクセイさんの好む言い方をすれば「矮小化」して)扱っています。
 この反論が一般性を欠くことは、同じ論法を別のことに適用させて見れば、よりクリアになります。
「100円のものと100円のもの、あわせて300円になる」と間違えた小学生がいて、「100円のものと100円のもの、あわせて200円でしょ。もっと算数勉強しなくちゃ。こんな程度の間違いするんなら、買い物の計算をまかせられないわ」と母親が言った。小学生が、「算数の計算能力が無ければ「計算する権利」が無いというのであれば、「計算する権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも計算能力を有した人だけ」ということになる」と反論した。
 そういう話になるはずです。この反論に妥当性を見出すことは困難です。アレクセイさんの論法は、真理や、一般常識というものを、無視することによって、成り立っていることが分かります。
 コンセンサスのある事柄とそぐわないことをすること、「100+100=300である」と突っぱねるということ、それは余程の覚悟のいることです。
 何がコンセンサスのある事柄なのか、ということを知っていること、「100+100=200」というのが正しいことととしてある、ということを知っているということ、それは世界に圧倒的な力を持って広がっている有益な知識に触れるためにとても大事なことのように思います。「100+100=200」という算数の体系に与して、学んでこそ、「100+100=300」である、と突っぱねてしまっては到達できないような領域、「eのiπ乗は−1になる」というような領域に達することができるのだと思います。
No.332 - 2007/06/30(Sat) 23:08:29

要約・見解(6) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんによるはらぴょんさん批判において、「竹本さんの小説に出てくる『かくかくしかじか』という表現についての指摘はアレクセイさんが先にしたものであるのに、はらぴょんさんがそれを先に自分が指摘したかのようなレトリックを行使した」、というものは、実に具体的で、そして執拗でした。
 ここでも原文を確認しておきましょう。
 
(以下引用)

そして、さらに、はらぴょんさんは、それに続く書き込みで、私が「アレクセイの花園」に書いた竹本の新刊『キララ、探偵す。』についての文章に言及して、私の文章を「一部」引用して、次のように指摘しています(上半分が、私の文章の引用。下半分が、それに関する、はらぴょんさんの見解)。


『例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

2007年02月01日 00:16の方が、先でしたね。
いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


ここで、はらぴょんさんは、この点についての指摘は、自分のほうが『先でしたね。』あるいは『アレクセイさんの(…)着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りした』と書いています。――しかし、これは「恥知らずなレトリック(意図的欺瞞)」です。

事実は次のとおり。
私が『キララ、探偵す。』について上のように指摘した『「メタ・フィクション」的手法』については、はらぴょんさんも紹介している、私の『狂い咲く薔薇を君に』評、

・ 「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」2006年04月26日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=123885033&owner_id=856746

において、『あのう、それはかくかくしかじか』 (『狂い咲く薔薇を君に』P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる「同種の技法」を指摘した上での、


『と、作中人物のセリフのなかで、「小説文法からの逸脱」的な「省略」がなされます。

 むろんこれらが、凡百の作家においてなされたものであれば、単なる「無神経」だと理解することも可能なのですが、作品に「メタ」的視点を導入するのが常態だと言ってもよい竹本健治の場合、そのような無神経さは、ほとんど考えられないことなのです。そして、そうだとすれば、これらは故意になされた「不自然な描写」だと理解する方が、むしろ自然だと言えるはずです。 』


という「私の指摘(見解)」を踏まえたものです。――と言うよりも、この点に関する指摘と、その意味を指摘することが、拙論の「眼目」であり、拙論を読んだ者であれば、「誰」でも『キララ、探偵す。』における「同様の部分(まったく同じ言い回し)」の意味を理解できるし、その箇所を「指摘」するのも容易なのです。
つまり、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んだ後に、『キララ、探偵す。』における上記の箇所を指摘するのは、私の批評に対する『先回り』ではなく『後追い』であり、その観点がすでに私によって指摘されたものであるという「断りを入れないで」なされた指摘は、所詮は単なる『猿真似』でしかない、ということです。

はらぴょんさんは、

・ 「『キララ、探偵す。』補足」2007年01月29日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=331067408&owner_id=491648

で、自分の書いた、


『ただ、普通のミステリと違うのは、「いや、実はかくかくじかじか」(53ページ)のような表現があることで、同じことを何度も書くのは、書く方も読む方もめんどうだし、小説=虚構だからいいじゃないの、ということで書かれているのだと思いますが、そこが違うということです。
このことは、メタ化とかかわってくると思いますが、そんなことは気にせず、愉しめばいいと思います。』


という指摘が、私の『猿真似』でしかないということを重々自覚していたからこそ、私が『狂い咲く薔薇を君に』で指摘しておいた点を『キララ、探偵す。』でも指摘すると(もちろん、私の指摘はそれだけではないが、はらぴょんさんは、そこしか紹介しません)、読者の多くが私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」までは読まないだろうことを見込んで、


『いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


と書き、私の『着目しそうな箇所』だと暈して、私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので、私は、先の、はらぴょんさんの日記ページ、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

に、


『それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。』


とだけ、警告的にたしなめるに止めてのです(2007年02月12日)。

しかし、はらぴょんさんは、こうした「忠告」すら、気に喰わなかったのでしょう。自分の行為を恥じるのではなく、逆に、

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

を書いて、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったのです。

(引用終わり)

「私の『着目しそうな箇所』だと暈して、私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した」というのは、なんとアクロバティックな行為だろう、と、本当にそんなことをする人がいるのだろうか? と首をかしげてしまう話です。
 実際のところ、はらぴょんさんの主張は、最初から今に至るまで変わらず、「キララ」は私が先だ、ということであり、アレクセイさんの認識とは全く逆転した形で、はらぴょんさんはこの点について拘泥していたのでした。議論の終着点で、はらぴょんさんは、「キララ」について先に「かくかくしかじか」のことを言及していたのに、それをアレクセイさんに黙殺されてしまったことが、アレクセイさんへ批判的な発言をするきっかけとなったのだと告白しています。
「狂い咲く薔薇を君に」と「キララ」とは別の小説であり、はらぴょんさんが「たとえ話をふたつ」で、説明しているように、そしてそのたとえ話に、私が補足しているように、「狂い咲く薔薇を君に」で、あることを指摘することと、「キララ」で、あることを指摘することとは別のことです。アレクセイさんの「狂い咲く薔薇を君に」での指摘を踏まえて、「キララ」において、同様の指摘をしたからと言って、それが傑出した論考だとは言えませんが、それはそれとして一つの指摘であるわけであり、少なくとも「私が遠の昔に着目し指摘しておいた」と斬りつけられることではありません。アレクセイさんが「遠の昔に着目し指摘し」たのは、「狂い咲く薔薇を君に」のことであって、「キララ」についてではない、というのは、論理的な妥当性があるように思います。そして、それははらぴょんさんにとっての確信であるわけでした。
 ですから、今も変わらず「キララは自分が先」と言い続けている、そういうはらぴょんさんにとって、アクロバティックなレトリカルな隠蔽をする必要などどこにもなかったはずです。
 実際当人の告白においても、アレクセイさんの批判が、まったくの言いがかりであったと感じられたこと(逆に言論的な圧殺をされる感覚を覚えたこと)が述べられています。
 アレクセイさんとはらぴょんさんの物事の価値のウエイトの置き方が、まったく異なるがゆえに、アレクセイさんは見当違いの批判をしていたというわけです。
 見当違いでありながら、アレクセイさんの言葉は辛辣であり、「恥知らず」「姑息な態度」「見苦しい」「人間として卑しい」などと言葉を連ねてしまっています。これは「勘違いでしたね、すみません、だははー」と軽く謝罪するのを困難にする、決定的に人間関係を破綻させる類の誹謗のように思います。

 なぜ、アレクセイさんが、このように存在しないアクロバティックな隠蔽がある、と考え、それを批判してしまったのか?
 それは、この要約・見解(4)、要約・見解(5)を読んでこられた方には、十分お分かりいただけるでしょう。アレクセイさん自身がそのようなアクロバティックな隠蔽を試みようとしていたからです。
 自分のことを、架空のはらぴょんさんに重ねて、はらぴょんさんを批判していたというわけです。それがアレクセイさんの(徹底的に相手を攻撃しようと意図したときの)批判の基本的な姿です。
No.331 - 2007/06/23(Sat) 13:20:47

要約・見解(5) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんの反論は以下に示すとおりです。

(以下引用)

ここで私は、浅田彰に関する「通説」を紹介しているだけであり、浅田彰が実際にどうか、あるいは、私(アレクセイ)が浅田をどう評価しているか、を語ったものではない。
なぜならば、私は、浅田彰をほとんど読んでいないし、浅田彰批判も笠井潔のものしか読んでいないため、実質的に「浅田彰そのもの」を語れる(どこかへ位置づけうる)立場にはない。端的に言えば「浅田彰を知らない」。つまり、ここに引用された私の発言は、「浅田彰は、一般にこう評価されているそうだが」という「世間の浅田彰評価」に関する話でしかない。
――したがって、この部分をして、私が「浅田彰そのもの」について語った「かのように」持っていくのは、杉澤さんお得意の「(レトリカルな)牽強付会」というやつです。

ちなみに、私の「実感」を説明した文章を、「アレクセイの花園」(3月9日(金)23時36分30秒)から引用しておきましょう。

> 柄谷行人が『探究2』の「註」のなかで、我が意を得た発言をしておりますので、ご紹介しておきたいと存じます。


>『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』(P155)


> つまり、柄谷行人は「世界を、自分の頭で考えたいだけだ」と言っているのでございます。ですから、彼にとって、先行する哲学者は、世界を考えるための「道具」でしかなく、決してそれ自体を珍重するような「権威」ではないのでございますね。したがって柄谷は、それらの哲学者が「実際にどうだった」というようなことには興味がなく、「彼が考えたことは、こうであったとも考えうるし、そう考えた方が、世界をより興味深く考察することができる」と言いたいのでございます。

> 当然、こうした態度は、「専門」であることが「正統」であり、「正統」であることが「権威」を保証するものだと考える「専門家」には、嫌われ疎まれざるを得ません。しかし「そんな俗なことは、どうでもいい」というのが柄谷行人の考え方であり、私の共感するところなのでございます。

つまり、私も、浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』のですね。
そういうことは、そういうことが好きな「専門家」の方に委せておけばいいことで、私たち素人が、読み齧りの半端な知識であれこれ決めつけることではないし、また、いくら知識があったとしても、決めつけることそれ自体、愚かしい行為なのですよ。

> この点を今まで指摘できなかったのは、私の単純な見落としによるものであり、それにより、適切でない解釈をしてしまったことを深く反省しています。

いや、それは「見落とし」ではない。貴方が今回ご指摘なさった論点なんて、そもそも「存在しない」んですよ(笑)。 むしろ「恣意的に間違った解釈を、事ごとしく提示したこと」を反省すべきです。

> あらためて確認しますが、はらぴょんさんが言う、

>>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

>> というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例

> だという評価は、的外れではないんです。

やはり堂々回りですね。
はらぴょんさんの『滑稽な事例』だという判断は、(すでにご本人は理解しておられるとおり)ホランドくんの言葉が「kamuiさんの言葉に向けられたもの」であることを理解できなかったためになされた、「的外れ」なものなのです。
ちょうど、杉澤さんが、ここでした、

> 「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。

という、私の言葉への「誤解」と、まったく同質です。
はらぴょんさんの失敗から学ばなかったのは、杉澤さん貴方ですよ。
 
(引用終わり)

>私は、浅田彰をほとんど読んでいないし、浅田彰批判も笠井潔のものしか読んでいないため、実質的に「浅田彰そのもの」を語れる(どこかへ位置づけうる)立場にはない。 

「語れる立場にはない」のに、それを語ってしまったから、滑稽だと言われているわけです。

>ここに引用された私の発言は、「浅田彰は、一般にこう評価されているそうだが」という「世間の浅田彰評価」に関する話でしかない。

>私も、浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』のですね。

 世間の一般常識(正しい思想についての知識)に基づいて発言をしているのだ、という、主張と、そんなものは関係ない、という主張。この二つの相矛盾する観点から話しをしていて、論理が破綻しています。
 私の指摘を受けるまでのアレクセイさんの主張は、

>「誰でも書きそうな断片」が「浅田彰」や『構造と力』にあった場合、はらぴょんさんにとっては、それは「kamuiさんの意見」ではなく、「浅田彰」や『構造と力』が占有するもの(意見)として扱われねばならないのです(ホランド氏は、そうしなかった。「kamuiさんの意見」として応接した)。 (mixi(6)-6)
 
>ホランド氏は「浅田彰」を批判してなどいないからです。ホランド氏は、あくまでも「kamuiさんの意見」に異論を唱えています。その意味で、ホランド氏の意見表明は、いたって堅実であり、そんなホランド氏とkamui氏の対話を「浅田彰論」と捉える、はらぴょんさんや杉澤さんのご意見の方が「危うさ」を通り越して、事実から「逸脱」しているんですよ。 (mixi(6)-7)

というものです。「『世間の浅田彰評価』に関する話」をしていない、と言っているんです。『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』どころか、浅田彰はこうなのだ、と言っていないと、言っているんです。
 私の指摘を受けて、立ち位置をスライドさせて、新たな言い訳をしているわけです。
 
>そういうことは、そういうことが好きな「専門家」の方に委せておけばいいことで、私たち素人が、読み齧りの半端な知識であれこれ決めつけることではないし、また、いくら知識があったとしても、決めつけることそれ自体、愚かしい行為なのですよ。

 素人であることを言い逃れの根拠にはしない、という普段(他人に求めている)立場と隔たりのある意見です。アレクセイさんの行為とこの意見との関係が明らかではないわけですが、その愚かしい行為をアレクセイさんもしている、と、思えるから批判の対象に登っているわけです。 
 
>いや、それは「見落とし」ではない。貴方が今回ご指摘なさった論点なんて、そもそも「存在しない」んですよ(笑)。 むしろ「恣意的に間違った解釈を、事ごとしく提示したこと」を反省すべきです。

>私の言葉への「誤解」と、まったく同質です。
>はらぴょんさんの失敗から学ばなかったのは、杉澤さん貴方ですよ。

 内容的なものは何も言ってないに等しい言葉です。

>はらぴょんさんの『滑稽な事例』だという判断は、(すでにご本人は理解しておられるとおり)ホランドくんの言葉が「kamuiさんの言葉に向けられたもの」であることを理解できなかったためになされた、「的外れ」なものなのです。

「ホランドくんの言葉が『kamuiさんの言葉に向けられたもの』である」だけに止まらず、(わずか数行の文章に基づいて)一般論としての浅田彰を語っているのだ、ということを具体的に指摘しているのに、それを全く無視しています。
 以上、詳細にアレクセイさんの反論がナンセンスなものであることを見ました。
 
 話を根本のところに戻せば、浅田彰が何を言ったか、メルロ・ポンティが何を言ったか、こだわる立場もあれば、こだわらない立場もあると思います。だから、勘違いは勘違いで大した問題ではないと、思います。
 そんな些細なことなのに、アレクセイさんは、それを受容れられず、欺瞞的な隠蔽を重ね、言い訳を並べ、人を傷つける言葉を吐いてしまう。
 それは言論人としての、大きな逸脱行為であり、私はそれをどうしても容認することができません。是非改めていただきたい。そうすることで、絶対に、絶対に、アレクセイさんは一回りも二回りも大きくなると信じてます。
No.327 - 2007/06/17(Sun) 21:09:25

要約・見解(4) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 この一連の遣り取りにおいて、先に示した三つの水準のうち、「(1)発言の内容そのものへの批判」が、最も重要なのは言を俟たないでしょう。はらぴょんさんのその発言に問題があるとして開始された議論であるわけですから。
 そしてその議論において、「浅田彰批判をしていない」というアレクセイさんの意見(mixi(6)-2)は、きわめて説得的で妥当なもののように思われました。アレクセイさんが示した引用箇所だけを見れば確かに、kamui氏によって引用された文章に示された考え方への異論、という枠組みを逸脱してはいなかったからです。
 しかし、その引用はきわめて不十分なものであり、アレクセイさんの「浅田彰批判をしていない」という意見は、それによって辛うじて成り立っていた虚構の意見だったのでした。
 アレクセイの花園に1月24日、アレクセイさん(としてのアレクセイさんが)がホランドさん(としてのアレクセイさん)に向けてした、以下の内容の投稿を紹介しないことによって成り立っていた意見だったのでした。

以下引用

> ――というわけで、園主さまの文章(主に、「ミクシィ」のコミュ【柄谷行人】に発表なさっている文章)を読ませていただいたり、あれこれご教示いただいている「ジャック・デリダの思想」は、けっこう身についているようですね。
> もちろん、原典を読まずにやっていることだから、誤解している部分も少なくないでしょうが、ボクなりに刺激され、役に立っている、というのは間違いないようです(笑)。

いや、私より上手に、デリダを援用してるんじゃないか?(笑)


>  え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。


浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ。その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。
「発達心理学」的な考え方に対する、柄谷行人的な指摘(「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」)も、かなり大胆なもので、おもしろいと思う。「混沌から秩序へ=混沌から自我へ(自我=秩序)」という図式を疑うというのは、かなりデリダ的なんじゃないかな

引用終わり

 この箇所は、「浅田彰批判をしている」ことをクリアに示しています。
 私は、アレクセイさんがこの箇所を遣り取りの中で伏せていたのは、意図的な隠蔽だったと判断しています。なぜなら、kamuiさんとホランドさんとの遣り取りに疑問を抱いた私に対して、アレクセイさんがご丁寧なことに関連部分を示した(mixi(6)-6)際の言葉が、
「ひとまず、関連部分をぜんぶ引用しておきましょう。」
だったからです。「ぜんぶ」というのは過剰な表現です。関連部分の引用が「ぜんぶ」でないことは明らかでした。ホランドさんの言葉をkamuiさんがどう受け取ったか、アレクセイさんの引用には示されていませんでした。(私は、示されなかった、kamuiさんの言葉を知りたくて、「アレクセイの花園」の掲示板を遡っていき、問題の発言を知ったわけです)。そのような不完全な引用をわざわざ行い、それについて敢えて「ぜんぶ」という過剰な表現をしたのは奇妙でした。引用箇所以外に目を向けさせたくなかった、と考えるのが最も適切なように思います。
 ここには、手法的な姑息さ、という問題点と、議論の内容の問題点が現れています。
 内容的な問題点というのは、この一連の遣り取りでの重要な論点、はらぴょんさんの言葉が言いがかりだというアレクセイさんの主張、思想家というラベルでなく思想の内実が問題なのだ、というアレクセイさんの主張が、議論の流れの都合によって丁稚上げられた、真実とは隔たった虚構であった、ということです。
No.326 - 2007/06/17(Sun) 20:13:25

