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新作ハピネスチャージの予告が初めて流れました。ベストの黒色が デザイン的にはなかなかインパクトがありますね。オールスターズ NS3とも合わせ、どんな作品になるのか楽しみです。 さてドキドキ本編はクライマックス直前。ネタばらしというか 設定解説のエピソードでした。キングジコチューの正体は トランプ王国の国王にジャネジーがとりついたもので アン王女の心の二つの部分が亜久里とレジーナに分かれており その器がアイちゃんだった、という関係でしたね。 キングジコチューのネーミングが、ジコチューのキングであると いう意味と、トランプ王国のキングがジコチューになったという 意味のダブルミーニングだったのはちょっと面白いところですね。 娘のために禁忌に手を染める、という行動は、つい先ごろまで 放送されていた30分前の番組にもそんなことをしたお父さんが いましたが(笑)、やはり究極の選択の一つではあるのでしょう。 そのキングの行動は、表現的にはプシュケーが黒く染まる形で 表されてはいましたが、レジーナの言葉通り、それは大いなる 愛情の一つの形でもあって、一概に否定や浄化の対象となるべき ものともいいがたいものかもしれません。自己中という概念の 価値相対化は、ドキドキの作中でも幾度か匂わされていましたが (プリキュアの中にもジコチューの心があると明示した24話など) それが前面に打ち出されたという感じですね。レジーナの瞳が 蒼く戻った上でなおキングジコチューサイドに付く、という ある意味衝撃的な展開からも、ジコチューを否定しきるものでは ないと言う製作側のスタンスが見える気がします。 もっとも、巨視的に見ればやはり王の行動には疑問が残る でしょうし、またキングジコチューを倒しきれなかった王女の 戦い方や、さらにベールに問い詰められ回答を出しきれずに 一時の逃避とも言うべき自己の分割を図った彼女の行為も 色々と問題は残りそうですけれどね(笑)。とはいえ、 いわば作中に置いて絶対視・神聖視されてきたアン王女の、 善悪を問われて答えを出しきれない迷いや弱さ、と言った部分を このクライマックスで描くというのも面白いところでは ありました。 それはつまり愛情に基づく行為だからと言ってすべてが善果を 産むわけではないことを意味しますね。 ジコチューと愛は表裏一体という言葉の通り、自己中が必ず 否定されるべきものでないと同時に、愛もまた必ずしも全面肯定 されるべきものでもないのではないか、というスタンスは、 愛の戦士たるプリキュアという作品において、なかなか 大胆な問題提起とも言えるのかもしれませんね。 そういった愛のネガティヴな側面を描く、という部分は ドキドキにおいては、10話の嫉妬回や、22話でのレジーナの 疎外感など、シリーズ一貫して提示していたテーマでも ありますけれど。 [No.2625] 2014/01/05(Sun) 10:14:02 |