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母の日の放送日に合わせてのお母さんエピソード。 ですが、母親そのものへの思慕をダイレクトに描くのではなく、 お母さん代わりをしているななみの重圧と孤独の方にウェイトを 置いた作りになっていました。デザトリアン化した時のななみの 台詞も、母親への思いもありましたが、基本的には自分へ 掛けられたプレッシャーへの悲鳴でしたね。 心の花が籠の中に閉じ込められている、というのも、彼女の 演じている役割と実際の内面との乖離がわかりやすい描写でした。 つぼみがいつものように(笑)キレていましたが、つぼみ自身が かつて両親との関係で、「かくあるべき」といういい子の自分を 演じ続けて壊れる寸前だったことを思うと、今回のななみの 心情には非常に共感するところがあったのではないかと思えます。 しかしもちろん大前提にあるのはななみの母親への思いであって、 心の花がカーネーションであることにそれは如実に表れても いますよね。 本編ではずっと顔に影が掛かっていた母親が、浄化されたあとの 回想では顔が出てきている、という演出からもそれはわかります。 ななみの、「笑顔が一番」というキーフレーズを繰り返して、 次第にその語義とは反対の内面の切なさを強調して行ったところで 「どうして笑顔が一番なんだっけ・・・?」というのはかなり 見ている方の心にも響く展開でした。解決後、その言葉が 母親から与えられた思い出だったと判明するのもいい構成で、 今回は内面の描写がなかなか丁寧でしたね。 前回の、ゆりと母親の関係とはまた違った母と娘の結びつきを 見ることが出来たように思います。 しかし、こういったシビアな話において、やはり砂漠の使徒連中は いい息抜きになります(笑)。特にコブラージャは、重い話の 時には必ずいい役回りを演じてくれますね(笑)。実際、砂漠の 使徒たちがいてくれることで、物語的に過度に重くならずに いいバランスがとれているのでしょうね。 [No.1024] 2010/05/09(Sun) 09:51:50 |