要約・見解(3) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんの一連の遣り取りにおける「はらぴょん論」に対する(内容面での)私の批判は、先に示した三つの水準それぞれにおいて、以下のように展開していく予定です。

(1)について、(mixi(8)-9)において既に指摘したことですが)アレクセイさんは、やはり「浅田彰批判をしている」ことを見ていきます。mixi(8)-10で、アレクセイさんは私の指摘について反論をしているわけですが、その反論がナンセンスなものであることも確認します。

(2)について、はらぴょんさんがアレクセイさんがした指摘を先に自分が指摘したかのようなレトリックを行使した、ということはなかった、ということを見ていきます。

(3)について、はらぴょんさんが権威主義的であるのであれば、それとほとんど同じ水準でアレクセイさんもまた(反権威主義という装いをした)権威主義であること。権威主義、としてアレクセイさんが糾弾しているところのものが、必ずしも糾弾すべきものではないこと。これらのことを述べていきたいと思います。
No.321 - 2007/06/10(Sun) 17:03:26

要約・見解(2) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 別の角度から概要を示します。

 はらぴょんさんのミクシィの日記「批評におけるパラダイムの混在」を巡っての討論、という形式で捉えて、見ていきます。

 はらぴょんさんのコメントをホランドさんを含む自分への誹謗と受け取ったアレクセイさんによる批判が、議論の主旋律となります。アレクセイさんの批判は多岐にわたります。(1)発言の内容そのものへの批判、(2)発言をするに至る経緯に対する批判、(3)そういう発言をしてしまう人格・物の考え方に対する批判、という三つの水準において展開されている、と理解すると論旨が見えやすくなります。

(3)そういう発言をしてしまう人格・物の考え方に対する批判とは、はらぴょんさんが、権威主義的であるということ、サインコレクションを自慢するのと同レベルにおいて哲学の知識の所有を自慢しているということなどです。

(2)発言をするに至る経緯に対する批判とは、以下の二つのことで、はらぴょんさんがアレクセイさんのことを憎み、それでお門違いの誹謗をしたのだ、とする批判です。はらぴょんさんがアレクセイさんを憎むに至ったことの一つ目は、(はらぴょんさんが好きな作家である)小森健太朗さんをアレクセイさんが批判したこと。二つ目は、竹本さんの小説に出てくる『かくかくしかじか』という表現についての指摘はアレクセイさんが先にしたものであるのに、はらぴょんさんがそれを先に自分が指摘したかのようなレトリックを行使した、ということをアレクセイさんが暴いてしまったこと。と、されます。
 
(1)発言の内容そのものの批判は、こうです。はらぴょんさんの発言は、ホランドさんが浅田彰を批判しようとして、浅田彰さんの意見ではないものをそれと勘違いして批判している、というものであるが、実際にホランドさんがしたのは、kamuiさんの引用した文章をして便宜的に浅田彰の意見と呼んだのであって、事の本質を外した見当違いな誹謗である、と。
No.319 - 2007/06/09(Sat) 10:28:48

要約・見解(1) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 一連の遣り取りのあらましをごくコンパクトに示しておきます。

 まず、議論の着地点から事を眺めてみましょう。
 一連の遣り取りは、杉澤鷹里の無様な退場とアレクセイさんのまとめの言葉で終わります。
 ヒトによっては杉澤鷹里の無様な退場のあまりの無様さに、なんでこんなものを公開したがったのだろうと、首を捻られたかもしれません。
(私は無様さを愛します。無様さにこそ反省すべき課題がクリアに現れているし、それを越えてこそ向上が望めるからです。……と、まあそれは措くとして)
 
 なぜ、私が私の退場を無様だと感じるか? 
 それは、退場する直前に、「ほとんど議論は終わった。目的は達した」という達成感・満足感に浸っていたからです(ちなみに目的とは、(1)二人の争いをなるべく円満に終わらせること (2)著しく貶められたはらぴょんさんの名誉を回復すること (3)アレクセイさんの逸脱行動を少しでも改めてもらうようにすること でした。(1)の目的は達しえなかったにしても、(2)(3)についてはある程度目算がついた、と思ったのです)。その達成感をはらぴょんさんの「ある転落の記録」は根底から奪い去ってしまった。議論の土台を奪われた墜落感。達成から墜落へ、その落差はあまりに大きく、さすがにその日の夜は一睡もできませんでした。

 私がどうして達成感を感じていたのか? それは、
アレクセイさんの日記 続・杉澤鷹里氏との議論
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746にしたコメント(mixi(8)-9)において、アレクセイさんのしてきた議論の内容面でのきわめて重要な問題を指摘し、

 アレクセイさんの日記 杉澤鷹里流「アレクセイ論」 あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=369493150&owner_id=856746
にしたコメント(mixi(10)-3)において、アレクセイさんのしている議論の背景としての問題点(動機のレベルでの問題点)を的確に指摘し得た、と考えていたからです。それによって議論の趨勢は動かしがたいものになった、と、判断していたからです。
 議論の内容面での問題とは、重要な論点、アレクセイさんが繰り返ししていた「浅田彰批判をしていない」という主張が欺瞞的な隠蔽によって成り立っていた、ということです。
 議論の背景としての問題点とは、アレクセイさんが自分に自信が持てないがゆえに自分の誤りを認められず、自分の傷から目を背けるために相手を過剰に批判している、ということです。
 アレクセイさんの「はらぴょん論」編集は、こういう、私の指摘を省くための操作であり、そのために、全ログの紹介ではない要約となったのだ、というのが私の考えです。

 それにしても。議論の一切合切を根底から否定する行為。そんな行為をどうしてはらぴょんさんがし得たのか? 私は悩みました。どうしてだ? どうしてだ? 議論の流れからはどうしても理解できず、私は苦しみました。悪意を感じる行為よりも、意図が理解できぬ行為のほうがはるかに恐ろしいものです。
 ……虚無なる『匣の中の匣』での一連の遣り取りの紹介では、フォントの色にちょっと凝ったわけですけれども、それによって私が何を表現したかったのかと言うと、日記の持ち主の違いです。どうしたわけか、足あとを残すのを厭う習慣がミクシィにはある。日記の持ち主の違いは、誰がどの情報に触れたか、ということを知る手がかりとなるわけです。
 はらぴょんさんは、ある時期からアレクセイさんのページをまったく訪れなくなっていたのではないかと思います。アレクセイさんの日記で展開していた議論をはらぴょんさんは踏まえずに、発言をしていた。(足あとが残らないことでアレクセイさんははらぴょんさんが私の展開していた議論を読んでいないことを理解していたのだろうと思います。仲の悪い共犯者たちの姿はさぞおかしかったことでしょう。ともあれ)だから、はらぴょんさんは私には理解不能な全く時宜を得ない発言をしてしまった。
 批判されているものが、目を通すことさえ出来なくなるほど、アレクセイさんの批判は辛辣で攻撃的です。それは確かに類いまれで図抜けた能力ではあるけれども、それは同時にアレクセイさんの最大の欠点でもあると思います。多くのことで私はアレクセイさんを批判してしまっているから、そういう私の言うことは、それだけで拒絶され、説得力を失ってしまうだろうけれど、それでも、そうした攻撃的で辛辣な言葉を連ねることで、アレクセイさんが得るものは少なく、失うものが多いことを知ってほしい、と私は思います。攻撃的で辛辣な言葉を控えることで、アレクセイさんはずっとずっと今より評価されるであろうことを、知ってほしい、と私は思います。……アレクセイさんが私の「ぺてん」に引っ掛かるか、引っ掛からないかは、当然アレクセイさんの自由です。だけれど、アレクセイさんだって、理解しているはずです。私の言ってることが、ごくごく当たり前の、アレクセイさんを知るヒトだったら誰でも思うような、素朴な思いだということを。そしてそれが正しいであろうことも。

 さて。
「なぜ、はらぴょんさんが(ハタと冷静になったか何かして)アレクセイさんと絶縁したのか?
 なぜ、アレクセイさんが、(中略)、よく分からない逡巡の日々を過ごして「はらぴょん論」を公開してこなかったのか?
 なぜ、遣り取りそのものではなく、遣り取りを編集して公開したのか?
 なぜ、無様さ・滑稽さ・醜悪さを愛する私が、この一連の遣り取りの公開に積極的なのか?」

 という先に(アレクセイさんの掲示板に)提起した疑問の回答を簡単ではあるけれども、それなりに示したと思います。
 それぞれの論点について深めていく意志を私は持っています。まあ、急ぐことではないので、ゆっくりと議論を続けていきます。
 
No.316 - 2007/06/08(Fri) 22:17:35
『ナショナリズムの由来』 / 杉澤鷹里
 大澤真幸著『ナショナリズムの由来』が刊行されている!
 掛け値なしに、十年待ちました。

(刊行から一ヶ月遅れの衝撃ですが、それでも衝撃は衝撃なので、ここに表明します)
No.353 - 2007/09/04(Tue) 22:57:31
どんだけ〜 / 田宮 [関東] [ Home ]
パイズりしてるのに潮吹いてたwwwちゃんとお金ももろたよ。
No.348 - 2007/08/18(Sat) 07:36:00
「ぬらりひょんの謀」について / 杉澤鷹里 [ Mail ]
ぬらりひょんの謀――杉澤鷹里論

というアレクセイさんのコメントの要旨は、私の議論がだらだらと長く続いている、ということであるようです。
 既に結論については示している、というのが私のそれに対する答えです。
 私が何を問題視しているかは、十分述べているわけであり、詳細な検討を待たずとも、それがどのような意味を持つか理解可能であろうし、それに対する反論をするなら、することが出来るはずです。「思わせぶり」に止まった根拠のない誹謗ではないことは、明らかです。

 議論の進みがゆっくりなのは、それは反省すべきことですけれども、ネットへの書き込みへ潤沢に時間を費やすことができない状況であって、その中で、一週間に一度程度は、議論を進めていっているわけですから、多めに見てほしいです。
 二十年という時間をかけて議論をしたってアレクセイさんとしては問題ないはずです。はらぴょんさんに、そうしたお付き合いを呼びかけていた以上は。

>杉澤さんについては、「はらぴょん論」の「補助線」として言及するに止める予定でいました。

いや、ですから、

「私と杉澤さんの全ログを、世に問うことになるでしょう」とアレクセイさんは宣言しているんです。
No.322 - 2007/06/17(Sun) 02:10:22

エラーについて / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんが、アレクセイの花園「謎」http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1542
で述べているエラーに私も遭遇しましたが、リンクを全て外すことで、エラーを回避できたのは、このスレッドに示したとおりです。アレクセイさんはきっと全てのリンクを外すことはせずに、再投稿されたのだと思うのですが、いかがでしょうか? 

 アレクセイさんが、『中井英夫――虚実の間に生きた作家』 いよいよ刊行!http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1545 2007年 6月18日(月)23時22分3秒 において、「まあ、あのような「遁走」ぶりを見せたはらぴょんさんから、説明のなされることは金輪際ございませんでしょう」と述べていますが、はらぴょんさんは2007/06/17(Sun) 08:39:18の時点で既にこのスレッドにおいて、見解を述べており、アレクセイさんの言葉は事実に反した誹謗である、と存じます。
 
 いずれシステム上の問題に過ぎないものを、相手を非難する、拠り所にしてしまうところに、アレクセイさんの議論の展開の仕方の姑息さという問題点が現れていると思います。また、私が示したアレクセイさんの一連の遣り取りでの逸脱行動についての発言に、アレクセイさんが正面から取り組むことの出来ない現状を如実に表しているとも思います。
No.330 - 2007/06/21(Thu) 01:13:52

エラー対策 / はらぴょん
現在時点での「虚無なる「匣の中の匣」」の設定。

セキュリティの設定 (ヘルプ)
スパム対策機能
続投稿検知システム 有効
ブラックリスト 有効
スパムトラップ 有効
スパムフィルタ 使用する(既定)
証明書機能 無効 (有料版専用)
タイムスタンプ機能  使用する(既定)
投稿キー 使用しない(既定)
同一ホストからの連続投稿の許容時間 30秒(既定)
コメント欄のURL投稿限度数 0(既定)
検索ロボット避けタグ 挿入しない(既定)
投稿者のホスト名を表示 表示しない(既定)
投稿者のブラウザ情報を表示 表示しない(既定)
逆引き出来ないホストの投稿拒否 使用しない
国外のホストからの投稿拒否  使用する(既定)
国外のホストからの投稿拒否 使用する(既定)
日本語の含まれないメッセージの投稿拒否 使用する(既定)
………以下、省略

コメント欄のURL投稿限度数 0(既定)というのが、問題がありそうでしたので、とりあえず10に設定を変えてみました。
最大50にできますが、商売目的の人が来そうですので、やめておきます。
No.329 - 2007/06/20(Wed) 22:36:42

Re: / はらぴょん
>エラー回避のためにリンクを外しました。

アレクセイ氏が借りているところと、この掲示板の貸し出し業者が競争関係にあるがために、エラーが生じるのだと思います。
No.325 - 2007/06/17(Sun) 08:39:18

エラー回避のために / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 エラー回避のためにリンクを外しました。
No.323 - 2007/06/17(Sun) 02:18:23
論争をザッと読ませて頂き… / 藪木二郎 [関東]
ある場所ではらぴょん様御自身が、「リゾームとは、ありとあらゆる方向に、コンセントを繋ぐことであり、それによって情報を混戦させ、スパークさせることなのである」、なんて仰ってますよね?
「ありとあらゆる方向に、コンセントを繋」いでいれば、「文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられる」事態だって、生じ得ますよね?
「何がいいたいのか、私にはわからない」としても、それは正に、「それによって情報を混戦させ、スパークさせ」られた結果な訳ですから、もって瞑すべし! って所じゃないですか?
No.191 - 2007/05/12(Sat) 02:46:13

Re: / はらぴょん
「俎板の鯉」になるつもりでしたが、ひとことだけ。

・基本的に「○○主義者」は、「反○○主義者」に反対する主張をする人を指します。
例:「実存主義者」は、「反実存主義者、つまり本質主義者」に反対する主張をする人である。
ゆえに、「ポスト構造主義者」もまた、「反ポスト構造主義者」に反対する主張をする人です。
逆からいえば、「反ポスト構造主義」に反対することによって、「ポスト構造主義者」になるのです。


直接は関係ありませんが、藪木二郎さんの議論を読んでいて、連想したことは、民主主義者とネオ・ナチについてです。
ドイツの民主主義者の中には、ナオ・ナチを排除するのが民主主義と考える人と、ナオ・ナチもひとつの考え方として、許容するのが民主主義であると考える人がいるという話を聞いたことがあります。
この問題は、社会情勢を加味して考えないといけませんから、ここで挙げるべき例としてはふさわしくありませんが。
No.324 - 2007/06/17(Sun) 08:30:28

戦わない戦い / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 同様の問題を私もまた抱えているように思います。
 戦わない戦いを戦ってしまう、という矛盾が(この一連の遣り取りでの)私の目標にはあって、それは初めから敗北を約束づけられたような、目標であったのだと思います。
No.318 - 2007/06/09(Sat) 09:21:58

ポストモダニズム / 杉澤鷹里 [ Mail ]
藪木二郎さま、
 感想ありがとうございます。議論の全体像を示すことを優先したために、お返事が遅れてしまったことをお詫びします。申し訳ありません。
 

>「ありとあらゆる方向に、コンセントを繋」いでいれば、「文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられる」事態だって、生じ得ますよね?
>「何がいいたいのか、私にはわからない」としても、それは正に、「それによって情報を混戦させ、スパークさせ」られた結果な訳ですから、もって瞑すべし! って所じゃないですか?「何がいいたいのか、私にはわからない」としても、それは正に、「それによって情報を混戦させ、スパークさせ」られた結果な訳ですから、もって瞑すべし! って所じゃないですか?

