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このたび行われましたcaboの(朔)夏公演のうち、8月25日の方に行き1観客として私が感じたままを是非書きたいと思います。 まず、全体の印象としてはメリハリと緩急に富みシリアスとユーモラスを交えながらもまるで混沌の濃霧に鋭く差し込む朝日のように朔太郎と青猫との魂のやりとりのシーンが表現されていて、私が初めて行った2月の公演の時のように私の中ではリズム感として捕らえていた時点から、今回の物で新たに観客への投げかけとしてのメッセージが込められているように強く感じました。 一つは相対する概念として、to be or not to be.、生か死か、有か無か、表か裏か、これらの問いかけの狭間でもがき苦しみながらも真実の自分を探し続けた朔太郎のありようと、実は自分たちもデジタルな社会の中で1か0かを常に迫られている切迫感につぶされそうになっている現実においては、朔太郎と同じなのではないか。そのように感じました。 具体的に印象的な物としては、何のために生きているのかと自問自答しつつも、言葉を生み生き続けることをやめられない。やめることを許されない宿命的人生に逆らいつつ流されながらも快楽と堕落のどん底でもがき苦しむ。この事は正直なところ人ごととは思えない感覚でした。 もう1点、この世は回り回りて繰り返される。しかし同じ場所には戻ることはない。そして青猫のセリフにあった「死ぬまで生きろ。境を超える時にちゃんと生きたと言えるように生きろ」というメッセージに心改められた思いがしました。 さらに、朔太郎の精神についても触れる事ができかねてからの疑問が解けた感じです。一見するとぐにゃぐにゃで混沌としていてつかみ所のない物。だからこそ真実はその中にのみあり、朔太郎自身は無意識のうちにそれに気づき生涯をかけて探し求めていたのではないか。目に見えて耳で聞こえて膚で触れることのできる概念に振り回されがちな自分たちへのメッセージとして、五感のみでは本当の真実を知り感じる事はできないという事なのかもしれない。(朔)の公演を通して改めて教えられた瞬間でした。 他にも室生さんの豪放磊落な酔いどれぶり、居酒屋の女将さんの明るさの中にある妖艶さ、ぽんきち君の成長ぶり。思い起こせば切りがないほど、他のキャストの皆さんもお一人お一人印象的なシーンとして残っています。 当日は私自身体調が今ひとつだった事もあり、また舞台を見る事ができないだけに耳で聴き膚で空気を感じるのみの感想でダンスの事などビジュアル的な事をも感じ取れたら…という歯がゆさもあるのですが、それ以上にこうして2月に続けて見る事のできた喜びと誘ってくれた友達への感謝の気持ちでいっぱいです。私自身はミュージカル初心者ですし音楽的センスもさっぱりな方ですからうまく言えないのですが、今回のは曲数が増えた事もありさらにレベルの高い内容だったと思っております。それに、演じておられる皆様の歌のうまさのみならずその合間にどのようにセリフを加味するか、そのどちらをも声量と明瞭さをどれだけはっきりとした物にしていくか。皆さん全員がそれらをも含めてチャレンジしつつアグレッシブにエボリューションいわゆる「積極的進化への挑戦」を目指しているように感じました。 結びに、演出脚本の平戸様を初めメンバーの皆様やスタッフの方々、また会場の内外で共に接して下さった方々にもこの場をお借りして感謝申し上げます。誠にありがとうございました。 |
-- #317 08/29(Wed) 12:00:02 |
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高野様 ご来場誠にありがとうございました。 終演後にお客様のお顔を拝見したり、お話をさせていただいたり、またこのように書き込みをしていただけることが、私たちの財産であり活力であります。本当にありがとうございます。 5年間、公演を重ねながら、たくさんの方たちと出会い、caboのスタイルがなんとなく確立しつつある現在のcabo。今回の公演が終わったとき、今までにないかんじで感慨深くなってしまいました(笑)続けてきてよかったと。 まだまだ続けていきたいです。まだまだ面白い作品を作っていきたいです。 どうか、今後ともcaboをよろしくお願い致します。 |
