>碁はとても難しいゲームで時間制限のこともありトップ棋士と言えどもなかなか完璧には打てません。実は高永夏を負かす手がありました。下辺に飛び下がりを打ち込んで下辺右への渡りと左下隅の生きを見合いにする手です。たしかに一手30秒の秒読みの中で読みきって打つのは困難です。でも原作で倉田さんが明日のあいつなら逆転の手に気づくって言ってくれたのにヒカルが負けた話の流れは納得いかなかったなあ。時間が足りなくても倉田さんや桑原本因坊みたいに直勘で打てるように鍛えないといけません >ヒカルびいきの河合さんは整地してみないと勝敗がわからないようなことを言ってましたけど、碁は自分の陣地が一目減ると相手の陣地が一目増えますから出入りは二目ずつになります。整地する前の残りの駄目が偶数ですからヒカルの半目負けか二目半負けか四目半負けか、あるいは一目半勝ちか三目半勝ちかいずれかです。でも細かい勝負で一目半も勝っているとはとても思えませんからヒカルには整地する前から半目負けだとわかっていたはずです。無論高永夏も半目残ったと確信していました。だから永夏は自信混じりの微妙な表情をしていたわけですけど、碁のことをあまりよく知らない小畑健先生があそこであれだけ微妙な表情を描いたのは奇跡的なことでほんとうに驚かされます。そんなわけで和谷くんたちにも整地する前にヒカルの半目負けと予想がついていました。整地はあくまで確認作業にすぎません。日本の囲碁界では寄せまで打ち切って整地するのが礼儀ということになってますけど、ここ20年くらいの韓国と中国の棋士は半目勝負でも負けとわかったら投了してすぐ検討に入ります。碁が強くなるためには検討に時間をかけるのが合理的です。整地する時間も惜しんで作戦を研究するということです。saiに負けた塔矢名人、ほんとうはsaiと対局した後、検討がしたかったんじゃないんでしょうかね。
作品にはいろんな楽しみ方があると思います。ヒカ碁は実際の対局などもたくさん用いて、リアルな描写をすることで、物語に厚みや、説得力を増しているのは事実だと思いますし、そういった個別的な対局の内容を追求するのも、ヒカ碁の楽しみ方の一つだと思います。 しかしながら、そうした議論をなさるなら作品探求系のサイト様のほうがよろしいかもしれません。・・・とは言いましても、そうした探求系サイトが今は少なく、活発でもない現状で、残念なことだと思います。 ちなみにウチの娘は現在アマチュア三段ですが、まだ微妙な対局は整地しないと勝敗は分からないそうです。アマチュア三段でも分からない勝敗に、一般の読者の大多数は気付かないでしょうから、その辺の専門的な追求ということになりますと、二次創作サイトである拙サイトは、門外漢というより他ありません。 「ヒカルの碁」は、碁を題材にしていますが、「碁」という限られたジャンルを遥かに越えた、人間にとって普遍のテーマ、楊海さんの言葉「なぜ生きてるのかも・・・」にも通じますね・・・を、持っていると思います。物語の持つ「碁」の枠を越えた普遍性がすばらしいからこそ、多くの碁を知らない人が惹き付けられるのだと思います。当サイトでは、そうしたヒカ碁の物語性にこそ、魅力を感じる方が、拙作を楽しんでくださっているものと受け取っております。
ヒカルの負けについて・・・。 これから鍛えていくということなんではないでしょうか? あそこでヒカルが負けなければ、「ヒカルの碁」は名作たりえなかったと私は信じています。 15歳で・・・、佐為を失って一年で・・・というより、そんなに簡単に、・・・つまりコミックの巻数にして、佐為が消えてから、8冊目で・・・いえ、具体的な長さを上げてもナンセンスなんですが。感覚的に・・・ですが、あの内容的流れで、というのは私には「簡単に」感じます、そういう意味で「簡単に」、強敵永夏を負かす手に、気付けてしまうヒカルに読者がより惹かれるとは、感動するとは、あくまで私には、ですが、思えないのです。 未だその手に気付けないヒカルだからこそ、未来に続いていく道を、明るい光の中に感じさせてくれます。私にとっては。 「終わりなどない」というアキラの言葉も、楊海さんの「なぜ碁をうつのかもなぜ生きてるのかも一緒じゃないか」も、そしてヒカル自身の「遠い過去と遠い未来をつなげるために そのためにオレはいるんだ」も、すべてヒカルの負けがあってこそ、輝きを放つ言葉のような気がします。 |
No.3059 - 2011/07/07(Thu) 03:20:48
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