私もそのように思います。ポストモダニズム原理主義、ってのは語義矛盾であるわけで、積極的に何かを主張しない、という(積極的な)主張という難しさを孕んでいるのだと思います。


 
No.317 - 2007/06/09(Sat) 05:42:53
mixi(10) / ☆
アレクセイさんの日記 杉澤鷹里流「アレクセイ論」 あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」 2007年03月10日 16:07

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=369493150&owner_id=856746
No.295 - 2007/05/28(Mon) 21:47:29

mixi(10)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月15日 19:19

☆ みなさま

見てのとおり、杉澤鷹里氏がここで書いているのは、「お見物衆」に向けた「逃げ口上」だけです。
いかに「第三者に笑われないように、退場するか」――それしか考えていません。

> はらぴょんさんの「ある転落の記録」の衝撃ものすごく、三日間打ちひしがれていました。
> いつだって、はらぴょんさんは私の理解から逃れていく。……だからこそ、この奇妙な関係をやめられないんですけどね。

杉澤さんとしては、要は、はらぴょんさんに「梯子をはずされた」形になって、立ち往生してしまったということ。――しかし、これは杉澤さんの勝手な言い分であって、現実には、はらぴょんさんは、自分の態度を自分を決めたにすぎません。

杉澤さんとしては、はらぴょんさんに、もっともっと逃げ回ってもらわないと困るんですね。でないと、自分と「共依存=もたれあい」関係にある「仲間」あるいは「引き立て役」である、はらぴょんさんが「自立」することになり、自分の立場が宙に浮く。
だからこそ、杉澤さんは「客観的な調停者」を装いながらも、私の批判から、はらぴょんさんを救い出そうとした。「救う」とは、はらぴょんさんを「そのままにしておく」「成長させない」という意味合いであり、決してこれは、はらぴょんさんの「ため」を思ってなされたものではない。徹頭徹尾、杉澤さん本人の都合であり、そのための、はらぴょんさんの「現状留め置き措置」でしかなかったのです。

しかし、はらぴょんさんは、ついに「覚悟」を決めて、半歩踏み出した。もちろん、まだまだ不十分だとは言え、はらぴょんさんとしては、相当な覚悟が必要であったろうことは想像に難くありません。
しかしまた、はらぴょんさんは、覚悟を決めて「反省」し、それを「言葉にした」ことで、今は一種の安心を感じられていると思います。

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

と題したように、はらぴょんさんは、今回のことを「転落」と形容した。これは、客観的には、必ずしも正しい形容ではありませんが、はらぴょんさんの主観としては、まさにそうだったと思います。そして、この「主観」にそって言うならば、人がもっとも「恐怖」を感じ、いたたまれない状態にあるのは「転落するかしないかの瀬戸際で、ふらふらしている時(=不安定状態)」であり、実際に転落してしまえば、多少のけがをしたところで、案外「なんだこの程度のことだったのか」と安心できるものなのです。まただからこそ、はらぴょんさんは、きっと今回の決断を「良かった」と思っていると、私は思うんですね。

しかし、そうなると、取り残される形になった、杉澤さんの立場がない。杉澤さんとしては、本当は、はらぴょんさんに「せっかく擁護してやったのに、私の立場はどうなるんだ」と文句のひとつも言いたいところなのでしょうが、所詮は「自分の都合による、勝手な干渉」でしかなかったのですから、はらぴょんさんに「恨み言」を言うのは、それこそ「恥の上塗り」にしかならない。また、さすがにそのあたりのことには気づいていますから、ここでは、『だからこそ、この奇妙な関係をやめられないんですけどね。』なんて「しらじらしいセリフ(負け惜しみ)」を吐いてみせます。――まさに「誠実さ」の欠片も感じられない、杉澤鷹里流の「ベタ演技」だと言えるでしょう。

>「ある転落の記録」以降の議論の立脚点やゴールをどこに定めればいいのか悩みました。発話者から切り離されたテキストそれ自体に基づいて、若干の修正を加えて今の議論を続けていく道も十分にありだと考えましたが、理解できなくはない、という程度の主張を、それによって代弁する誰もいない状況で、繰り広げるのも奇妙な話です。

まわりくどい書き方ですが、杉澤さんがここで言いたいのは「撤退する。でも、負けたわけではないよ」ということです(笑)。

> アレクセイさんに表面上は私の主張は受け入れられず、メッセージは届いていないことになっていますが、私の主張の妥当性が半ば容認され、メッセージが届いたということを、含意として見、確信を得ています。それで十分です。それが不満な読み手は、「裸だ!」と自らの声を上げたらいい。

杉澤鷹里は、徹頭徹尾「裸だ!」。――それは、あえて声を上げるまでもない、事実です。

しかし、声を上げないなら、杉澤鷹里を「裸だ!」とは評価していないことになる「かのように」、話を摺り替えるところが、杉澤鷹里お得意の「レトリック=ペテン」だとも言えるでしょう。

いずれにしろ、表面上はご自身「まったくやましいところはない」と主張する杉澤さんの、その「見せかけの自信」に免じて、私と杉澤さんの全ログを、世に問うことになるでしょう。それは、杉澤さんとしても(建て前としては)「望むところ」であるはずだからです(笑)。

> この一連の議論は、私にとって「ウロボロスの摂動論」以来の胸躍る一大ネットイベントでした。議論を重ねることで、ただ一人で思考するだけでは到達できないような、斬新な考え、洗練された技法を得ることができる。その有益性を噛みしめています。ロジックもレトリックも本質直観も私は愛してやまないのだとつくづく思いました。

いかにも「負け惜しみ」です。
ここにも、杉澤鷹里という人の「決して本音は語らない=状況対応(場当たり)の言葉しか語らない」という、本質的な「不誠実さ」が、ハッキリと刻まれています。

私は、言い訳に言い訳を重ね、相手を攻撃することで、かえって自らの首を絞めることになっていった はらぴょんさんに、「現実を直視する(反省する)ことです。それしか自分を救う方法はない」と呼びかけつづけ、ついにはらぴょんさんは、そのことによって自らを救いました。
しかし杉澤さんは、そうした再生への道程を眼前に見ながら、ついに何も学ぶことができなかったのです。その意味で、杉澤さんは、はらぴょんさんよりも、ずっと「バカ」です。無論これは、「勉強ができる」とか「世渡り上手」といった意味ではなく、人間として「低劣」であり、その意味で「愚か者」だということです。だから、杉澤さんは、このような「恥の上塗り」を、なおも重ねなければならないのです。

> アレクセイさんの突きつけた被害者の問題は、なかなかに難しい問題であり、今後も検討を重ねていきたいと思います。

『被害者の問題』について『今後も検討を重ねていきたい』と言うのであれば、はらぴょんさんが、杉澤さんの「被害者」であったという点をこそ、検討すべきでしょう。杉澤さんは、決して、はらぴょんさんの「親友」でもなければ「擁護者」でもなかった。まさに、文字どおりの「悪友」だった。

杉澤さんの、はらぴょんさんに対する「物わかりの良さ」「追認」とは、例えば「万引きして捕まった友人」に対し「大した度胸だ。私にはできない」と言ったり、「捕まって、取り調べを受けても、しばらくは否認し続けたこと(=単なる「往生際の悪さ」)」について「すごいな。私ならすぐに口を割っていただろう。それは反権力・反良識闘争だとも言える!」などと「煽てる」のと、なんら違いはありません。

何度か指摘したとおり、ここには「被害者」の存在が、完全に不問にふされており、杉澤さんの言葉は、はらぴょんさんを「仲間=同類」として「縛りつけておくこと」だけに集中しています。

そして、ここには、口先三寸で、はらぴょんさんを「コントロール(操作)」できると自負する「傲慢」と、はらぴょんさんへの本質的な「見下し(軽蔑)」が、ハッキリと見て取れるのです。

無論、はらぴょんさんとしては、友と信じてきた人を疑うのは苦痛でしょうし、その意味で、それは困難なことでしょう。しかし、そういう「感情的評価」が正しいのであれば、この世に「(文字どおりの)悪友」など存在しないし、「友人だと信じていたのに!」と言って嘆く人も、存在しないのです。
そして、ここでハッキリと言えることは、「ペテン師」は「甘言」を弄することで、他人を「篭絡」しようとするものであり、決して「厳しい現実」に眼を向けさせようとはしない、ということなのです。


☆ 杉澤鷹里さま

杉澤さん、こんな幼稚な「負け惜しみの言い訳」が通用するほど、人は、あるいは竹本健治読者は、バカではない、ということに気づくべきですよ。そして、こんな言い訳を重ねる、自身の愚かしさに、早く気づくべきです。私は、「偽りの反省や謝罪」はそれと見抜いて赦さない一方、「心からの反省」には、いつでも応じることのできる人間であるつもりです。だから、自らの本性を「自供」なさい。

貴方は、アマチュアとは言え、小説を書いて出版までしている人間なんだから、「書く」ということの厳しさを、しっかりと直視すべきです。
人格的に浅薄な人間が、小手先のレトリックで何をどう書いたところで、そんなものは「三流」の域を出ることはない。「子供だましの読み捨てもの」ならばともかく、まぐれで傑作が書けるほど、文章というものは、いい加減なものではないんですよ。――文章とは、善かれ悪しかれ、その人の「人格」と「器」を反映するものなのです。

だから、ご自分を直視し、そのお粗末な現状から再出発することです。すでに中年に達した貴方には、それが極めて困難なことのように思えるかも知れません。しかし、少なくとも、今よりはマシになれるし、成長もできるのだ、ということに気づくべきです。
あれこれ言い訳を重ねて現状を「自己肯定」しても、だれもそんな基準で評価はしてくれないし、現状に執着するかぎり、貴方はそこから一歩も成長することができないんだということを、ここで肝に銘ずるべきなのです。
No.312 - 2007/06/01(Fri) 07:33:39

mixi(10)-6 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月15日 09:26

 はらぴょんさんの「ある転落の記録」の衝撃ものすごく、三日間打ちひしがれていました。
 いつだって、はらぴょんさんは私の理解から逃れていく。……だからこそ、この奇妙な関係をやめられないんですけどね。
 
「ある転落の記録」以降の議論の立脚点やゴールをどこに定めればいいのか悩みました。発話者から切り離されたテキストそれ自体に基づいて、若干の修正を加えて今の議論を続けていく道も十分にありだと考えましたが、理解できなくはない、という程度の主張を、それによって代弁する誰もいない状況で、繰り広げるのも奇妙な話です。
 アレクセイさんに表面上は私の主張は受け入れられず、メッセージは届いていないことになっていますが、私の主張の妥当性が半ば容認され、メッセージが届いたということを、含意として見、確信を得ています。それで十分です。それが不満な読み手は、「裸だ!」と自らの声を上げたらいい。

 この一連の議論は、私にとって「ウロボロスの摂動論」以来の胸躍る一大ネットイベントでした。議論を重ねることで、ただ一人で思考するだけでは到達できないような、斬新な考え、洗練された技法を得ることができる。その有益性を噛みしめています。ロジックもレトリックも本質直観も私は愛してやまないのだとつくづく思いました。
 アレクセイさんの突きつけた被害者の問題は、なかなかに難しい問題であり、今後も検討を重ねていきたいと思います。
No.311 - 2007/06/01(Fri) 07:32:57

mixi(10)-5 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月13日 20:42

一連の「はらぴょんさんと私とのやりとり」に連なる、はらぴょんさんの最新の日記、

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

がアップされました。
この日記にも、すでに私はコメントを付しています。ぜひご確認下さい。

No.310 - 2007/06/01(Fri) 07:32:14

mixi(10)-4 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月12日 00:49

☆ 杉澤鷹里さま

何を書くのかと思ったら、ずいぶん自分勝手な言い分(決めつけ)ですね。

でも、いいでしょう。「これが、杉澤鷹里という人である」というのを、「解説」的に剔抉してあげましょう。

> 私は、ただ伝えたいんです。
> 私がここでどんなに言葉を重ねても、それは換骨奪胎され、批判され、ホランドさんとの遣り取りの中で、嘲笑されるでしょう。私はそれでも構わない。ただ伝えたいんです。

『私は、ただ伝えたいんです。』――誰だって、文章を書く時はそうですよ。言いたいことを伝えるために、「理を尽くす」という面倒な段取りも踏むんですよ。それが、他人に伝える努力というものです。

『私がここでどんなに言葉を重ねても、それは換骨奪胎され、批判され』――それも、お互いさまですよ。
むしろ周知のとおり、私ほど、論敵の言葉をすべて引用し、逐語的に厳密に批判検討する者は、ちょっといません。
これまでの杉澤鷹里さんのログと比較したって、それは明白な事実です。

『ホランドさんとの遣り取りの中で、嘲笑されるでしょう。』――ホランドくんは、遠に静観していますよ。「また、始まった……」ということでね(笑)。

『私はそれでも構わない。』――また始まった「見え透いた善人ぶり」。
『換骨奪胎され、批判され、(…)嘲笑される』ても構わないんだったら、だれもこんな「決めつけ」を連ねて、相手を攻撃したりはしないですよ。貴方の書き方は、いつでもこういう「姑息な搦手」です。


> この一連のアレクセイさんの議論はあちこちで破綻しており、話を噛み合わせていくのが困難です。普段はそのようなことはなく、論理的で怜悧であるわけですから、現在、非常に感情的になり激怒しているがゆえに歪んでいるとしか解釈できないんです。

また「決めつけ」。
『普段は(…)論理的で怜悧である』私が、杉澤さんに「不都合なことを言ってる時だけ」非論理的で非怜悧だなんてという「ご都合主義的な評価」は、普通ならそんな杉澤さんの評価の方が、疑われるでしょうね。
それに、なにしろ私の場合は、始終「激怒」し「喧嘩」していながら、それでいて『論理的で怜悧で』、論戦では到底勝てないと、プロも避けて通るという実績があるんですから(笑)。


> どうして、激怒しているのか。
> 答えはご自身が巧みに表現しています。
>「例えば、西尾維新しか読んでいない若い読者が「ミステリとは」などと語れば、それはたしかに底の浅い「ミステリ」論になるでしょう。しかし、では彼にミステリを「語る権利」が無いのかと言えば、当然、そんなことはない。知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。しかし、「知識があれば、理解が深い」というわけでもない、というのも、わかりきった話です。だから、たしかに知識は大切だけれども、まともな「大人」なら、素人に対し「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言いはしません。そういう、己が唇の寒くなる発言は「知識しかない・頭の悪い」人間しかしないんです。そして、このくらいの理屈は、高校生にでもわかるでしょう。」

> つまりご自身をミステリを語る「西尾維新しか読んでいない若い読者」に位置づけ、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」をされたと、そう感じたからこそ怒っているわけです。はらぴょんさんの指摘が、アレクセイさんに向けられた、実に的確なものであったと感じられたから怒っているわけです。

論理的に破綻していますね。
私が、西尾維新ファンの例を挙げて言っているのは「マニア(たくさん読んでいる人)の評価の方が、正しいなどという保証はない。だから、賢い人なら、知識を嵩に着て、威張ったりはしない」ということですよ。つまり、私は「思想哲学マニア」であるはらぴょんさんの見方が、思想や哲学に詳しくない私の見解より「正しい」などとは、少しも思っていない。まただからこそ、

・ 2007年3月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

の「2007年03月11日20:01」付けのコメントに、「アレクセイの花園」(2007年3月9日(金)23時36分30秒)に書いた、次のような文章を引用しておいたんじゃないですか。

> 柄谷行人が『探究2』の「註」のなかで、我が意を得た発言をしておりますので、ご紹介しておきたいと存じます。


>『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』(P155)


> つまり、柄谷行人は「世界を、自分の頭で考えたいだけだ」と言っているのでございます。ですから、彼にとって、先行する哲学者は、世界を考えるための「道具」でしかなく、決してそれ自体を珍重するような「権威」ではないのでございますね。したがって柄谷は、それらの哲学者が「実際にどうだった」というようなことには興味がなく、「彼が考えたことは、こうであったとも考えうるし、そう考えた方が、世界をより興味深く考察することができる」と言いたいのでございます。

> 当然、こうした態度は、「専門」であることが「正統」であり、「正統」であることが「権威」を保証するものだと考える「専門家」には、嫌われ疎まれざるを得ません。しかし「そんな俗なことは、どうでもいい」というのが柄谷行人の考え方であり、私の共感するところなのでございます。

つまり「知識はあるに越したことはないが、知識のあることが正しさの保証になるなどと思って、嵩に掛かって偉そうなことを言うなよ、このバカ者たちが」というのが、私の昔から一貫した主張なんですよ(ちなみに私は、ミステリを読みはじめて間もない二十過ぎの頃には、すでにSRの会の会誌上で「マニア批判」をやっていました)。
――これくらいのことも読めないのでは、話になりません。


>「哲学上の誤りを指摘されたアレクセイが逆上して誹謗中傷を繰り返している」と、読み手の多くは事態を把握していることと思います。

「そういうことにしたい」んでしょうね(笑)。
しかし、こんなこと、貴方自身信じていないから、こうやって「決めつけ」ばかり書いているんでしょう? こういう「誘導」は、いかにも「レトリックに憑かれた人」たる、杉澤鷹里にふさわしいと思います。
はらぴょんさんも、貴方の、

> 2007年03月10日12:15 杉澤鷹里

> はらぴょんさま、

> 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
> 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。

といった、古い友人の言葉とはとても思えない「歯の浮くような甘言」で、これまで上手にコントロールされてきたんでしょうね。
「直言居士」である私の対極にあると言ってよい、こんな「理解者」しか持てなかったとは、はらぴょんさんに心から同情しますよ。


> アレクセイさんのしているはらぴょん論は、「ホランドさんは浅田批判などしていない」という発言と同じく、自分の誤りを認めたくないがための欺瞞的隠蔽の一つに過ぎません。はらぴょんは卑小だ、はらぴょんは汚いと語ることによって、自分の不名誉から目を背けているわけです。だけれど、実際のところ、はらぴょんさんのことを口汚くののしることで、第三者に卑小に見えるのはアレクセイさん自身のその姿です。自分の弱さから目を背ける、その姿です。

「決めつけ」ばっかりだなあー。
でも、こんな解釈、誰に説得力があると思って、書いてるんだろう? 一度、竹本健治さんとかその周辺の人にも読んでもらおうかな? 竹本さんに「田中くん、こりゃズバリ当たってますよ」って言われたりして。――でも、そう言われたら「傍若無人で、人を人とも思わないで、喧嘩している時が一番いきいきしている」という描写を撤回せよ、って言い返しますが(笑)。


> 私はアレクセイさんの、自分の意見を肯定する発言を喜ぶ姿と、自分の意見を否定する発言に過剰に反発する姿とに、自信のなさを見出します。他人の評価を気にし、他人の評価に傷つく小さなアレクセイさんの心を感じます。

ほほう、それはすごい。私が自信家ではないと、おっしゃる(笑)。
そうなんですよね、私はじつは、非常に繊細で、他人の評価を気にする人間なんです。しかし、そんな「繊細な神経」を持っているにもかかわらず、杉澤さんみたいに「善人ぶって」世間に媚びようともせず、大勢に抗って、二十数年間、たゆまず論争を続けてきたんですから、これはもうタダモノではありません(笑)。


> アレクセイさんのはらぴょん論において、明らかな逸脱を感じた箇所があります。それについて、語らせていただきます。
> 竹本さんに電話したくだり。
> これは、はらぴょんさんが「(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。」ということの証左として、「竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆い」たことがある、というエピソードがあり、さらにそのまた余談であるわけです。つまり、紹介する必要のないエピソードです。私はこれを読んだとき、顔が紅潮するのが分かりました。アレクセイさんが竹本さんに電話したのは、なぜか? 私はそこに友情を見出します。はらぴょんさんのことを心から心配した、情に厚いアレクセイさんの姿を見出します。そのエピソードは本来なら心温まる、エピソードです。はらぴょんさんに明かすことなく胸に秘めていたアレクセイさんの奥床しさもまた、好ましい。それなのに、そんな大事なエピソードをアレクセイさんは、はらぴょんさんを侮辱し、はらぴょんさんに対して精神的に優位に立ちたいがために(論理的には紹介する必要がないのに)、そのための道具として使ってしまった。はらぴょんさんを踏みにじり、二人の間にあった友情を踏みにじり、アレクセイさんが目指すのはただ、はらぴょんさんを傷つけること、自分の傷から目を背けること。私はとても悲しく思いました。

相変わらず「くっさい三文芝居」だなあー。これで読者が感涙してくれるとでも思っているんだったら、よっぽど杉澤さんは、読者を「舐めている」ということだ。アレクセイは友情を踏みにじる冷血漢で、ご自分は「優しい人間だ」と世間に向けてアピールするには、ちとお芝居が古すぎませんか?

