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結局素直に話し合えば事態は丸くおさまったよねということに なるんですよね。たったそれだけのことができないが故に多くの 悲劇が生み出されてしまったというのはある意味喜劇でも あります。そういった喜劇と裏返しの悲劇を描くという意味 では、今回の、あまりにもあっさりとした和解劇もまた、しょせん その程度のわだかまりで人は殺しあうにすぎない、という皮肉を 描いて見せているのかもしれません。 その出発点から、人はわかりあえないというダークな方向で 物語を作ることもできたのでしょうが、そこを乗り越えて あえて和解の道を選びうるというのが00の一つの回答でも あるのでしょうし、人工的に栽培されたイノベイターである 刹那という要因も、人の分かりあいを提示するためのただの道具、 きっかけにすぎないのであって、彼がいなければわかりあえない わけではない、という方向に話を持っていくことになるのかな。 ……まあ、ビリーが簡単に籠絡されるさまは、ある意味非常に 彼らしいという気はするのですが(笑)。さまざまな点において ビリーの幼児性というか、年の割に成長できていない部分は 描かれていましたからね。よく言えばとても純粋、ということに なるのかもしれませんし、だからこそグラハムと通じ合うところが あったりもしたのでしょうね。 [No.699] 2009/03/27(Fri) 20:11:55 |