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キングジコチューとの決戦。しかし次回にはまだベールとの ラストバトルが残っているようですね。次回を見てみないと 分かりませんが、そういった二段構成にする必然性は あったのかどうか、というのは気になるところです。今回が それなりにきっちりとまとまっていただけに、ベールを 適当に(笑)改心させて、今回のバトルで最終話、という形でも 特に物語上問題はないようには見えるかも。プリキュアSSが 同じように敵幹部がラスボスでしたが、あれはボスが最初から 傀儡だったという展開なのでドキドキの流れとは異なりますしね。 改心、という部分でいうと、やはりマーモも具体的な心情変化は 描かれませんでした。イーラが丁寧に描写されているだけに もったいないところではありますね。おそらくマーモも生存は できるのでしょうけれど、そこに至るまでの説得力という意味では イーラに裂いた描写の半分でもマーモに使ってあげればいいのに、 と思わなくもありません。 まあ、マーモは純粋に小物じみた自己中キャラですから(笑)、 これ以上戦うことに利益がないと知ればあっさり戦いを放棄しても おかしくないとはいえ、それはそれで説得的ではあるのかも しれませんね(笑)。 さて本編。 全世界に自分の正体をバラすマナの姿がまず最初のインパクト でした(笑)。ドキドキの場合、周囲の人間を危険に 巻き込まないために、という理由で正体を隠していたわけですが、 これが最終決戦なのですからもうバラしても問題ないことには なるのかも。もっともマナの場合、そういった理屈で物事を考えて いたのではないでしょうけれどね(笑)。 かつてトランプ王国でレジーナを助けたときもそうでしたが、 マナは「生徒会長相田マナである自分」という存在に、自分自身で 強く依拠しているところがあるように見えます。マナの正体暴露 宣言も、自分自身に対して、自分は生徒会長相田マナなのだから 大丈夫」という自己暗示を掛けていたと解することもできるかも しれませんね。 冒頭で「私は大貝中学生徒会長相田マナよ!」と宣言し、 そしてラストでは「私はみなぎる愛キュアハートだから!」と 対応させていたのは面白いところですね。 王様を救いに行く、という行動原理自体は、「レジーナの友達」と しての「マナ」の行為。そして、ジコチュー細胞と戦う行動は 「伝説の戦士」である「キュアハート」の行為、と言う役割分担を 為していたというところでしょうか。もちろん、マナ自身が明確に そういった使いわけを意識していたわけではないかも しれませんけれど、物語的にはそのような解し方ができるかも しれませんね。 次なるインパクトはロゼッタバルーンによる巨大ランス(笑)。 よりによってラストバトルでギャグ展開というのは何とも チャレンジングな作りですね(笑)。キングジコチューがお約束の ようにランスの耳食べてましたし(笑)。 捉え方によってはこうしたコミカルなバトルを入れるのは 全体のバランスを崩す危険性もあったかもしれませんが、 直後にプリキュアたちが次々と脱落していくシビアな展開が 入るため、その衝撃を和らげるクッションとして挿入されたもの なのかもしれません。 ロゼッタに続き、ダイヤモンド・ソードと「ここは俺に任せて 先に行け」パターン。王道ではありますが王道であるがゆえに 使いやすい展開でもあるでしょう。 ダイヤモンドが自らごと敵すべてを氷結させた場面は、 セーラームーン無印のラスト展開を思いだしたりも。もっとも、 そこで一度は本気で死なせるのがセラムン、その話のうちに 生還するのがプリキュア、という作風の違いがはっきり分かる ところでもありますね。 最後まで王子のツバメとしてツバメの役割に殉じる六花の 姿は胸を打ちますが、ラケルもまたそのとき同時に自らを 犠牲にする覚悟を決めていたことになる、というのも 見逃せないポイントかもしれません。 ソードは今回はバトル的にもテーマ的にも大きな役割を果たし ました。ジコチュー細胞との戦いに約束通り追いついて ハートを守るソードは、かつてトランプ王国での戦いで誰も 守れなかった、という姿の対になるものでしょう。そして トランプ王国民が王を許すのか、という重い問いかけに対しても はっきり答えることができる唯一の人物でもありますね。 「愛に罪はなく、悪いのはそれを利用した存在」というソードの 言葉は一面の真理でもあり、そしてそれがドキドキにおける 国王へ免罪符を与えるための、作品としての回答でもあるの でしょう。しかし論点のすり替えではないか、という思いも ちょっと捨てきれないところではあります(笑)。国王の場合、 自分から進んで封印を解きに行っているわけですし、それは 利用されたと言っていいものかどうかという気はしますね(笑)。 またそういった作中描写の問題とは別に、作品のテーマとして 「愛に罪はない」ではなく、「愛にもまた罪はありうる」と いう部分まで踏み込んで欲しかった、という気もします。 ドキドキはこれまで、愛のネガティヴな部分を描写することを ためらわない作品であっただけに、最後の最後で愛の価値を 全面的にポジティブ評価をしてしまうのは、テーマとして 後退した感があり、やや残念なところかもしれません。 とはいえ、まだ最終回が残っていますからね。 物語としてもテーマとしてもどのような決着が待っているのか、 楽しみに待ちたいと思います。 [No.2632] 2014/01/19(Sun) 10:24:17 |