> 2007年02月27日02:26 杉澤鷹里

> 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
> まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。

とか、

> 2007年03月09日00:34 杉澤鷹里

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。

などと書いていた人と、同一人物だとは思えません。
――でも、演技の「わざとらしさ」は、たしかに「杉澤鷹里」印だとも言えるでしょうね。

で、私はというと、迷える友人を眼を醒まさせるためなら、多少は傷つくような厳しい「現実」も、あえて突きつける(ぶっ叩く)、そんな覚悟をもって批評を書いている、ある意味で「非情な人間」なのです。また、だからこそ「自分の批評で、相手が自殺することも覚悟の上でやっている」なんて公言するんですよ(だいたい、大の男が「傷つく」なんて大騒ぎすること自体、けっと思いますが)。

ともあれ、私は、杉澤鷹里さんのように、他人を扱き下ろしながら、自分の「善人さ」をアピールするような、そんな「恥ずかしいこと」はできない人間なのです。


> アレクセイさんは誤っています。その誤りとは何か。アレクセイさんの哲学や思想の理解が西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者に類するものではない、ということです。その理解力の高さ、洞察の深さは舌を巻くものがあります。

『西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者』の言うことが正しい、とは私は言っていません。私が言っているのは『しか読んでいない』人の評価だからといって、それが誤っているとはいえない、と言っているんですよ。つまり、私も、その意味で『西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者』と同じなんです。


> そしてアレクセイさんの評論は、相当に高い水準にあるということ。もっともっとアレクセイさんは自信を持っていい。だから、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」はアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、浅田がどうしたメルロ=ポンティがどうしたということもアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、アレクセイさんの評価にとってどうでもいいことなのです。

どうでもいいことではありません。私にとって、権威を嵩に着るやつは、プロであろうとアマチュアであろうと、生涯の「敵」なのです。


> いっときの激情に駆られて、相手を口汚く罵ろうとするとき、問うてみてください。そこで守ろうとするプライドは本当に守らなければならないものなのか? その言葉を吐くことによって傷つくであろう二人の関係は本当に傷つけて良いものなのか? そして、そこに疚しい気持ちが少しでも湧き上がるのであれば、その言葉を発するのを自制するのが、二人の関係のためであり、そして何より自分のプライドのためなのだと、そう私は思います。

『相手を口汚く罵ろうとするとき』って、もうそれが私にかんする「自明の事実(論証不必要な事実)」であるかのように書いているでしょう。これが、「杉澤鷹里のレトリック(ペテン)」です。

この「誠実な愁訴」というのも、もちろん「レトリック」であり「三文芝居のポーズ」です。
ほとんど「病、膏肓」にいたってはいますがね。
No.305 - 2007/05/30(Wed) 08:39:25

mixi(10)-3 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月11日 21:32

 私は、ただ伝えたいんです。
 私がここでどんなに言葉を重ねても、それは換骨奪胎され、批判され、ホランドさんとの遣り取りの中で、嘲笑されるでしょう。私はそれでも構わない。ただ伝えたいんです。

 この一連のアレクセイさんの議論はあちこちで破綻しており、話を噛み合わせていくのが困難です。普段はそのようなことはなく、論理的で怜悧であるわけですから、現在、非常に感情的になり激怒しているがゆえに歪んでいるとしか解釈できないんです。
 どうして、激怒しているのか。
 答えはご自身が巧みに表現しています。
「例えば、西尾維新しか読んでいない若い読者が「ミステリとは」などと語れば、それはたしかに底の浅い「ミステリ」論になるでしょう。しかし、では彼にミステリを「語る権利」が無いのかと言えば、当然、そんなことはない。知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。しかし、「知識があれば、理解が深い」というわけでもない、というのも、わかりきった話です。だから、たしかに知識は大切だけれども、まともな「大人」なら、素人に対し「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言いはしません。そういう、己が唇の寒くなる発言は「知識しかない・頭の悪い」人間しかしないんです。そして、このくらいの理屈は、高校生にでもわかるでしょう。」

 つまりご自身をミステリを語る「西尾維新しか読んでいない若い読者」に位置づけ、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」をされたと、そう感じたからこそ怒っているわけです。はらぴょんさんの指摘が、アレクセイさんに向けられた、実に的確なものであったと感じられたから怒っているわけです。
「哲学上の誤りを指摘されたアレクセイが逆上して誹謗中傷を繰り返している」と、読み手の多くは事態を把握していることと思います。
 アレクセイさんのしているはらぴょん論は、「ホランドさんは浅田批判などしていない」という発言と同じく、自分の誤りを認めたくないがための欺瞞的隠蔽の一つに過ぎません。はらぴょんは卑小だ、はらぴょんは汚いと語ることによって、自分の不名誉から目を背けているわけです。だけれど、実際のところ、はらぴょんさんのことを口汚くののしることで、第三者に卑小に見えるのはアレクセイさん自身のその姿です。自分の弱さから目を背ける、その姿です。
 私はアレクセイさんの、自分の意見を肯定する発言を喜ぶ姿と、自分の意見を否定する発言に過剰に反発する姿とに、自信のなさを見出します。他人の評価を気にし、他人の評価に傷つく小さなアレクセイさんの心を感じます。

 アレクセイさんのはらぴょん論において、明らかな逸脱を感じた箇所があります。それについて、語らせていただきます。
 竹本さんに電話したくだり。
 これは、はらぴょんさんが「(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。」ということの証左として、「竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆い」たことがある、というエピソードがあり、さらにそのまた余談であるわけです。つまり、紹介する必要のないエピソードです。私はこれを読んだとき、顔が紅潮するのが分かりました。アレクセイさんが竹本さんに電話したのは、なぜか? 私はそこに友情を見出します。はらぴょんさんのことを心から心配した、情に厚いアレクセイさんの姿を見出します。そのエピソードは本来なら心温まる、エピソードです。はらぴょんさんに明かすことなく胸に秘めていたアレクセイさんの奥床しさもまた、好ましい。それなのに、そんな大事なエピソードをアレクセイさんは、はらぴょんさんを侮辱し、はらぴょんさんに対して精神的に優位に立ちたいがために(論理的には紹介する必要がないのに)、そのための道具として使ってしまった。はらぴょんさんを踏みにじり、二人の間にあった友情を踏みにじり、アレクセイさんが目指すのはただ、はらぴょんさんを傷つけること、自分の傷から目を背けること。私はとても悲しく思いました。

 アレクセイさんは誤っています。その誤りとは何か。アレクセイさんの哲学や思想の理解が西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者に類するものではない、ということです。その理解力の高さ、洞察の深さは舌を巻くものがあります。
 そしてアレクセイさんの評論は、相当に高い水準にあるということ。もっともっとアレクセイさんは自信を持っていい。だから、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」はアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、浅田がどうしたメルロ=ポンティがどうしたということもアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、アレクセイさんの評価にとってどうでもいいことなのです。
 いっときの激情に駆られて、相手を口汚く罵ろうとするとき、問うてみてください。そこで守ろうとするプライドは本当に守らなければならないものなのか? その言葉を吐くことによって傷つくであろう二人の関係は本当に傷つけて良いものなのか? そして、そこに疚しい気持ちが少しでも湧き上がるのであれば、その言葉を発するのを自制するのが、二人の関係のためであり、そして何より自分のプライドのためなのだと、そう私は思います。
No.304 - 2007/05/30(Wed) 08:37:18

mixi(10)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月11日 20:07

当ページを立てた後の、杉澤鷹里氏の最初の書き込みは、

・ 2007年3月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

のページの方に、「2007年03月11日15:21」になされました。
もしかすると、当分は上ページでやりとりが展開されるかも知れませんので、そちらをご覧下さい。
No.303 - 2007/05/30(Wed) 08:36:32

mixi(10)-1 / ☆
アレクセイさんの日記 杉澤鷹里流「アレクセイ論」 あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」 2007年03月10日 16:07

「はらぴょんさんと私(アレクセイ)との間のやりとり」について、杉澤鷹里氏がコメントなさってくれていましたが、はらぴょんさんの日記、

・ 「たとえ話をふたつ」2007年03月03日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

の方で、私が、

> ☆ 杉澤鷹里さま

>> あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
>> 「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
>> という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。


> 貴方の気持ちも、わからないではありません。しかし、現実には、貴方のような方が、貴方ご自身の弱さを肯定するために、はらぴょんさんのような人を無責任に甘やかして、「大人として筋を通す」ことのできない「(同類としての)甘ったれに育てあげた」とも言えるという事実を、ご理解なさっていますか?

> 貴方ご自身、「誠実ぶりながら、誤魔化しを弄する」という「不誠実」をくりかえしながらも、はらぴょんさんの無責任さを容認することで、自分自身の「不誠実」を、「寛容」に摺り替えている。これが現実です。
> 自分の欠点を認めるのに『痛みや労力、リスク』が伴うというのは、当然です。でも、それで死ぬわけではない。
> 前にも指摘しましたが、貴方のご意見はいつでも「加害者の痛みだけ」であり、「被害者の痛み」には、まったく目がとどいていない。だから、可能な謝罪ですら、『痛みや労力、リスク』を理由に「しないで済ませられれば、それに越したことはない」もの扱いにできるのです。
> つまり、貴方のなさっていることは、はらぴょんさんの肯定に見せかけた、「自己肯定」であり「自己のアリバイ作り」でしかありません。

> したがって、はらぴょんさんをどうこう言う前に、貴方自身がそうした「自身への甘やかし」を、反省すべきことでしょう。そうでなければ、貴方には、はらぴょんさんを批判する権利もなければ、むろん擁護する権利も無いのです。
> 「寛容」を語る人間が、誰よりも自分自身に「寛容」だなどというのは、あまりにも露骨な欺瞞(ご都合主義)です。そのことを、貴方自身が反省してから、他人のことにも口出しすべきです。

>> はらぴょんさんに敬意を表します。

> と、ここで使われた『敬意』という言葉の、なんと腐りきり弛みきっていることか。こんな言葉では、どんな真実も伝えられなしないでしょう。こんな「偽の言葉」では。

> はらぴょんさんは、たしかに「愚か者」です。でも、貴方のように「狡猾」ではないところが、救いと言えば救いでしょう。

と杉澤氏を批判したところ、杉澤氏から、

> 2007年03月10日15:26  杉澤鷹里

> アレクセイさま、

> なるほど、良く分かりました。
> はらぴょんさんという被害者のためにも、アレクセイ論を展開することにします。

というコメントがあり、杉澤鷹里流「アレクセイ論」が書かれることになりました。

私自身、どのような「アレクセイ批判」が展開されるのか(それは多少とも目新しい論点を持つものなのか)、とても興味があるところですし、私のページをご覧いただいているみなさまも同様かと思いますので、杉澤氏にその論文を、このページに書いていただくよう依頼すべく、当ページを立てました。

これは、あちこちにバラバラに書かれたのでは論旨が追いづらいということと、「アレクセイ論」はどこよりも、私のページに発表されるべきものだと考えたからです。

もちろん、的外れな批判には容赦なく反論しますので、反論をゆるさない引き締まった「アレクセイ批判」を期待したいところです。そうでないと、「アレクセイ批判」が「杉澤鷹里批判」にならないとも限らないからです。

ともあれ、杉澤氏には、ここでの論文発表をお願いしましょう。むろん、杉澤氏のページを始め、どこで「連載の宣伝」をしても、一向にかまいません。やるのであれ、杉澤鷹里流「はらぴょん論」のように、第1回でお終いなどという腰砕けにならないことを期待したいと思います。

               ○

なお、杉澤鷹里氏と私の議論のテーマとなっている『私(アレクセイ)と はらぴょんさんとのやり取り』については、現時点では、次の(はらぴょんさんの日記)ページをご覧下さい。

杉澤さんのコメントは、下の日記(2)(5)(6)(7)のコメント欄と、(6)の続きを掲載すべく私が立てた、

(6-2) 2007年3月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
     (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

で、ご覧いただくことができます。日記のコメント欄への書き込みのために、日記順に読んでいくと、書き込み日時が前後しますが、(1)〜(8)+(6-2)を通読していただければ、議論の流れは、充分にご理解いただけるはずです。


(1) 2007年2月10日「『魔』」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、4つ

(2) 2007年2月15日「批評におけるパラダイムの混在」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
    (最初(2月19日)の無題コメントは「謝罪要求と警告」とでも題すべきもの)

(3) 2007年2月20日「見解」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」他

(4) 2007年2月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」他

(5) 2007年2月24日「齟齬の根底にあるもの」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第2章 はらぴょん批評の「根底にあるもの」」他

(6) 2007年2月27日「『テロルの現象学』について」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」他

(7) 2007年3月03日「たとえ話をふたつ」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」他

(8) 2007年03月09日「後続の走者」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ

No.296 - 2007/05/28(Mon) 21:48:43
mixi(9) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 後続の走者 2007年03月09日 00:53

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648
No.277 - 2007/05/27(Sun) 09:46:29

mixi(9)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月13日 20:39

当ページのコメント欄における、私の問いかけに対する応答と理解できる、はらぴょんさんの最新の日記、

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

がアップされました。
すでに私は、この日記にもコメントを付しています。ぜひご確認下さい。

No.309 - 2007/06/01(Fri) 07:30:11

mixi(9)-6 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 19:48

☆ はらぴょんさま

すでにご承知かも知れませんが、

・ 2007年03月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

などでのやりとりを経て、貴方の「覆面弁護人」でしかなかったと判定するにいたった杉澤鷹里氏とは、今後、そちらはそれとして個別に対応しますので、貴方は、貴方自身の判断と責任において、私の告発に対応して下さい。

言うまでもありませんが、杉澤さんの当初の「仲裁者」を装った発言が、その後、二転三転するに及んで、杉澤さんの発言の客観性は、極めて信憑性に乏しいものとなっておりますし、まもなく私は、その事実を、杉澤さんの発言の変遷を整理することで、はっきりと論証してみせるでしょう。

したがって、貴方が、事ここに至っても、杉澤さんの、

> 2007年03月10日12:15  杉澤鷹里

> はらぴょんさま、

> 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
> 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。

といった「間違いがあっても、それを率直に反省できないのは、当然」とするような「甘言」に惑わされるのは、百害あって一利なしです。
どうか、状況の厳しさをしっかりと直視して、覚悟を決めて反省して下さい。謝ったり撤回したり、認めたり撤回したりといった、腰の定まらない態度こそが、世間の物笑いの種になるのだということを、しっかり自覚していただきたいと思います。最後に責任を取るのは貴方自身であり、杉澤さんは貴方の責任までは取ってくれないんですからね。

No.300 - 2007/05/28(Mon) 22:13:50

mixi(9)-5 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 00:42

☆ はらぴょんさま

> 私の場合、笠井氏・日下氏・アレクセイ氏らの評論を読んでいますから、新作の『キララ、探偵す。』を読んで、そのメタ・フィクション的傾向に気づいたとしても、当たり前のことで、決して凄い事ではありません。
> ことさら、過剰に騒ぎ立てるような事をいたしまして、誠に申し訳なく思っております。

> 従って、『キララ、探偵す。』について同様のことを言うためには、やはりそれなりの作業をせねばなりません。確かに、まったく土台のないところから行うよりは、遥かに安易であり、先行者の業績と比較すると、その価値は遥かに劣るわけですが、それでも零ではないというのが私の考えです。
> 心証の悪い私については、価値は零ということでかまいませんが、私のことで前例を作ったがために、その後、私以外の人が今後刊行される竹本作品のメタ・フィクション性の指摘をして、「『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを見ましたね」という非難を受けたとしたら、あまりにも理不尽と思われます。


まだ、こんな「的外れな」ことを言っているのですか?

竹本健治作品に関する貴方の指摘が、さほどの価値を持たないことなど、初めから明白なことであり、それは杉澤鷹里氏も認めているとおりです。

したがって、私が、最初から、問題としているのも、貴方がご自分のなさったことを「第三者の目にだけ誤魔化そうとしたこと。その姑息さ、その心根」なんですよ(私に対して、そういう態度を採るということは、そのまま「友人への裏切り」ということにもなります)。


たぶん、気弱な貴方の事ですから、私の批判論文をまともに読むこともできずに、だらだらと同じような「言い訳」を連ねているのでしょうが(事実ここのところは、私のページを覗けずにいる)、本当に納得ができないというのであれば、私の批判をきちんと読んで下さい。読まなければ、理解できないのも納得できないのも、理の当然です。

ひとまず、私の「はらぴょん論」を、

・ 2007年02月20日「見解」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のページに書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」から読んで下さい。
ここには、私が、貴方を「なぜ批判したのか」、貴方の「何を批判したのか」が、論理的に示されています。つまりそこに書かれているのは、貴方が繰り返し書いている「どっちが先か(後には価値が無いのか)」というような下らない話ではなく、「何がどう誤魔化されたのか」という事実です。

「申し開き」をしたいのなら、私が何を批判しているのか、それを押さえた上で、申し開きして下さい。そうでなければ「話にならない」というのは、あたりまえの常識でしかありません。
No.287 - 2007/05/28(Mon) 16:05:48

mixi(9)-4 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年3月10日 0:08

アレクセイさま

 おっしゃる通り、私はアレクセイさまの書かれた竹本健治著『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを、『キララ、探偵す。』刊行前に読んでおります。
 アレクセイさまの書かれた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューには、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のメタ・フィクション的傾向を示す部分の指摘があり、これを読むことにより、読まないよりも、同じ著者の別の作品についてのメタ・フィクション的傾向についても、気づくようになると思います。
 また、竹本健治氏のメタ・フィクション的傾向を指摘した評論は、アレクセイさまのレビュー以前にも、前述の笠井氏・日下氏などがあり、これらを読むことにより、やはりメタ・フィクション的傾向に敏感になります。
 私の場合、笠井氏・日下氏・アレクセイ氏らの評論を読んでいますから、新作の『キララ、探偵す。』を読んで、そのメタ・フィクション的傾向に気づいたとしても、当たり前のことで、決して凄い事ではありません。
 ことさら、過剰に騒ぎ立てるような事をいたしまして、誠に申し訳なく思っております。

 ただ、依然として釈然としない事があります。
 確かに、アレクセイさまの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを読むと、竹本作品のメタ・フィクション性に敏感になりますが、レビューが書かれた時点で未刊行であった『キララ、探偵す。』のことは、当然書かれていません。
 従って、『キララ、探偵す。』について同様のことを言うためには、やはりそれなりの作業をせねばなりません。確かに、まったく土台のないところから行うよりは、遥かに安易であり、先行者の業績と比較すると、その価値は遥かに劣るわけですが、それでも零ではないというのが私の考えです。
 心証の悪い私については、価値は零ということでかまいませんが、私のことで前例を作ったがために、その後、私以外の人が今後刊行される竹本作品のメタ・フィクション性の指摘をして、「『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを見ましたね」という非難を受けたとしたら、あまりにも理不尽と思われます。
 「お前の危惧は妄想で、そんなことはない。失礼な言いがかりだ。」と言われれば、私はこの件に関して安心して退場することができます。   
No.285 - 2007/05/28(Mon) 15:53:29

mixi(9)-3 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 20:31

☆ みなさま

明記されてはおりませんが、はらぴょんさんの当日記、

・ 2007年03月09日「後続の走者」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648

は、その前の日記である、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

を受けて、一連の日記の続きとして書かれたものです。


当「後続の走者」で、はらぴょんさんは、

> 一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。

とされていますが、しかし現実には、前記「たとえ話をふたつ」では、次のように書かれていました。

> たとえ話をしよう。
> 200X年、科学者Aが、化粧品Bの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
> その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
> その後、科学者Aが、自分の次の仕事の予定は、化粧品Dの分析であったとし、化粧品Dにおける有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
> 私は、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであると思う。