-- #319 08/29(Wed) 22:29:27 |
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高野さま
リクエスト通り(?)、感想の書き込みありがとうございます♪ 前回の書き込みを読んで是非お話を伺ってみたかったので、今回お会いできてとても嬉しかったです。 あの時にお話することで頂けた言葉は、私にとっての宝物です。
舞台には「ここまで行ったら終わり」というものはなく、常に進化をつづけられる物だと思っています。 それは皆さんと「公演」を行い、反応を得、また作品に立ち戻ることの繰り返しによって可能になります。 今回、2月の公演を経て「朔」の進化を感じていただけたならば、その実証に少しでも近づけたのではないかと思います。
さて、「朔」への御考察ありがとうございました。 そうですね、この物語は朔太郎の半生の入れ子の中に、二項対立だったり、近代的自我の確立への疑問だったり、月の満ち欠け(公転)のモチーフだったり、いろんなことを盛り込んでみました。 資料を漁り、舞台化を目指す上で「人は一人で生まれて一人で死んでいく」という不変のテーマの中で、朔太郎さんは、ことばを生むことで「生まれてから死ぬまでの「生きている」という状態、その時間とは何か」という永遠の謎に挑もうとしたのではないかと考えたためです。 (もちろん研究者の方々からは鼻で笑われるような意見かもしれません。。あくまで作劇上における私の問題設定です。) この謎は鋭すぎる感覚と言い知れない恐怖感を持つ朔太郎さんなりの方法で説かなくてはなりません。つまり、狂気すれすれの苦悩と周りの人を顧みない内面への没入をもって。そこで、青猫を設定しました。 青猫は朔太郎さんが生みだした謎解きの相棒であり、謎解きのため神経を疲弊させ生の淵から転落しそうになる朔太郎さんを引っ張り戻す生の欲求(青いところが朔太郎さんの個性ですね)として存在します。青猫の正体の追及がそもそも謎解きでもあります。 そうして、青猫と朔太郎は一人が流されつつ、もう一人が引き戻しつつ、川の流れのような人生の時間を過ごしていく中で、いろいろな人に出会い、付き合い、ついには別れを迎えて、謎を解いていく・答えを発見していくという物語が出来上がりました。
ちなみに室生さんはその朔太郎を同じ岐路に立つ者として理解し、同時に自分とはまったく異なる性質を持った生の探究者(文学者)として認める、青猫とは違った意味での朔太郎の相棒の設定です。 室生犀星さんはご本人の著作を見て、素直な人柄を感じました。ほっこりするというか。今回の作品で著作に触れることができて光栄な文学者No.1です。あんなキャラクター設定をして怒られそうですが、ご本人もかなり器用な性格だったのではないかと思いました。
二項対立については高野さんが全部書いてくださってますね。現実でも誰もが晒されている命題です。 近代的自我の確立への疑問は、実際の萩原朔太郎さんの思考とはかなり違うかもしれません。ご本人は「詩」で身を立てること(職業詩人というんでしょうか)を望んでいた節もあるみたいです。 月のモチーフは少し救済の意味もあります。一寸先は闇で光の見えない恐ろしい人生が、元の場所(朔)に却っていくものだったんだと気付いた朔太郎さんの「なーんだ」という安心感と淋しさがそれです。そうして人生の終わりにも気付く訳ですが、同時にそれを伝えるべき葉子さんがいることにも気付くのです。
結局答えは何なのかというと、随所に生まれる「気付き」を逃さず捕まえてそこから進んでいく自分だけの時間、ということになるでしょうか。。
書きなぐってしまってすみません。 頼まれもしないのに演出ノート大公開になってしまいました。 そんなこんなを入れ込んだ劇ではありましたが、それをどうとらえるか、面白いと思うかはお一人お一人の自由です。 いつも面白いと思ってもらえたかをどきどきしながら見守る立場として、こうして思いを伝えて下さることは本当に励みになります。 まだまだmusical unit caboは止まりません。 今後もどうぞよろしくお願いいたします。 |
-- #321 08/30(Thu) 13:46:12 |
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