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庵野さんって最初から「それ」だった気はしますね。
>整合性も意味も無い。
彼は「文脈を持つ物語を作る事が極端に苦手な人」ではないかという気がする訳ですわ(苦笑)「絵描き」であり「ストーリーテラー」ではない。場面の演出には能力を発揮しても、それが「どう言う文脈を持っていくのか」みたいな事は基本作れない。
だから其処はすべて「カットバック・アンド・リミックス」の手法でやって来た。先人の数多のストックを「記憶し」(吸収とか消化とか理解ではない。それが出来ないので未消化のまま胃の中で保存して居る)切り取ってそれっぽくコラージュする。でも「実は意味はあんまり理解して居ない」。
「文脈がブチ切れて居て繋がっていない」から「理解不能になる」というのは既にテレビシリーズの頃から頻出はしていた訳ですしね。それでも繋がったのはシリーズ構成や脚本に他のメンバーが加わっていたから。それで形になっていた。
…でも、映画の場合基本、脚本は「スタッフと会議で組み立てたとしても」結局は庵野さん一人に掛ってきますわな。
だからテレビシリーズを踏襲していた序・破は文脈が「辛うじて」繋がっていたけれどそこから離れ出したらどんどん解体して行ってしまう。
「場面」の集合体に過ぎず「物語」として成立しなくなっていく。(そこをサブカルの連中は「ボストモダン」と評した訳でしょうけれどもね 苦笑)
シン・ゴジラでも同じ様な事は見られましたしね…「雰囲気」を作るのはすごくうまくても「会話の内容は紋切り型であまりに薄い。思想や政治を語っているようでも中身が無い。」
(余談になりますが、今回シン、出してきた演出も実は半分くらい「あら、予想が当たったわ」みたいな物がありましたね。Qの予告編から「民間人生存者の難民キャンプか村的な物は出てくるのじゃないか」「もしかしたら成人したトウジや委員長も其処に居るかもしれない」「そこに流れ着いたシンジがひっそり暮らし始めるが何らかの理由で再びエヴァにのるとかそういう展開になるのでは」…あまりにまんまで笑いましたわその辺は 汗)
>裸の王様症候群
むしろ「東浩紀の言う所の『動物化するポストモダン』みたいな現象に乗っかってる」感がありますね。
嫌な言い方をすれば「観客、というか今の日本人は文脈を読む能力が低下している・むしろ脊髄反射で特定のタームや記号に反応するだけになった。昆虫の様な世界で生きている」昨今の状況(ネットウヨクやトランプ現象、あるいはラディカルフェミニズム的な言葉狩りにも通じる)と言う様な部分に「作り手側が胡坐をかき」、適当に記号を並べる事で「作品」として通用すると思うようになった、とかね。
「観客が文脈を求めず、理解せず」「脊髄反射だけで評価を決める」なら作り手側は全く「向上しない」。
今のヲタク文化が袋小路に入っている、というのは何人もの評者が語って来た事ですがまさにそんな感じになっている。
>現実の女
EOEにおいて「明らかに典型的なアニメ文脈上のキャラクターであるアスカ」について、何を勘違いしたのか「他者の象徴」みたいに解釈した方面を見て「違う違う、そうじゃない」とやる為に今度は徹底して「キャラクター性といったものとは異質な機械仕掛けの狂言回し」にあえてその役をやらせたと言う解釈は成り立ちますね(苦笑)
マリは「キャラクター」と言うより「トリックスターと言う装置」そのものと言っていい訳で其処に「パーソナリティ」は求められていない様にも見える。
宇部新川駅の「反対側のホーム」に他の主要キャラを置いて、対岸から「駅を出る」構図にしたのも『虚構側』(当然、対岸のホームから出る列車は上りと下りが反対、つまり逆へ行く)と『リアル側』が離れていく、そしてついに其処から「作者が降りて物語の呪縛から自由になる」って演出なんでしょうし。
(ただし、作者はそれで自由になるだろうが結果的に観客はそこに取り残される事になるんですけどね 苦笑 憑きものから解放されたのは作者本人だけで、観客の憑き者についてはむしろ落とす事を放棄して逃亡したに等しい 苦笑 観客の憑きものをちゃんと落とすためには「物語の文脈をちゃんと成立させて納得のいく完結を見せる」しかないのにねえ…)
まあ、アスカと言うキャラについては「現実の他者のアイコンだ?ちゃうちゃう。あれは完全なる虚構の側のアニメキャラ。その典型。お前等があんまり固執するからいい加減にしろ、って旧劇でやったのにキモヲタに都合のいい解釈をこじつけやがって。二度とそんな馬鹿な真似できない様にこんどはきっちり教えてやる」みたいな姿勢で描いてるっぽいものは感じましたね、確かに(苦笑)
そしてそれをやる為に「マリ」は「キャラクター」ではなく「其処が欠落した機械仕掛けの狂言回し」にするしか無かったんじゃないかと(苦笑)
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No.51 2021/03/19(Fri) 02:21:11
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