はらぴょんさんは、『科学者C』にあたるご自分の立場を、このように「説明」していたわけです。

この「自己弁明」に対し、私は同日記のコメント欄に書いた「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」で、この「たとえ話」の欺瞞性を、次のように論駁しております。

> ここには、2点の「語り落し」があります。

> 1つ目は、「化粧品B・化粧品D」と書くと、一見無関係な、別の会社が製作した「化粧品」のように見えますが、実際には、それらは共に、竹本健治という作家の『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』という作品であり、正確な「たとえ」を期するのなら「研究者Tによって開発された化粧品B1・化粧品B2」とでもすべきでしょう。
> 2つ目は、 科学者C(はらぴょん)が「科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいたという事実」です。

> つまり、「研究者Tによって開発された化粧品B1」に「特有の毒性」があり、「そのひとつは『かくかくしかじか』という要素に表れている」という科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいる者であれば、同じ「研究者Tによって開発された化粧品B2」のなかに「『かくかくしかじか』という要素」を見つければ、「化粧品B2」に「研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性」があるを見るのは必然であり、それは「発見」でも何でもなく、単に先行論文の「適用(流用)」でしかない、ということです。

> そして単なる「適用(流用)」をした 科学者C(はらぴょん)が、科学者A(アレクセイ)に対し「私の方が先でしたね」「たぶん、貴方も指摘すると思って、先回りしたんです」などと言う行為が失礼千万であることは論を待たず、それを科学者A(アレクセイ)に非難されて、科学者C(はらぴょん)が「化粧品B2に関する、研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性の発見は、私が先だ。貴方にとやかく言われる筋合いではない」などと言うのは「盗人猛々しい態度」でしかないのも、言うまでもないことなのです。

> ともあれ、はらぴょんさんの「たとえ話」には、このような「重要なポイントの語り落し(欺瞞)」がある、ということです。

このような、事実に基づいた論駁を無視し、はらぴょんさんは尚も、

> 一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。

などという「あからさまな嘘」を重ねておられるということです。
つまり問題は、はらぴょんさんが「発見者」かどうかではなく、事実無根の「嘘を書く」人であり、そのことで「他人を誹謗する」人である、という事実にあるのです。

なお、はらぴょんさんの今回の日記「後続の走者」は、あまりにも「幼稚な嘘」が、懲りずに重ねられているだけの内容であり、はらぴょんさんのそうした属性については、もはや拙稿「はらぴょん論」で、くりかえし論ずるには値しないものと判断し、このような別枠で、事実を指摘するに止めました。

夢野久作に「少女地獄」という「嘘に嘘を重ねながら生きていく少女の生き地獄」を描いた作品がありますが、はらぴょんさんの現状は、まさに「はらぴょん地獄」とでも形容すべきものであり、まことに痛ましいかぎりだと思います。


☆ はらぴょんさま

はやく目覚めて、更正して下さい。
No.284 - 2007/05/28(Mon) 15:50:27

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アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 12:49

☆ はらぴょんさま

『後続の走者』とか『精神のリレー』などという「きれいな言葉」で、ご自身の「俗物的な言動」を飾るのは、よくありません。――というか、貴方の「悪い癖」です。

貴方のマイミクであり、長い友人であり、良き理解者であるはずの杉澤鷹里氏でさえ、次のように書かれていますよ。


> 2007年03月09日00:34  杉澤鷹里

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。


全文は、下の日記ページをご覧下さい。杉澤氏の見解に対する、私のコメントもあります。

・ 「続・杉澤鷹里氏との議論」2007年03月07日
  http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

No.281 - 2007/05/27(Sun) 09:53:16

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はらぴょんさんの日記 後続の走者 2007年03月09日 00:53

 某国立大の理系の院生から、指導教官のもとで論文を書いて、いい出来であると、指導教官が自分の名前に書き換えて、学会に論文を提出してしまうという話を聞いた事がある。指導教官の研究成果を踏まえ、指導教官のメソッドを使って、研究を推し進めたというわけである。
 ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述が含まれている件が、先般からアレクセイ氏との間のトラブルの火種のひとつになっているが、この件に関して、私はアレクセイ氏による2月11日(日)01時01分22秒の「BBSアレクセイの花園」での同様の指摘よりも、時間が早いという事実確認が行ったが、特に第一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。
 この種のメタ・フィクション性の指摘は、アレクセイ氏によって書かれた竹本健治氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューで(これが掲載されたのは、私の『キララ、探偵す。』のレビューに先立っている)すでに為されており、ここで竹本作品においては、『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品以外でも、メタ・フィクション性が認められることもあるという<一般解>が確立された。したがって、その後の『キララ、探偵す。』でメタ・フィクション性が認められることもあるという私の指摘は、前述した<一般解>に含まれる<特殊解>に過ぎず、すでに前作『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏によって予見されていた、ということでよい。そもそも、このような発見の類いは、文芸評論家であるアレクセイ氏にとっては意味があることだが、公正な判断も出来ず、偏向した放言に終始している一介の市民に過ぎない私には、何の意味もないことである。
 とはいえ、竹本健治氏のコアな読者は、「少年回廊」だけでなく、「アレクセイの花園」もチェックする可能性は高く、そういった中から、私とは違って文芸評論家を目指す高い志のある人が出てくるかも知れない。そういった人が、竹本作品の新作を読んで、この箇所は作者のメタ・フィクション性を示すものだと指摘することもあるかも知れない。その場合も、すでに『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏が<一般解>として示したものであり、アレクセイ氏の予見の後に登場した二番煎じであるということになるのだろうか。
 『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品というと、どこまでを指すのか、境界線が私には判らない。ミステリは、メタ化傾向の強いジャンルであり、ことに竹本作品では顕著であるといえる。だから、『トランプ殺人事件』の文庫解説で、笠井潔氏がメタ・ミステリ談義をしているし、確か日下三蔵氏も『兇殺のミッシング・リンク』でのメタ・フィクション的遊戯について指摘したことがあるはずである。
 思うに、ミステリとミステリ評論は、その愛好家によって、精神のリレーを引き継ぐように書き綴られてきた趣味的なジャンルである。果たして、アレクセイ氏による『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの後で、後続の走者はいるのだろうか。
No.278 - 2007/05/27(Sun) 09:47:58
mixi(11) / ☆
はらぴょんさんの日記 ある転落の記録 2007年03月12日 01:19

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648
No.306 - 2007/05/31(Thu) 09:09:43

mixi(11)-2 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月13日 20:35

☆ はらぴょんさま

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

ざっと拝見しました。かなり自己分析の努力をなさっているとは感じましたが、私にすれば、まだまだ不十分に思えます。
だから、はらぴょんさんを赦さない、と言うのではありません。ここまでしか自覚できないのであれば、つまり、これが現時点での、はらぴょんさんの自己分析の限界なのであれば、ここでこれ以上を求めても仕方がないということです。
しかし、これは、物事をうやむやに済ませるということではないし、私の意見の公表を差し控えるということでもありません。はらぴょんさんに、ご自分ではどうしても自覚できないところがあるのであれば、それを私が補助しよう、ということです。


今回お書きになられた日記は「ある転落の記録」と題されていますが、私に言わせれば、はらぴょんさんは、今回の事で、ことあらためて『転落』したわけではなく、「前から今のまま」だった、ということでしかありません。ただ、それをハッキリと指摘する者がおらず、そのために、はらぴょんさんは、ご自身の現状に無自覚だった、というだけのことです。

例えば、はらぴょんさんを「現代思想オタク」だと言って、嘲笑する人は少なくなかったはずです。しかし、そういうことを書く人間の大半は、他人のことを嘲笑する権利などない、つまらない匿名人間がほとんどだったのではないでしょうか? 彼らは「匿名」であればこそ、他人を攻撃することもできたけれど、責任主体としての自分を曝して、他人を批判できるような人間ではなかった。まただからこそ、はらぴょんさんは――そういう人間の言うことを「完全否定」することもできた。所詮は無知な輩の「誹謗中傷」でしかないと、その一切合切をゴミ箱に放り込むこともできた。
しかし、彼らの「人間性」や「批判の意図」が下劣・論外だとしても、はらぴょんさんを「現代思想オタク」だとする評価が間違っているとまでは言えません。むしろ、その点だけは「正しい評価」だったと言えるではないですか?

・ 2007年2月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

のページに投稿した「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」で、私が、はらぴょんさんに、

> 本当に「反省」する気があるのであれば、はらぴょんさんは今後、ご自分の文章において、思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して「自分の文章を飾り立てる」という愚行・醜行を、一切止めなければなりません。そういう「虚飾」を脱ぎ捨てた後の、裸の貧相な自分を直視した時にこそ初めて、本当の「反省」も可能だからです(『バイバイ、エンジェル』での、矢吹駆の助言と同じです)。

> 無論、私は、哲学書や思想書を「読むな」と言っているのではありません。むしろ、それらをしっかり読んで消化し、身につけてほしい、と言っているのです。そうしたもので学んだことを、自分のものとして消化したかたちで表現するのなら、それは一向にかまいません。
> 私が、忠心からの助言として、そして誹謗中傷をされた被害者として、はらぴょんさんに要求したいのは「哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない」という、はらぴょんさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。

と要求した際に、はらぴょんさんは、これに応じなかったばかりか、それ以降、この要求を「拒絶する理由」すら明確にしなかったことに、はらぴょんさんの「知のあり方」の現状はあきらかでしょう。

実際、はらぴょんさんが、真に「思想・哲学」といったものを「学び」、それによって「自身の見識や人格を高める」つもりがあるのであれば、もとより「衒学趣味」など、まったく不用なのです。しかし、それが、はらぴょんさんにとって「虚飾(外見的表面)として価値を有するもの」であればこそ、その「虚飾」が捨てられないんですね。

こうした、はやぴょんさんには、そういう「自分の現実の直視」を、どうしても避けてしまう「弱さ」がある。そして、その「弱さ」の故にこそ、「知識が骨抜き」にされて「虚飾」と化し、他人に批判された時は、(それが「2ちゃんねるの匿名雀」であれ、私であれ)そうした「自分に固有の問題」を、「相手との関係性」に還元して、逸らして(うやむやにして)しまおうとするんです。
例えば、今回の日記「ある転落の記録」では、

> [現在の観点からの批判]
> 「思想の適用範囲について」や「批評におけるパラダイムの混合」の枠組みに流し込んだとしても、同じ現代思想の言語ゲームを共有している人ならば兎も角、共有していない人には全く無効で、説得力がなく、ただ思想家の名前やテクニカル・タームを振りかざすだけで、(それがいかに反権力の側に立つ文化的ヒーローであっても)権威主義的な印象を与え、反感を買うだけであるということが判りました。
> 現代思想は、まったくローカルな、同じ関心を共有する人だけに通じる符牒で出来ており、こんなもので誰でも斬れると考えていた私が愚かであり、傲慢であったと思います。

という、一定の評価を与えられるべき「気づき」が語られています。

しかし、これは、ある意味で「当たり前」のことであり、こんなことにも気づけないでいた「これまでの自分」の奉じていた「現代思想」とは、いったい何なのか、という本質的な反省(自問)には、はらぴょんさんは未だ至っておりません。

つまり端的に言えば、「パラダイム」云々を賢しらに語るはらぴょんさん自身が「ごく狭い(田舎の)パラダイム」を振り回していたわけなのですが、もともと「パラダイム」というのも「現代思想」用語であれば、「現代思想」とは本来「自らがパラダイムの内にあって、それを自覚しながら思考し抜こうする営為」であるはずなんですね。
ところが、はらぴょんさんのここでの「反省」は、「現代思想を知っている人のパラダイム」と「それ以外の人のパラダイム」という具合に、「それ以外の人」を排除することで、自身が所属してきた「狭い(田舎の)パラダイム」を温存し、「これまでの自分」を延命させることにしかなっていないのです。

言うまでもなく、世界最高の頭脳たちによって追求展開されたきた「思想・哲学」というものは、(自分たちの権威を妄信してくれない、という意味において)不都合な「それ以外の人のパラダイム」を排除し、「現代思想を知っている人の(仲間内の)パラダイム」に限定したような「狭い場所」で行われてきた、そんな「ひきこもりのマスターベーション」のようなものではありえません。こんなことは「現代思想に無知な人」にだって、当たり前にわかることなのです。

しかし、「現代思想を知っている人のパラダイム」の側にあると自認しているはらぴょんさんには、なぜか、そんなこともわからない。――なぜわからないのか? その答は、はらぴょんさんが、そういうものだと思い、そういうものとして語っている「思想・哲学」は、本来の「思想・哲学」とは「似て非なるもの」、本来のそれに「外見」だけはそっくりな、「思想・哲学のはく製」という「死物」だった、ということなんですよ。

>  かつて、アレクセイ氏は「はらぴょんさんは確かにおたくだけれども、ともだちだと思っているよ。」という主旨のことを書かれたのを覚えています。それなのに、私は早とちりを連発して、アレクセイ氏を疑い、アレクセイ氏を傷つけてしまいました。今はただ、平謝りに陳謝するしかありません。
> なぜ、アレクセイ氏を信じることができなかったのか。今の私には、それが恥しくてなりません。

という言葉を、8割がたは信じます。まだ、自己救済的な自己欺瞞としての「きれいごと」のニュアンスは残っているから、百パーセントとは言いませんが、今それを求めても無理でしょう。

私は「字面の謝罪」なんか求めていません。そんな欺瞞など「読めばわかる」ものであり、私はこれまで、だてに「文学」を読んできたのではないんですよ。だから、これまでの「ポーズだけの謝罪」は容認しませんでしたが、今回の「不完全ながら、誠意あらんとする謝罪」は受け入れましょう。そのうえで、私の「はらぴょん論」を、貴方への最大級のプレゼントとして、完成させたいと思っています。

はらぴょんさんも、私に批判された多くの人が、自分自身を救うために、どういう失敗をし(悪手を打ち)、それによって「自滅」していったかを、よくご承知のはずです。
誰だって、欠点や問題点はあるんです。そして、それをそのまま指摘され、「改めよ」と要求されるようなことも、当然ある。そして、それが真っ当な要求であるにも関わらず、あるいは真っ当な要求であればこそ、なかなか改められないこともある。――しかし、そこで大切なのは、その真っ当な批判を、そこで拒絶するのか、それに誠意をもって精一杯応ずるのか、という「差」なのです。そこで、その人の「人間性が試される」んですよ。

先日、ホランドくんが、瀬名秀明の『第九の日』から、ロボットであるケンイチくんと、その保護者的存在であるレナとの、次のような会話を紹介していました。

『「レナ、それが人間の本性(ネイチャー)だとしたら、ロボットの本性は何なの?」
「ケンイチくん」
 レナがぼくに顔を向けた。
「覚えておいて。ケンイチくんはいま、そうやって考えている。私たちは考えることができる。自分のことを考えて、行動を自分で決めることもできる。これを理性というの。私たちには生まれつき備わったものがある。中にはどうしても変えられない特質もあるかもしれない。でもそんな特質でさえ、私たちは理性の働きで自らを検証することができる」
「悪いところは理性で克服しろってこと? 『アフリカの女王』のオルナットさんみたいに?」
「変わらないものがあり、変える理性がある。いい? その両者を持つこと、それこそが私たち人間の本性なのよ」
「じゃあロボットの本性は? もしぼくに変わらないものと変える理性があったら、ぼくも人間だってこと?」
「それはとても大切な質問ね。たぶん人間の本性という言葉は、人間と他のものを区別するためのものじゃない。ケンイチくんの本性(ネイチャー)は、私たちの本性(ネイチャー)と変わらない。それだけのことかもしれない」
「……レナにもわからないことがあるの?」
「ええ。たくさんあるわ。ケンイチくん、あなたは人間社会の中に生まれ育った。それはあなたが人間としての環境を与えられたことになるのかもしれない。でもあなたは私たちとは異なる機構を持っている。あなたはロボットなの。そしてロボットだからこそ、人間とは違う人間観を築いていける。ケンイチくん、いまあなたが抱いた疑問を大切にしなさい。ロボットの本性を考えていきなさい。そして何かを知ったら、私にも教えて」
「ぼくもレナに教えられるようになるのかな」
「いつか必ずね」』

            (『第九の日』P179〜180、「モノー博士の島」より)

そして、ホランドくんは、この会話を、竹本健治の『キララ、探偵す。』に関連させて、こう語っていました。

> ロボットは、「人間になる」必要なんかない。「ロボット」は「ロボットの本性(ネイチャー)」において、「ロボットらしく自立した存在」になればいいんじゃないか。そして、そうした「他者性」を認めることこそが、本当の「愛」なんじゃないか。――ボクにはそう思えるんです。

おわかりでしょうか? 「知性」とは、「自分を変える力」ではなく、「自分を変えようとする力(=メタ意識)」なのですよ。そして「愛」とは、「変えようとして変えられない」他人の「他者性」を承認し、時にはそれに魅せられることなのです。

ですから、はらぴょんさんにとって大切なことは、そうした「知性」を働かせることです。たとえ、それで変われなくて、あいかわらず「困った現代思想オタクのはらぴょんさん」に止まることになったとしても、はらぴょんさんが、そういう「知性」を働かせ続けるかぎり、私は、はらぴょんさんに、一定の尊敬と友情を持つことができるでしょう。私が求めるのは、いつだって「誠実な人間性という、知性=態度」なのです。


ちなみに、はらぴょんさんが、再度検討すべき問題点が、ハッキリと表れている箇所を指摘しておきましょう。

> 「BBS アレクセイの花園」での私の文章の一部引用。引用については、最初の引用の際に、アレクセイ氏から許可を求めるメッセージがあり、文章は読まれてなんぼの世界なので、その文章は引用してもいいですよ、という回答をしたつもりだったのですが、その後も引用が続き、全文引用とは違い、一部引用だと印象が違うなぁ、これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ、でも仕方ないかと思っていました。

この文章の「不自然さ」は、『引用』というものが、基本的には『一部引用』であって、『全文引用』などというものは「極端な例外」でしかないという「事実」を無視し、「私のすべてを、正確に紹介せよ」と「無理な要求」をしている点にあります。

なぜ、引用の際「出典」が示されるのか? それは「全文」を確認できるようにするためです(確認可能性の担保)。「引用」とは、所詮「一部引用」でしかありえないからこそ、「出典」が明記される。もし「全文引用せよ。そうでなければ、私は正しく理解されない」と要求するほど、「正しく理解されること」を他人に要求するのであれば、正直に「(一部)引用は、許可しない」と言えばいいのです。
しかしまた「一部引用」は、他者に認められた権利ですから、そう要求することは、実際にはできません。そこで、要求できないことを要求して「けちなやつ」と思われるだけなのは嫌だから、「どんどん引用して下さい」と気前の良いふりをして見せておきながら、内心ではそれを不満に思う。――これが、はらぴょんさんの現実です。

この、人並みはずれて「私を正しく評価せよ」という感情は、言うまでもなく、実際には「私を、私の思っているとおりに評価せよ」ということでしかなく、実際には「実際以上に評価せよ」ということにしかなりません。また、そんな「過剰な欲望」に振り回されているから、

> これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ

などと思ってしまうのです。

「引用」文とは、はらぴょんさんの文章がまさにそうであるように、大抵の場合は「引用」者の『引き立て役』にしかなりません。なぜなら、「主役」は、その文章の書き手である「引用」者だから、なのです。
そして、こんな当たり前のことにも不満を抱くのは、はらぴょんさんが「欲をかき過ぎている」ためであり、そうであるからこそ、他人を妬んだり、やっかんだりすることにもなるんですよ。

誰が「主役」で、誰が「引き立て役」かは、読者が決めることで、書き手が決めることではありません。例えば、書き手が、自分を引き立てるために、権威者の言葉を引用したとしても、読者が評価するのは、その引用文の原著者であって、引用者ではない、などということは、いくらでもあるでしょう。
つまり、私が、はらぴょんさんに「他人の権威で自分を飾り立てず、自分の文章を書け」というのも、結局は「自分で主役になれ」ということでしかないんですね。それができなければ、はらぴょんさんはいつまでたっても「私は、引き立て役の損な役回りばかり、押しつけられている」という「被害妄想のルサンチマン」に身を焼かなければならないでしょう。

他人の自分に対する評価をどうこう言う前に、評価できない他人を心から哀れむことのできる、自信ある主体を作ることが先決であり、それができなければ「内省」としての「思想・哲学」なんて、できる道理がない。そのことに早く気づくべきなのです。
No.308 - 2007/06/01(Fri) 07:28:47

mixi(11)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 ある転落の記録 2007年03月12日 01:19

(1)砂上の楼閣
[事実確認1]
アレクセイ氏との意見対立は、「討論・笠井潔について」
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html の頃からありました。
「虚無なる「匣の中の匣」」という掲示板には、2004/10/29に書かれた「討論・笠井潔について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章があり、そこには当時感じた意見のズレが書き残されています。
併せて、その下にある「思想の適用範囲について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章を読んでいただければ、今回書いた「批評におけるパラダイムの混合」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648 という文章が、内容面で重複しているところが多々あるということがわかります。
「討論・笠井潔について」http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html をやっていた当時、「思想の適用範囲について」で書いたような枠組みに流し込めば、笠井潔の思想を克服することができると考えていました。
「虚無なる「匣の中の匣」」に書いたこのふたつの文章が、今回、表面化した。「虚無なる「匣の中の匣」」は、誰でも見れる場所なので、その段階で表面化させたといえますが、見る人が少なかったのだと思います。

[現在の観点からの批判]
「思想の適用範囲について」や「批評におけるパラダイムの混合」の枠組みに流し込んだとしても、同じ現代思想の言語ゲームを共有している人ならば兎も角、共有していない人には全く無効で、説得力がなく、ただ思想家の名前やテクニカル・タームを振りかざすだけで、(それがいかに反権力の側に立つ文化的ヒーローであっても)権威主義的な印象を与え、反感を買うだけであるということが判りました。
現代思想は、まったくローカルな、同じ関心を共有する人だけに通じる符牒で出来ており、こんなもので誰でも斬れると考えていた私が愚かであり、傲慢であったと思います。

[事実確認2]
 ミクシィにおいて、私のマイ・ミクシィは、ありえない組み合わせであることが、すぐさまわかります。
 私とアレクセイ氏の間で、共通点もあれば、相違点もあることは上述の確認でわかります。
 さらに、アレクセイ氏は「笠井潔葬送派」で、反探偵小説研究会の立場であり、小森健太朗氏は探偵小説研究会に属している。アレクセイ氏が、清涼院流水氏の小説をあまり評価していないということも知っていました。
 また、他にも「合理主義VS精神世界」などの対立軸を見出すことができます。
 同じタイプの人間ばかりであれば対立は起きにくいといえます。それに対し、私の周りは何が起きても不思議ではない人間関係といえます。
 うまく機能すれば、本当の意味でのコミュニケーション=意見交換の場が出来たかも知れませんが、それを実現するだけの器が私にはなかったといえます。
 ちなみに、小森コミュをつくるにあたって、まず小森健太朗氏をミクシィに招くということを行いましたが、このとき自分でしなかったのは、小森氏と直接マイ・ミクシィになることで、複雑な人間関係になるので、自分からは遠慮したいという気持ちがあったのは事実です。ちなみに、現在、マイ・ミクシィとなっているのは、小森氏からの申し出によるもので、ミクシィに入会されてから時間を経てからでしたから、すべてを承知されているものとして快諾することにいたしました。

(2)出来事の経緯
 笠井潔著『魔』(文春文庫)の解説を、小森氏が書いたということで、アレクセイ氏が私の日記に、否定的な批評を書きました。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648 この批評は、アレクセイ氏の立場からすると、当然のものであったといえます。
 この書き込みに対し、配慮が働いたのは事実です。争いは起こしたくないが、されど議論は無視はできない。両者の間をうまくくぐりぬけられないか、と。
 その後、私はアレクセイ氏の批評に関してコメントをし(アレクセイ氏の立場からは中途半端ととられるかもしれませんが)、一応はくぐりぬけたつもりだったので、『魔』の件で、立場的に追い詰められたから、その後の暴発的な書き込みを行ったかというと、その理由は弱いというのが事実です。
 ちなみに、この機会ですから、私が小森文学についてどう考えているか、少しだけコメントしておきましょう。『グルジェフの残影』の文庫版が出たときに、巻末の対談でニーチェとか、コリン・ウィルソンとかを題材にした場合、ミステリを喰ってしまうので、そういうテーマを避けるという主旨のことを小森氏が語っており、その直後、小森氏自身に自分としては、ニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、小森さんが本当に書きたいものを書いてほしいし、そういう内発的な理由で膨れ上がって、ミステリという形式が壊れるときに、むしろ問題作が生まれるんじゃないでしょうか、という主旨のことを言ったことがあります。小森氏の評論をみますと、必ずといっていいほど笠井説への言及がありますが、このまま行くと笠井説を補完するだけになってしまいますから、もっと独自性を出してもらいたい、とすればニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、本当に小森氏の好きなものを題材にして、多少優等生の枠をはみ出てもよいというような気概で書くのがいいのではないか、と思っています。(これは勝手な希望なので、小森氏がどう考えられるかはわかりませんが。)
 話を元に戻します。『魔』のことを書く前から、ふたつの事柄に悩まされていました。
 ひとつは、清涼院流水氏と西尾維新氏との対談 http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html/ref=amb_link_22568806_2/249-2495434-4041908?ie=UTF8&docId=1000029266 の末尾の方に出てくる「笠井潔」という名前が、ふたりの間でどう位置づけられるかという問題。(これをどう考えるかは、未だによく判断がつきません。)
 もうひとつは、「BBS アレクセイの花園」での私の文章の一部引用。引用については、最初の引用の際に、アレクセイ氏から許可を求めるメッセージがあり、文章は読まれてなんぼの世界なので、その文章は引用してもいいですよ、という回答をしたつもりだったのですが、その後も引用が続き、全文引用とは違い、一部引用だと印象が違うなぁ、これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ、でも仕方ないかと思っていました。
 暴発の引き金となったのは、
「アレクセイの花園」2月11日(日)01時01分22秒に書かれた

>Keenさまやはらぴょんさまが指摘なさっているような、「意識とは何か」「生命とは何か」「恋愛とは何か(可能か)」といった哲学的な問題提示を別にしても、本書には『匣の中の失楽』以来、連綿と続いている、竹本健治ならではの「過剰性」「逸脱性」が見て取れます。
例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

という文章で、2007年02月01日 00:16に私が書いた『キララ、探偵す。』のレビューを、アレクセイ氏は見ているにも関わらず、それをないかのように故意に事実を隠蔽したのだと思ったのです。
 私はアレクセイ氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを先に見ていますから、アレクセイ氏が『キララ、探偵す。』を読めば、「メタ・フィクション」的手法に気づくことは確信していましたが、自分の名誉を引き立てるために、私のレビューはないことにしようと図ったと思ったのです。(無論、私のレビューは、アレクセイ氏や他の人によるこれまでの竹本作品の書評を読んでのことですから、オリジナリティは無に等しいと思っていました。)
 そのため、この部分に日記で触れたのですが、アレクセイ氏は、この件について私を黙らせようとする雰囲気が見られましたので、ますます疑惑を深めてしまったのです。
 さしたる準備も詳細な事実確認もないままに、旧来の自論に、その場のトピックス(『構造と力』の件)を散りばめて、アレクセイ氏批判を開始したのは、それが第一原因でした。
 しかしながら、旧来の現代思想を適用した自論は、現代思想の心棒者にしか効かず、『構造と力』の件も、その場の会話では文章が話者の意見の表象代理として機能しており、『構造と力』の著者が言いたかったこととは別に流れていることが判明した現在、この暴発の第一原因についても、認識の修正を図らねばなりません。
 アレクセイ氏が私を黙らせようとしたのは、事実の隠蔽のためでも、権威主義傾向でもなくて、私の主張がまったく見当ハズレで、迷惑だったからであると。そして、2月11日(日)01時01分22秒より前に、2007年02月01日 00:16に私が書いたレビューを見たというのは、大きな誤解であったのだと。そうでなかったら、あんなに自信をもった私への反論ができないはずです。
 かつて、アレクセイ氏は「はらぴょんさんは確かにおたくだけれども、ともだちだと思っているよ。」という主旨のことを書かれたのを覚えています。それなのに、私は早とちりを連発して、アレクセイ氏を疑い、アレクセイ氏を傷つけてしまいました。今はただ、平謝りに陳謝するしかありません。
 なぜ、アレクセイ氏を信じることができなかったのか。今の私には、それが恥しくてなりません。
No.307 - 2007/05/31(Thu) 09:13:09
mixi(8) / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんの日記 続・杉澤鷹里氏との議論 2007年03月07日 21:41

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746
No.272 - 2007/05/26(Sat) 21:59:38

mixi(8)-10 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月11日 20:01

☆ 杉澤鷹里さま

>私やホランド氏に、的外れ且つ下らない嫌がらせをしたのは、かねてからはらぴょんに、私に対する妬みややっかみの感情があり、それが憎しみに近いものとなっていたからこそ、私に好きな小森健太朗を批判され、かつ、はらぴょんさんの小森健太朗評価の甘さを指摘されたことが切っ掛けとなって、専門知識を振りかざすかたちでの嫌がらせにおよんだのであろう」ということです

> 文意が読み取れず、失礼をしました。つまり、「江戸の仇を長崎で」ということではなく「日本全国の仇を長崎で」ということですね。

いいえ。「江戸の仇を長崎で討つ」という言葉は、もともと「江戸(などの、一箇所)」に限定した言葉ではないんですよ(笑)。

> そうであるならば、

>>「ルサンチマンの思想家」と言われる、ニーチェも持ち出すまでもなく、「動機としてのルサンチマン」は、それ自体は、何ら問題ではありません。

> ということではなかったでしょうか。そうした憎しみから出発しても、提起した議論の妥当性があれば、アレクセイさんとしては、それで良いのではないのでしょうか。

そうはなりません。なぜなら、はらぴょんさんのご意見の本質(狙い)は、「提起された(一般的な)議論」つまり「見せかけ」の側には無い(=嘲笑という目的にある)からです。
――大西巨人曰く「私怨は公憤に高められなければならない」。
私が『「動機としてのルサンチマン」は』と断っているのを、正確に読んでほしいですね。

そして、この程度のことがわからないのは、「江戸の仇を長崎で討つ」という言葉の解釈と同様、杉澤さんが物事を「自分の都合」でしか語らない人だからです。

>「浅田彰批判」批判について再考します。

> (※ アレクセイが)「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。それと「その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。」という考えは、思想の内容ではなく、思想家が大事である観点からなされた発言であることも明らかです。(アレクセイさんとホランドさんとを切り離し、ホランドさんは浅田彰批判をしていない、という議論をされることはないと信じています)

最後の部分なんか、杉澤さんの本質をよく表わす、じつに「けちな注文」ですね。
「2ちゃんねる」あたりの人も、議論になると、必ずそこを問題にしたがる(笑)。

ともあれ、いずれにしろ、ご指摘のようなことにはなりません。
ここで私は、浅田彰に関する「通説」を紹介しているだけであり、浅田彰が実際にどうか、あるいは、私(アレクセイ)が浅田をどう評価しているか、を語ったものではない。
なぜならば、私は、浅田彰をほとんど読んでいないし、浅田彰批判も笠井潔のものしか読んでいないため、実質的に「浅田彰そのもの」を語れる(どこかへ位置づけうる)立場にはない。端的に言えば「浅田彰を知らない」。つまり、ここに引用された私の発言は、「浅田彰は、一般にこう評価されているそうだが」という「世間の浅田彰評価」に関する話でしかない。
――したがって、この部分をして、私が「浅田彰そのもの」について語った「かのように」持っていくのは、杉澤さんお得意の「(レトリカルな)牽強付会」というやつです。

ちなみに、私の「実感」を説明した文章を、「アレクセイの花園」(3月9日(金)23時36分30秒)から引用しておきましょう。

> 柄谷行人が『探究2』の「註」のなかで、我が意を得た発言をしておりますので、ご紹介しておきたいと存じます。


>『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』(P155)


> つまり、柄谷行人は「世界を、自分の頭で考えたいだけだ」と言っているのでございます。ですから、彼にとって、先行する哲学者は、世界を考えるための「道具」でしかなく、決してそれ自体を珍重するような「権威」ではないのでございますね。したがって柄谷は、それらの哲学者が「実際にどうだった」というようなことには興味がなく、「彼が考えたことは、こうであったとも考えうるし、そう考えた方が、世界をより興味深く考察することができる」と言いたいのでございます。

> 当然、こうした態度は、「専門」であることが「正統」であり、「正統」であることが「権威」を保証するものだと考える「専門家」には、嫌われ疎まれざるを得ません。しかし「そんな俗なことは、どうでもいい」というのが柄谷行人の考え方であり、私の共感するところなのでございます。

つまり、私も、浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』のですね。
そういうことは、そういうことが好きな「専門家」の方に委せておけばいいことで、私たち素人が、読み齧りの半端な知識であれこれ決めつけることではないし、また、いくら知識があったとしても、決めつけることそれ自体、愚かしい行為なのですよ。

> この点を今まで指摘できなかったのは、私の単純な見落としによるものであり、それにより、適切でない解釈をしてしまったことを深く反省しています。

いや、それは「見落とし」ではない。貴方が今回ご指摘なさった論点なんて、そもそも「存在しない」んですよ(笑)。 むしろ「恣意的に間違った解釈を、事ごとしく提示したこと」を反省すべきです。

> あらためて確認しますが、はらぴょんさんが言う、

>>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

>> というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例

> だという評価は、的外れではないんです。

やはり堂々回りですね。
はらぴょんさんの『滑稽な事例』だという判断は、(すでにご本人は理解しておられるとおり)ホランドくんの言葉が「kamuiさんの言葉に向けられたもの」であることを理解できなかったためになされた、「的外れ」なものなのです。
ちょうど、杉澤さんが、ここでした、

> 「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。

という、私の言葉への「誤解」と、まったく同質です。
はらぴょんさんの失敗から学ばなかったのは、杉澤さん貴方ですよ。

>>『私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

>> しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので

>というふうに(実証困難なのにも関わらず)アレクセイさんははらぴょんさんを批難されています。
> kamuiさんの意見をして浅田彰の意見と表現しただけでなく、思想家浅田彰というものを念頭においていて発言した事実を、そうではなかったように隠蔽した上で、さも的外れな批判をされたというように偽装した、とは言えないのでしょうか。ご自身が思想の内容だけが大事なのではなく、思想家というラベルも大事である気持ちを抱いていながら、それを隠蔽したとは言えないのでしょうか。それは「姑息な態度」ではないでしょうか。

最初の「為にする、間違った前提」から導き出された「為にする、間違った結論」としての「為にする、断罪」。

――姑息なのは、杉澤さん、貴方ですよ。
「おふざけ」を演じたり「真面目」を演じたりして、初手からまったく「事実」を語ろうとはしない、「レトリックに憑かれた人」たる、杉澤鷹里の方です。

> アレクセイさんのここでの意見の多くは、ご自身に対しても向けられてしかるべきものです。既に何点か指摘させていただいておりますが、他にも、はらぴょんさんのたとえ話を「主題(元となる事実)を正確に反映するものではなく、実質的には、タチの悪いデマゴギーにしかなっていません。」と批判している議論の流れがある状況において、私に対して向けられたたとえ話「ここには「略奪・虐殺・強姦」された、中国民衆をはじめとする東アジア数十万人の戦争被害者への配慮が、まったく欠けています」はまさしく、そうした類のものだと言えます。ここで言う被害者(とアレクセイさんが念頭においているの)はアレクセイさんのことであり、略奪も虐殺もされておらず(そう解釈するのが非常に妥当な指摘をされただけであり)、また自分できちんとスジを通して発言する能力と機会とを持っています。
> 他人と自分とで、批判の水準が変わることは止むを得ないとは思いますが、あまりにご自身のことを棚に上げて他人のことを批判する傾向が強く、ご注意申し上げたく思います。

相変わらずここには「私はこういう意味で言った」という自己主張しかありません。つまり、私の示した、

> 「日本が大東亜戦争を始めたから、東南アジア諸国は、列強の植民地政策から独立することができたのだ。日本の戦争とは、そういう悠久の大義において、行われたものである」といった議論

という譬喩と、まったく同質の「現実無視の議論」です。

杉澤さんのここでの議論には、私の譬喩が『タチの悪いデマゴギー』にしかなっていないという「論証」が無く、私が、はらぴょんさんの議論について「論駁・論証」的しめした「結論」だけを、「おうむ返し」しているに過ぎない。これはまったく「無内容な告発」です。

しかし、これが杉澤鷹里の実力であるならば、それも仕方のないことでしょう。
杉澤さんにあるのは「ロジック」ではなく、初手から終始、演技過剰の「レトリックだけ」です。

したがって、私はオリジナルの発言者として言っておきましょう。
杉澤鷹里さん、貴方は『あまりにご自身のことを棚に上げて他人のことを批判する傾向が強く、ご注意申し上げたく思います。』。

例えば、私とはらぴょんさんのやりとりを「どちらにも益するものではなく不毛」とか「人格を批判しても無駄」などと「悟ったような態度」を採っていた、あの杉澤鷹里はどこに行ったのか?

ご自分が批判された途端、上のような批判にもならない批判をぐずぐずと列ねるようでは、貴方が最初に示した「寛容を旨とする実際家」というスタンスも、所詮は「はらぴょんさんの覆面弁護人」の「世をいつわる仮の姿」でしかなかったことを、自己暴露するようなものですよ。

貴方の「一貫性」の無さは、はらぴょんさんが辿った経過と同様に、客観的には「致命的」なのです。
ご自分が、はらぴょんさんよりは、状況も見え、弁も立つなんて思ってたら、それは大きな間違いです。
No.302 - 2007/05/30(Wed) 08:32:55

mixi(8)-9 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月11日 15:21

>私やホランド氏に、的外れ且つ下らない嫌がらせをしたのは、かねてからはらぴょんに、私に対する妬みややっかみの感情があり、それが憎しみに近いものとなっていたからこそ、私に好きな小森健太朗を批判され、かつ、はらぴょんさんの小森健太朗評価の甘さを指摘されたことが切っ掛けとなって、専門知識を振りかざすかたちでの嫌がらせにおよんだのであろう」ということです

文意が読み取れず、失礼をしました。つまり、「江戸の仇を長崎で」ということではなく「日本全国の仇を長崎で」ということですね。
そうであるならば、

>「ルサンチマンの思想家」と言われる、ニーチェも持ち出すまでもなく、「動機としてのルサンチマン」は、それ自体は、何ら問題ではありません。

ということではなかったでしょうか。そうした憎しみから出発しても、提起した議論の妥当性があれば、アレクセイさんとしては、それで良いのではないのでしょうか。
「浅田彰批判」批判について再考します。

>>>> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。
(中略)
>堂々回りです。

議論の流れに沿って、ご理解いただけるよう説明しようと思いましたが、根本的に立論をしなおします。

 アレクセイの花園に1月24日、アレクセイさんがなされた投稿です。ホランドさんに向けられたものです。

以下引用

> ――というわけで、園主さまの文章(主に、「ミクシィ」のコミュ【柄谷行人】に発表なさっている文章)を読ませていただいたり、あれこれご教示いただいている「ジャック・デリダの思想」は、けっこう身についているようですね。
> もちろん、原典を読まずにやっていることだから、誤解している部分も少なくないでしょうが、ボクなりに刺激され、役に立っている、というのは間違いないようです(笑)。

いや、私より上手に、デリダを援用してるんじゃないか?(笑)


>  え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。


浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ。その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。
「発達心理学」的な考え方に対する、柄谷行人的な指摘(「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」)も、かなり大胆なもので、おもしろいと思う。「混沌から秩序へ=混沌から自我へ(自我=秩序)」という図式を疑うというのは、かなりデリダ的なんじゃないかな

引用終わり

「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。それと「その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。」という考えは、思想の内容ではなく、思想家が大事である観点からなされた発言であることも明らかです。(アレクセイさんとホランドさんとを切り離し、ホランドさんは浅田彰批判をしていない、という議論をされることはないと信じています)
 この点を今まで指摘できなかったのは、私の単純な見落としによるものであり、それにより、適切でない解釈をしてしまったことを深く反省しています。あらためて確認しますが、はらぴょんさんが言う、

>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

>というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例

だという評価は、的外れではないんです。

>『私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

>しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので

というふうに(実証困難なのにも関わらず)アレクセイさんははらぴょんさんを批難されています。
 kamuiさんの意見をして浅田彰の意見と表現しただけでなく、思想家浅田彰というものを念頭においていて発言した事実を、そうではなかったように隠蔽した上で、さも的外れな批判をされたというように偽装した、とは言えないのでしょうか。ご自身が思想の内容だけが大事なのではなく、思想家というラベルも大事である気持ちを抱いていながら、それを隠蔽したとは言えないのでしょうか。それは「姑息な態度」ではないでしょうか。
 
 アレクセイさんのここでの意見の多くは、ご自身に対しても向けられてしかるべきものです。既に何点か指摘させていただいておりますが、他にも、はらぴょんさんのたとえ話を「主題(元となる事実)を正確に反映するものではなく、実質的には、タチの悪いデマゴギーにしかなっていません。」と批判している議論の流れがある状況において、私に対して向けられたたとえ話「ここには「略奪・虐殺・強姦」された、中国民衆をはじめとする東アジア数十万人の戦争被害者への配慮が、まったく欠けています」はまさしく、そうした類のものだと言えます。ここで言う被害者(とアレクセイさんが念頭においているの)はアレクセイさんのことであり、略奪も虐殺もされておらず(そう解釈するのが非常に妥当な指摘をされただけであり)、また自分できちんとスジを通して発言する能力と機会とを持っています。
 他人と自分とで、批判の水準が変わることは止むを得ないとは思いますが、あまりにご自身のことを棚に上げて他人のことを批判する傾向が強く、ご注意申し上げたく思います。
No.301 - 2007/05/28(Mon) 22:19:10

mixi(8)-8 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 17:55

☆ 杉澤鷹里さま

「2007年03月10日15:30」付けのお書き込みを見落としておりましたので、ここでレスポンスさせていただきます。

> (※ はらぴょんさんは)救いがたい鈍感さですが、それはそれとして一つの個性として楽しめるわけです。やすやすと禁忌を踏み破るはらぴょんさんの鈍感さがあってこそ、少年回廊に小説が投稿され、破壊者の幻想譜が生まれ、ウロボロスの摂動論が生まれた。常人では切り開けない領域を切り開く可能性をはらぴょんさんは秘めていると思うのです。

要は、『鈍感』で「無神経」な人間なら、まともな人間が自制するような「無茶」もできるし、それが「ごく稀に」好結果を呼ぶようなこともあるから、それ以外で、はらぴょんさんに迷惑をかけられた人は「我慢すべき」である。私(杉澤鷹里)も、はらぴょんさんのそんな『鈍感』さや「無神経」さの可能性に憧れるし、被害者のことは脇へ置いておいても、はらぴょんさんの特性を、高く評価したい――ということですね? まったく論外です。

> また、その鈍感さは幼さにも相通ずると思うのですが、例えばホランドさんとの遣り取りで言えば、「王様は裸だ」と告げる子供にも似て、これもまた、常人では切り開けない領域を切り開いていると言えると思います。ホランドさん、アレクセイさんを良く知る人は、面倒を避けて、「裸だ」と言ってあげないからです。

『裸』であるという指摘が正しければ、無用な『面倒』にはなりませんよ。私が真に『裸』であったなら、はらぴょんさんも、追いつめられ謝罪することにもならなかっただろうということです。

つまり「裸の王様」とは、はらぴょんさん自身であり、その事実を「見え透いたレトリック」で隠蔽しようとしているのが、他でもない、杉澤さん貴方です。 ――まったく、貴方らしい「小説家的なレトリック」だと評すべきですね、これは(笑)。
 
> アレクセイさんから意見の提出を要求されている論点はあとは、はらぴょんさんが、好きな作家を悪し様に言われ、「猿真似」を指摘されたことから、、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったという解釈が的確かどうかということでした。
> まあ、ふつうに考えれば、噴飯ものの「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」で終わる話ですが(初めて読んだとき、どうしてそんなことではらぴょんさんは、怒らなければならないのだと頭を捻りました)、検討をしていきます。
>「猿真似」の指摘によって、アレクセイさんを恨んで意趣返しした、ということはないだろうという考えを、その鈍感さを理由に私は表明しています。
> 小森批判がはらぴょんさんの不興を買った可能性を私は否定できません。熱狂的なファン心理というものをはらぴょんさんが持っていることを証左する事例を私はいくつか頭に思い浮かべることができます。そしてその詳細をここでお伝えすることは出来ませんが、熱狂的なアレクセイファンであるがゆえに、アレクセイ批判と捉えられるような発言をした私に対して、筋違いの嫌がらせを、はらぴょんさんはしたのではないか、という事例について、アレクセイさんのご指摘を受けて、初めて思い至ったことを告白します。
>(あれはそういうことであったか。おのれはらぴょん、こんなに長い密な付き合いのある俺よりも、アレクセイのほうを取るとは! 許せん、プンプン)
> で、江戸の仇を長崎で討ったと。うむむ。それを一概に否定できないと私が思うのは、「パラダイムの混在について」をあの時点で発表する契機が何だったのか明らかでないからです。ちなみに私は、「パラダイムの混在について」の初読時、てっきり、私どもが普段話題にしているような評論家が、思想家を並べ立ててカンカン踊りを踊らせる類の評論を(比較的注目されるかたちで)発表したものとばかり思っていました。
> そういうことがなければ、別の解釈が必要となり、実は噴飯もののアレクセイ仮説が意外にも当を得ているのかもしれない、と否定しきれていない次第です。
>(敢えて悪意を見出すなら)「典型的な誤り(と思われるもの)を発見したことから、それを嬉々としてあげつらった」のが主要因ではないかと、私は思ってますけどもね。

これが『ふつうに考えれば、噴飯もの』と評価をする、私の「はらぴょん批判」への『検討』結果ですか?
――『ふつうに考えれば』、ここでは何も証明されていないじゃないですか。

そもそも私の議論は、私の「小森健太朗批判」が『切っ掛け』になったのであろうというものであり、それが「主因」だなどとは、どこにも書いておらず、杉澤さんの議論は「事実に基づかないフィクション」です。

私が、一連の「はらぴょん論」、特に、

・ 2007年02月20日「見解」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のコメント欄所収の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で書いたのは、「はらぴょんさんが、私やホランド氏に、的外れ且つ下らない嫌がらせをしたのは、かねてからはらぴょんに、私に対する妬みややっかみの感情があり、それが憎しみに近いものとなっていたからこそ、私に好きな小森健太朗を批判され、かつ、はらぴょんさんの小森健太朗評価の甘さを指摘されたことが切っ掛けとなって、専門知識を振りかざすかたちでの嫌がらせにおよんだのであろう」ということです。
そして、この指摘は、はらぴょんさん自身が、

・ 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

で自供した「私に対する過剰な興味」の裏返しとして、立証されたも同前でしょう。

それなのに、杉澤さんは、そういう事実にすべて目を瞑り、例によって「おふざけ文体」による「レトリック」で、真面目な批判を「相対化」しようとしています。

これは、杉澤鷹里という文章家の「本質的性格」を考えるうえで、無視できない「顕著な特徴」だと言えるでしょう。

つまり、相手が如何に大真面目に論じていても、自分の都合だけで「おふざけ」を書いたり、かと思えば「真面目」ぶったりする。――これは、相手の議論を「軽く扱う」ことで相対化しようとする時には「おふざけ文体」が選択され、「おふざけ」が過ぎると自分の言葉の信憑性を疑われかねない局面だと判断すると、いきなり「あれは演技でした。じつは」と「真面目」ぶって語りだす、徹頭徹尾「自己中心的」な態度に由来するものだと言えるでしょう。
また、そうでなければ、真剣に怒り、真剣に批判している人に対し、ころころ態度を変えることなど、誠実な人間にはできることではないからです。

杉澤さんは、はらぴょんさんを私の「被害者」として「アレクセイ批判」を書くのだそうですが、

> (※ はらぴょんさんは)救いがたい鈍感さですが、それはそれとして一つの個性として楽しめるわけです。やすやすと禁忌を踏み破るはらぴょんさんの鈍感さがあってこそ、少年回廊に小説が投稿され、破壊者の幻想譜が生まれ、ウロボロスの摂動論が生まれた。常人では切り開けない領域を切り開く可能性をはらぴょんさんは秘めていると思うのです。

などという「トンデモな評価」に象徴されるように、杉澤さんの目線は、徹頭徹尾「被害者には向いていない」というのが、実際です。
ここでの議論も「日本が大東亜戦争を始めたから、東南アジア諸国は、列強の植民地政策から独立することができたのだ。日本の戦争とは、そういう悠久の大義において、行われたものである」といった議論と、なんら選ぶところはありません。つまり、ここには「略奪・虐殺・強姦」された、中国民衆をはじめとする東アジア数十万人の戦争被害者への配慮が、まったく欠けています。――そして、杉澤鷹里さんの議論は、まったくこれと「同質」なのです。

したがって、杉澤さんが「はらぴょんさんを被害者として」などと、例によっての「きれいごと」を書いても、その実際は、自分が勝手に介入した結果、今度は自分が批判されるはめになったことへの、単純反応でしかないというのは、もはや明らかでしょう。
つまり、杉澤さんが、誰かを私(アレクセイ)の「被害者」として「アレクセイ(批判)論」を書くとすれば、その「被害者」とは、杉澤さん本人に他ならず、はらぴょんさんは態のよい「道具」でしかない、ということです。

また、そういう杉澤さんであったればこそ、自身の都合に応じて、

>  私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
>  はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。

などと書く一方で、

> 2007年03月10日12:15  杉澤鷹里

>はらぴょんさま、

> 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
> 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。

などと、無責任に、何とでも書けるのです。

こんな杉澤さんにとっては、中国で「略奪・虐殺・強姦」を行った人が、戦犯として捕らえられ、法廷に引き出されて、なおもあれこれ言い訳した結果、それでも追いつめられて、やっと「あれは私の間違いでした。勘弁して下さい」と謝罪する態度は、『誠意を感じ』るものであり『敬意を表』すべきものとなるのです。

つまり、杉澤鷹里という人にとっては、「略奪・虐殺・強姦」を行ったような人は、精一杯逃げまわり、頬かむりをして沈黙し、バレたら「知らぬ存ぜぬ」で否認するのが、「当たり前だ」ということになるんですね。無論、その際、杉澤さんの念頭には、「被害者」の味わった苦痛など、欠片も存在しない、ということです。
No.299 - 2007/05/28(Mon) 22:10:59

mixi(8)-7 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 16:36

☆ 杉澤鷹里さま

以下にご紹介する文章は、はらぴょんさんの日記ページである、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のコメント欄に、貴兄が

・ 2007年03月07日17:55
・ 2007年03月07日20:14
・ 2007年03月07日21:02

に投稿された文章に対する、レスポンスです。

ご承知のとおり、かのページが重くなりすぎたため、そこでの議論を継続するために立てた、この、

・ 2007年03月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

のページに書き込む予定でしたが、その前に、

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。

とのことで、貴兄の「はらぴょん論」の開幕をつげる書き込み(2007年03月09日00:34)がありましたので、まずは「お手並み拝見」ということで投稿を控えておりました。

しかし、貴兄の「はらぴょん論」が実質的に、開幕早々頓挫したと判断せざるをえない現状となりましたので、この段階で投稿させていただくことにいたしました。

なお、私は下のレスポンスの末尾部分で、

> 今のままでは、杉澤さんは、第三者には「覆面をした、はらぴょんさんの弁護人」にしか見えないはずですよ。
> いくら「人格に踏み込まない」とか「誹謗中傷だけを問題にする」と繰りかえしたって、はらぴょんさんの問題点については、やむなく認めざるを得ない場合を除いては、自分からは積極的な発言を一切せず、ただただ私の発言の「部分」についてのみ、あれこれ注文をつけるだけの現状では、杉澤さんがそうした『手法・対処法』で、問題の「相対化」を図り、はらぴょんさんに不利な状況を「お互いさま」にまで持っていこうとしている、ようにしか見えないし、その意味で、杉澤さんの自己紹介は、第三者には絶対に説得的には映らないはずなのです。

と指摘していますが、残念ながらこれは、的を射ていたようですね。

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☆ 杉澤鷹里さま

>>> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。

>> ユダヤ人の立場からすれば、ホロコーストを不当なものとする弾劾は『妥当なもの』であり、かつ、ナチスの立場からすればホロコーストは『妥当なもの』だった、ということなのでしょうね。戦中、日本軍に「虐殺・強奪・陵辱」された中国民衆の立場からすれば、日本軍の行為を「非人間的蛮行」だとする非難は『妥当なもの』であり、一方、日本軍の立場からすれば、戦中の中国における「虐殺・強奪・陵辱」も『妥当なもの』だったということになるのでしょう。

>> でも、こんな「判断」は、何も言っていないに等しく、態の良い「判断回避の責任逃れ」の「誤魔化し」でしかありません。――まさに、これこそが「悪しきレトリック」です。

> 当該箇所は、「その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
> 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。」です。
> ちょっと繊細な議論になっており、論旨が見えにくいと思いますが(そして一部アレクセイさんの批判もいただいており、そのための補足も必要ですが、方向性の正しさは受け容れられていることもあり)、何も言っていないわけではないことを取り敢えずご確認のほどを。

堂々回りです。また「そこに限って言えば」ですか?
要は、一見「正しい意見」も、それが語られた「文脈」を無視しては、誤りになる、ということです。

例えば、一般論としては「祖国を愛することは良いことです」とは言えるでしょう。でも、祖国が戦争の最中にあり「祖国を愛すること=戦場で敵国人を殺すこと」という文脈が出来上がっている時に、その文脈を意図的に無視して、さも一般論であるかのように「祖国を愛することは良いことです」と「だけ」いうのは、間違いである、ということです。

そして、ここでの杉澤さんによる、はらぴょんさんの意見の「切り出し」方も、まったく同じことだということですよ。
つまり、これは「方向性が正しい」ということですらないんです。むしろ、はらぴょんさんのご意見は、字面こそ「正論」だけれど、その意図したところ(方向性)は、そうしたものではなく、むしろ「方向性を誤ったもの」であった、ということです。


>>『程度』の問題でも、「結果」の問題でもありません。「意図」の問題です。

>>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
>>という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう? また、私の当然の『修正』要求を無視して、さらに私を、
>>> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
>>などと「事実無根」の誹謗を重ねるはらぴょんさんについて、何らかのお考え(評価)はお持ちなのでしょう?
 
> ここには、レトリックがあります。アレクセイさんの要求が妥当になった(と私が考えたの)は、「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言を踏まえてのことです。一方、はらぴょんさんの「パラノ」発言は、それより前のものです。「妥当な要求」を受けてもなおアレクセイさんをはらぴょんさんが「パラノ」だと非難しているかのような錯認を読み手に与えるレトリックを駆使し、「相手を必要以上に貶めようとする陰険な意図」を感じます。


なるほど、そこは前後関係が混乱していますね。でも、それは、本質的な「間違い」ではありません。なぜならば、私はその部分での「前後関係」には誤認がありましたが、はらぴょんさんそのものの評価は、その部分に拠ったものではなく、無論、誤認でもないからです。
つまり、はらぴょんさん本人に関して言うならば、私の「妥当な要求」を待つまでもなく、もともと私が、

> アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
                     (「齟齬の根底にあるもの」より)

> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
                     (「『テロルの現象学』について」より)

と評しうるような人間でないことを「知っていながら」、それでも、こんなこと(誹謗中傷)を書いたという「事実」があるからです。
つまり、はらぴょんさんは、私の「妥当な要求」によって、初めて気づく気づかないというレベル(段階)で、私を「誹謗」していたのではありません。なぜなら、 はらぴょんさんは、私のサイトにアップされた私の評論を、事前に隈なく読んでおられるのですから、私の指摘を待つ(突きつけられる)までもなく、本来ならば、上に例示したような「事実に反する評価=誹謗」を語ることは、事の初めからできなかったはずなのですよ。しかし、はらぴょんさんは現実には、それをヌケヌケと実行してみせたのです。

つまり、杉澤さんが『アレクセイさんの要求が妥当になった(と私が考えたの)は、「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言を踏まえてのこと』だったとしても、それと、はらぴょんさんの認識とは、関係がないんです。杉澤さんは、私の論文を、はらぴょんさんほどお読みではないから、私の『「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言』を待って、初めて私のはらぴょんさん批判の妥当性を理解したのでかも知れませんが、はらぴょんさんについては、初めから理解した上でやっていたことなんですから、私の「妥当な要求」を受けてもなお、パラノ呼ばわりや「発見独占者」呼ばわりをする人だと考えるのは、理の当然であり、事実そうなってもいます。

つまり、私が、読者に対し、わざわざ『錯認を読み手に与えるレトリックを駆使』するまでもなく、はらぴょんさんは、もともとそういう人だというのが、事実に即した、妥当な評価だということなのですよ。


>> すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?

> あたかも誰かが(私かはらぴょんさんかが)「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」と(アレクセイさんに)言ったかのような印象を与えます。「相手の発言・論旨を歪曲しようとする姑息な意図」を感じます。……などと、悪しき意図を、発言の背景に読み手は無数に恣意的に読み取ることができます。そうした点を含めて、「誰しも大なり小なり使用している」と表現させていただきました。


では、浅田彰を批判するのは『構造と力』だけを読めばできる、というのですか? はらぴょんさんの注文は、自分に都合の良い、自分に可能な範囲内でのみ語られています。だから、悪質なのです。

『構造と力』を読んでいなければ、そこからの「引用文」についても評価し得ないとか、『構造と力』を読んでいなければ、笠井潔の思想を理解しているとは言えない、と言ったのは、はらぴょんさんです。そして、そうした指摘に「一定の正当性」を認めたのは、杉澤さん、貴方です。
しかし、その論法で言えば、本来なら『浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ』という方が「まだマシ」ではないですか。自分の読んでいる部分だけを「特権視」する、はらぴょんさんの「ご都合主義的論法」の方が、よほど悪質だということにはなりませんか? 「原著を読んでなければ、そこからの引用文についても論ずるな」という論法は、自ずと「その作家のぜんぶ読んでから発言しろ(1冊読んだくらいで、わかったようなことを語るな)」につながるし、つながらない方が、論理的一貫性の問題として、むしろおかしい。

つまり、はらぴょんさんの要求を「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」と「要約」することは、決して『錯認を読み手に与えるレトリックを駆使』などではなく、「本質抽出的要約」でしかありません。それとも、杉澤さんは「つまり、こういうことだ」「簡単に言うと、こういうことだ」という「要約」が、即ち『錯認を読み手に与えるレトリック』だとでもおっしゃるのでしょうか?
私の「要約」が間違っていれば、それは批判してもいいし、すべきです。しかし、「要約」そのものが「悪しきレトリック」だというような杉澤さんの言い方こそ、「悪しきレトリック」でしょう。

杉澤さんだって、「要約」や「喩え」といった「レトリック」無しに、文章を書いたりはしないでしょう。つまり、レトリックは必要なものであり、だからこそ、杉澤さんのように、何でもかんでも「相対化」して『誰しも大なり小なり使用している』などと言ってはならず、そのレトリックの是非を、個々に問うていかねばならないんですよ。


>> たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

> それは重要な視点です。私も常々自分の取り得る手法、対処法の限界を思っています。

う〜ん、「嘘くさい」言い方だなあー。「私は、人格評価には踏み込まない」とあれだけ明言し、その「建て前」によって、はらぴょんさんの「人格」評価を語らない、ご自分の態度を「正当化」していたのに、あれは、そんなに確信の持てない『手法・対処法』であり、あれは「あの場合は」そうした『手法・対処法』に拠っていた、というだけのことだったんでしょうか。

> ですから、確認すれば、私自身が私に求めている「人格批難をしない」ということをアレクセイさんに求めるつもりはなく、私がアレクセイさんとはらぴょんさんとの遣り取りについて、批判したのは、それが人格についての遣り取りだから、という点ではなく、誹謗中傷である点についてであり、実際、人格についての遣り取りではない部分において具体例を見ています。

これなんか、完全に「嘘」でしょう。本当に、私に「(はらぴょんさんに対する)人格批判の停止」を求めず、ただ『誹謗中傷である点について』だけ語りたかったのなら、どうして、はらぴょんさんの明白な「誹謗中傷」については、すこしも批判しなかったんですか? ――ここで語られていること(自己説明)は、どう見たって、場当たり的なものであり、主張が少しずつスライドさせられている、としか思えません。

> (さらに確認すれば、その具体例では、「互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎ」ということが論理的骨子であったわけですが、それについての反証はされておらず、現在のところ、二人の遣り取りが誹謗中傷の応報である、ということをスジを通して説明できているものと思っています。)

『反証』されていますよ。
はらぴょんさんの『互いに異なる三つの水準での発言』などというものは、「人格」に踏み込んだ私の評価では『互いに異なる三つの水準での発言』でも何でもなく、単に「表層的(字面の)な違い」にすぎません。それを『反証はされておらず』と主張しえたのは、杉澤さんが「人格に踏み込まない手法・対処法」の正しさを、「完全に信じている」という前提に立った場合であり、それがもともと「確信」的なものではなかったということが 判明した今となっては、『反証はされておらず』という主張は、成立しないんです。


> それにしても、こうして、突きつけられますと、

>> たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

> ということは真にそうであると思います。私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。

つまり、ここで語られているのは「やっぱり、私も人格のレベルまで踏み込みことをすることにしました」ということです。となれば、これまでの私の「人格に踏み込んだ」意見についても、「認められない」と言って、評価そのものを拒否したまま放置するのではなく、「人格に踏み込む」ことも是とした「新たな立場」から、改めてきちんと是々非々で、杉澤さん個人の評価を語ってもらわなければなりません。この場合「今までは」とか「これからは」という「恣意的な限定」をご都合主義的に利用して「これからの自分の権利だけ確保しようとすること」は許されない、ということです。


したがって、杉澤さんに求めたいことは、私とはらぴょんさんのやり取りについて、あちこち「切り出し」てきて「文脈無視」であれこれ注文をつけるのではなく、事の発端である「竹本健治作品評価問題」から順を追って、はらぴょんさんは「何を(何ゆえに)誤り」「何を反省すべき」なのかを明確にした上で、私のはらぴょんさん批判の「何が行き過ぎ」であるかを明確にしていくことです。

「それは行き過ぎだ」とか「それは正確ではない」と、「部分」だけを上げつらって注文をつけるという、これまでの杉澤さんのやり方は、ここで人格に踏み込むことも辞さない「全面的な批評行為」に踏みだした以上、もはや許されるものではありません。つまり、ここで自身の判断基準を明示し、「全体」を押さえた上で、是々非々で論じ直さなければならない、ということです。

でなければ、今のままでは、杉澤さんは、第三者には「覆面をした、はらぴょんさんの弁護人」にしか見えないはずですよ。
いくら「人格に踏み込まない」とか「誹謗中傷だけを問題にする」と繰りかえしたって、はらぴょんさんの問題点については、やむなく認めざるを得ない場合を除いては、自分からは積極的な発言を一切せず、ただただ私の発言の「部分」についてのみ、あれこれ注文をつけるだけの現状では、杉澤さんがそうした『手法・対処法』で、問題の「相対化」を図り、はらぴょんさんに不利な状況を「お互いさま」にまで持っていこうとしている、ようにしか見えないし、その意味で、杉澤さんの自己紹介は、第三者には絶対に説得的には映らないはずなのです。

もちろん、ご自身ではそうはお考えでないから、そのように主張なさるんでしょうが、本人がどう思おうと、第三者はそんな「形式論理」だけを都合良く見て、評価してくれるわけではありません。それは、はらぴょんさんのご意見が、ご本人が期待するように読まれるどころか、むしろ私の批判を裏づける「証拠」にしかなっていないという事実と類比的な事実なんですね。
No.298 - 2007/05/28(Mon) 21:54:53

mixi(8)-6 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 15:41

☆ 杉澤鷹里さま

はらぴょんさんの日記、

・ 「たとえ話をふたつ」2007年03月03日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

の方に、

> 2007年03月10日12:27  杉澤鷹里

>アレクセイさま、

> あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
>「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
> という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。

と、コメントしておられましたが、これは、杉澤鷹里的「はらぴょん論」は、これでもう「幕引き」だということでしょうか? 

> 私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。

というお言葉は、当然それにともなう『痛みや労力、リスク』を承知の上で「それでも必要である」との認識に至られた結果だと理解したのですが、どうやらそうではなく、私が、

> 杉澤さんの「はらぴょん論」は、これからまだまだ続くものと期待しますし、この程度でお茶を濁すのなら、やはり杉澤さんは「はらぴょんさんの覆面弁護人」だということになるでしょう。

と、釘を刺しておかねばならないと考えた、「危惧」の方が適中していた、ということのようですね。
つまり、貴方の何度目かの「方針転換」は、場当たり的な『方法・対処法』、つまり「誤魔化し」でしかなかったということです。

言うまでもないことですが、批評というのは、自分が傷つくことを怖れていては、できません。人を傷つけるかもしれない行いを、自分が絶対安全圏にぬくぬくとおさまりながら、やれると思う方が厚かましい(厚顔な)んですよ。――その覚悟がないのなら、「フィクション」だけを書いていて下さい。批評の世界では、お呼びではありません。
No.294 - 2007/05/28(Mon) 16:15:25

mixi(8)-5 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 15:30

 救いがたい鈍感さですが、それはそれとして一つの個性として楽しめるわけです。やすやすと禁忌を踏み破るはらぴょんさんの鈍感さがあってこそ、少年回廊に小説が投稿され、破壊者の幻想譜が生まれ、ウロボロスの摂動論が生まれた。常人では切り開けない領域を切り開く可能性をはらぴょんさんは秘めていると思うのです。
 また、その鈍感さは幼さにも相通ずると思うのですが、例えばホランドさんとの遣り取りで言えば、「王様は裸だ」と告げる子供にも似て、これもまた、常人では切り開けない領域を切り開いていると言えると思います。ホランドさん、アレクセイさんを良く知る人は、面倒を避けて、「裸だ」と言ってあげないからです。
 
 アレクセイさんから意見の提出を要求されている論点はあとは、はらぴょんさんが、好きな作家を悪し様に言われ、「猿真似」を指摘されたことから、、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったという解釈が的確かどうかということでした。
 まあ、ふつうに考えれば、噴飯ものの「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」で終わる話ですが(初めて読んだとき、どうしてそんなことではらぴょんさんは、怒らなければならないのだと頭を捻りました)、検討をしていきます。
「猿真似」の指摘によって、アレクセイさんを恨んで意趣返しした、ということはないだろうという考えを、その鈍感さを理由に私は表明しています。
 小森批判がはらぴょんさんの不興を買った可能性を私は否定できません。熱狂的なファン心理というものをはらぴょんさんが持っていることを証左する事例を私はいくつか頭に思い浮かべることができます。そしてその詳細をここでお伝えすることは出来ませんが、熱狂的なアレクセイファンであるがゆえに、アレクセイ批判と捉えられるような発言をした私に対して、筋違いの嫌がらせを、はらぴょんさんはしたのではないか、という事例について、アレクセイさんのご指摘を受けて、初めて思い至ったことを告白します。
(あれはそういうことであったか。おのれはらぴょん、こんなに長い密な付き合いのある俺よりも、アレクセイのほうを取るとは! 許せん、プンプン)
 で、江戸の仇を長崎で討ったと。うむむ。それを一概に否定できないと私が思うのは、「パラダイムの混在について」をあの時点で発表する契機が何だったのか明らかでないからです。ちなみに私は、「パラダイムの混在について」の初読時、てっきり、私どもが普段話題にしているような評論家が、思想家を並べ立ててカンカン踊りを踊らせる類の評論を(比較的注目されるかたちで)発表したものとばかり思っていました。
 そういうことがなければ、別の解釈が必要となり、実は噴飯もののアレクセイ仮説が意外にも当を得ているのかもしれない、と否定しきれていない次第です。
(敢えて悪意を見出すなら)「典型的な誤り(と思われるもの)を発見したことから、それを嬉々としてあげつらった」のが主要因ではないかと、私は思ってますけどもね。
No.293 - 2007/05/28(Mon) 16:13:38

mixi(8)-4 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 14:04

☆ 杉澤鷹里さま

(どうでもいい)補足です。

> そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。


これを、はらぴょんさんお得意の「たとえ話」にしてみましょう。

「アレクセイの花園」に、ホランド地蔵という美少年を象ったお地蔵さまがあったそうな。園主のアレクセイは、そのお地蔵さまをたいそう大事にしていたんじゃが、ある時、知恵自慢のはらぴょんが「僕は、祟り神と言われているアレクセイなんか恐くないよ」と言って、アレクセイが大切にしているホランド地蔵に小便をひっかけたそうじゃ。それを知ったアレクセイは激怒して、はらぴょんのちんちんを使いものにならないくらいに腫上がらせ「ことによったら、腐って落ちるまで勘弁せぬぞ」と恫喝したそうじゃ。
――ええか、おまえらも、人の大切にしているものに、遊び半分で手を出したりするもんじゃねえぞ。
No.283 - 2007/05/27(Sun) 10:02:19

mixi(8)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 12:33

☆ 杉澤鷹里さま

>  私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
>  はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。


まさか、これで終りではないですよね? これじゃあ立派な、はらぴょんさん「弁護」です(笑)。

なぜなら、はらぴょんさんが「鈍感」なのは「紛れもない事実」だとしても、それが「すべて」ではないからです。
つまり、「鈍感である」と認めることが、「はらぴょんさんは公明正大でなく、清廉潔白でもない」「陰険姑息な隠蔽もする」「江戸の仇を長崎で討ったりもする」「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が(はらぴょんさんの脳髄に)生じ、このような嫌がらせをしようなどと考えるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」などの批判を、否定するものにはならないからです。

「鈍感」ということなら、多くの犯罪者が、ある意味では「鈍感」だと言えるでしょう。例えば、ユダヤ人虐殺収容所の所長だったルドルフ・アイヒマンも、「鈍感」だったと言えば言えるし、それは間違いのない事実ですからね。――でも、それだけじゃあないんです。

というわけで、杉澤さんの「はらぴょん論」は、これからまだまだ続くものと期待しますし、この程度でお茶を濁すのなら、やはり杉澤さんは「はらぴょんさんの覆面弁護人」だということになるでしょう。したがって、

> 私は正直者ですから(笑)

という自称も、おのずと「例によっての嘘偽り(手法・対処法)」でしかないということになり、今度は「杉澤鷹里論」を書かなくてはならなくなるでしょう(笑)。

ちなみに「鈍感」だという評価は、ほとんど「批評家失格」の言い渡しも同然である、という事実も申し添えておきましょう。
杉澤さん、この調子で、正直に「これまでの思い」を語って下さい(笑)。
No.280 - 2007/05/27(Sun) 09:51:23

mixi(8)-2 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月09日 00:34

 さて、アレクセイさんお待ちかねの、はらぴょん論を展開していきます。これまで、はらぴょん論を披露しなかったのは、論理展開上の都合もありますが、はらぴょん論を展開することで自分がお笑いに走ってしまうのではないか、という恐れもあったからであり、はらぴょんさんを救いたいがためなどではなかったことを申し添えておきます。
 ちなみに、はらぴょんさんを弁護する立場であれば、ここのところは非常に簡単に済ませることが出来ます。「はらぴょんさんは公明正大であり、清廉潔白である」「陰険姑息な隠蔽などしていない」「江戸の仇を長崎で討ったりしていない」「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」などと書き連ねたらいいわけですから。
 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
 はじまり、はじまり。
 はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。
No.276 - 2007/05/27(Sun) 09:42:26

mixi(8)-1 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんの日記 続・杉澤鷹里氏との議論 2007年03月07日 21:41

当ページは、はらぴょんさんの日記ページである、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

の「コメント欄」において、杉澤鷹里氏と私との間で交わされた「私(アレクセイ)と はらぴょんさんとのやり取り」に関する議論の続きを掲載するために立てられました。
これは、上の「『テロルの現象学』について」のページのログが増えすぎて重くなり、私の旧式なパソコンでは、うまく表示されなくなってしまったという、純粋にシステム的な問題からです。


なお、杉澤氏と私の議論のテーマとなっている『私(アレクセイ)と はらぴょんさんとのやり取り』については、いずれまとめる予定でおりますが、現時点では次の(はらぴょんさんの日記)ページでご覧いただけます。



(1) 2007年02月10日「『魔』」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、4つ

(2) 2007年02月15日「批評におけるパラダイムの混在」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
    (最初(2月19日)の無題コメントは「謝罪要求と警告」とでも題すべきもの)

(3) 2007年02月20日「見解」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」他

(4) 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」他

(5) 2007年02月24日「齟齬の根底にあるもの」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第2章 はらぴょん批評の「根底にあるもの」」他

(6) 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」他

(7) 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」

(8) 2007年03月09日「後続の走者」(※ 2007年03月10日追補)
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
No.273 - 2007/05/26(Sat) 22:01:09
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